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大悲菩薩は無量の手や眼を用いる『第十八観音』18-2-2a(正法眼蔵)

〔『正法眼蔵』原文〕

  いはゆる雲巌道の「大悲菩薩用許手多眼」は、

許多アマタの道、たゞ八万四千手眼のみにあらず、

いはんや十二および三十二三の数般スハンのみならんや。


許多はいくそばくといふなり。


如許多の道なり、種般かぎらず。


種般すでにかぎらずは、無辺際量にもかぎるべからざるなり。


用許多のかず、その宗旨かくのごとく参学すべし。


すでに無量無辺の辺量を超越せるなり。


いま雲巌道の許多手眼の道を拈来するに、

道吾さらに道不著といはず、宗旨あるべし。



〔『正法眼蔵』私訳〕

雲巌が言う「大悲菩薩用許多手眼」(大悲菩薩は無量の手眼を用いる)の許多の言葉は、

単に八万四千の手や眼だけではない、まして十二面や三十二相(仏が具えている32種類の身体的特徴)、三十三身(相手に応じて変身する33種類の姿)の数だけではない。


「許多」とは数多くという意味である。数が多く種類を限らないのである。

種類を限らないから、無限という量にも限らないのである。


「用許多手眼」の数のそのおおもとの意味をこのように参学すべきである。

すでに無量無辺の領域を超越しているのである。


今雲巌が言う「用許多手眼作麼」の言葉を取り上げて、

道吾が決して「道イい足りない」と言わないのには、深い意味があるのである。


大悲菩薩は無量の手や眼を用いる『第十八観音』18-2-2b(聞書抄)

 

                          合掌


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