〔『抄』原文〕
「 いはゆる雲巌道の大悲菩薩用許多手眼は、許多の道、ただ八万四千手眼のみにあらず、いはんや十二および三十二三の数般のみならんや。許多は、いくそばくといふなり。如許多の道なり、種般かぎらず。種般すでにかぎらずは、無辺際量にもかぎるべからざるなり。用許多のかず、その宗旨かくのごとく参学すべし。」
此「用許多手眼」の「数般」いくらと限べき際なき所 を、
「用許多手眼」とはあけらるゝなり。能々可心得事なり。
「雲巌道の許多手眼の道を拈来するに、道吾さらに道不著といはず、宗旨あるべし。」
是は、「雲巌」の「許多手眼」の詞、「道吾」さらにきらはずと云心なり。
「薬山」下にて「雲巌」「道吾」四十年之間同法とは云ながら、相互無隔心法を談ぜし人なり。 共に 「雲巌」の「用許多手眼」の詞をば、「道吾」「道不著といはず」、「道吾」証明すと云なり。
〔『抄』私訳〕
「 いはゆる雲巌道の大悲菩薩用許多手眼は、許多の道、ただ八万四千手眼のみにあらず、いはんや十二および三十二三の数般のみならんや。許多は、いくそばくといふなり。如許多の道なり、種般かぎらず。種般すでにかぎらずは、無辺際量にもかぎるべからざるなり。用許多のかず、その宗旨かくのごとく参学すべし」とある。
この「用許多手眼」の「種般」がいくらと限るべき際がないところを、「用許多手眼」と挙げられるのである。よくよく心得るべきことである。
「雲巌道の許多手眼の道を拈来するに、道吾さらに道不著といはず、
宗旨あるべし」とある。
これは「雲巌」の「許多手眼」の言葉を、「道吾」は決して斥けないという意味である。
「薬山」のもとで「雲巌」と「道吾」は四十年間同じ法を修行してきたとはいえ、互いに心に隔てなく仏法を談じ合ってきた人である。
ともに雲巌の「許多手眼」の言葉を、「道吾」は「道イい足りない」と言わないで、「道吾」はそれを証明したと言うのである。
〔『聞書』原文〕
/十一面観音常儀なり。十二面観音本「観音」の一面を具足して「十二面」なり。「三十二三」身あり、子細如面。
面ぞ身ぞにつきては、「数般スハン」と云詞あり。是は別義なし、「数」をあげらるゝなり。又「種般」と云詞あり、是は「数」をあげずしなじなありとなり。
/「遍身」と云は、此遍も能遍所遍を作らば、有際限。
我が不覚不知ればとて、遍を世間の遍満には心得まじ。総て分量には不可拘。
恒河砂と云も、たとへば大河の沙のおゝきにてこそあれ、我らがかぞえつくすまじければとて、非無辺際。恒河の外の河もあり、砂もあるべし。
東方万八千土を照と云も、已際限きこゆ。
仏は能放の仏、光明は所放の光明と覚ゆ、いまの「許多」には不可及なり。
有量の無量、無量の無量と云事あり。有量の無量は色相の仏の寿命なり。
無量の無量と云は、法身の仏の寿命なりと云ふ。是は猶又有無の見解を不離。
宗門にはことなり、寿も命と許は不心得なり。
〔『聞書』私訳〕
/「十一面観音」は通常の姿である。「十二面観音」は、本の「観音」の一面を加えて十二面である。「三十二身」「三十三身」があり、その子細は面と同じである。
面や身については、「数般スハン」という言葉がある。これは特別な意味はなく、単に「数」を挙げているだけである。また「種般」という言葉もあるが、これは「数」を挙げず、様々な種類があるというのである。
/「遍身」とは、この「遍」も広く行き渡るものと、広く行き渡られるものを作れば、際限があることになる。自分が気づかず知らないらといって、「遍」を世間の「遍満」と解してはならない。総じて物の量にこだわらないのである。
恒河砂(ガンジス河の砂)というのも、たとえば大きな河の砂の数が多いことであるが、私たちが数えきれないからといっても、辺際がないわけではない。
ガンジス河の外の河もあり、砂もあるのである。
東方万八千土(東の彼方に広がる世界すべて)を照らすといっても、
すでにその際限が聞こえる。
仏は光明を放つ仏、光明は放たれる光明と思われるが、今の「許多」には及ばないのである。
有量の無量、無量の無量ということがある。有量の無量は、肉身の仏(応身の仏)の寿命である。無量の無量とは、法身の仏の寿命であると言う。
これはまだ有無の見解を離れていない。宗門ではこれと異なり、寿も命だけとは解しないのである。
合掌
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