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渓流をどうしておし留めることなどできようか、結局大海に帰って波濤となるのだ『第十六行持』16-21-2a

〔『正法眼蔵』原文〕 穆宗は長慶四年晏駕 アンガ あり。 穆宗に三子あり、 一は敬宗 ケイソウ 、二は文宗 ブンソウ 、三は武宗 ブソウ なり。 敬宗父位をつぎて三年に崩ず。 文宗継位 ケイイ するに一年といふに、内臣謀而 ダイシン ボウニ 、これを易 エキ す。 武宗即位するに、宣宗いまだ即位せずして、をひのくににあり。 武宗つねに宣宗をよぶに癡叔 チシュク といふ。 武宗は会昌 カイショウ の天子なり、仏法を廃せし人なり。 武宗あるとき宣宗をめして、昔日 セキジツ ちゝのくらゐにのぼりしことを罰して、一頓打殺 イットンタセツ して、後華園 コウカエン のなかにおきて、不浄 フジョウ を灌 カン するに復生 フクセイ す。        つひに父王の邦 クニ をはなれて、ひそかに香厳 キョウゲン の閑禅師の会 エ に参じて、 剃頭テイヅして沙弥 シャミ となりぬ。 しかあれども、いまだ不具戒 フグカイ なり。 智閑禅師をともとして遊方 ユホウ するに、廬山 ロザン にいたる。 ちなみに智閑みづから瀑布 バクフ を題していはく、    穿崖透石不辞労、   《崖 ガケ を穿 ウガ ち石を透 トオ して労を辞せず、》                       遠地方知出処高。   《 遠地 エンチ 方 マサ に知りぬ出処の高きことを。》              この両句をもて、沙弥を釣他 チョウタ して、これいかなる人ぞとみんとするなり。 沙弥これを続していはく、    渓澗豈能留得住、   《渓澗 ケイカン 豈 アニ 能 ヨ く留 トド め得て住 トド めんや、                         終帰大海作波濤。    終 ツイ に大海に帰 キ して波濤 ハトウ をなす》 この両句をみて、沙弥はこれつねの人にあらずとしりぬ。 〔『正法眼蔵』私訳〕 穆宗は長慶四年 (824年) に崩御した。 穆宗に三人の子があり、長男は敬宗、次男は文宗、三男は武宗である。 (穆宗は長慶四年晏駕あり。穆宗に三子あり、一は敬宗、二は文宗、三は武宗なり。) 敬宗は父の位を継いで三年で崩じた。文宗がその位を継いでまだ一年というのに、近臣が謀って退位させた。 (敬宗父位をつぎて三年に崩ず。文宗継位するに一年といふに、内臣謀而、これを易す。) 武...
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渓流をどうしておし留めることなどできようか、結局大海に帰って波濤となるのだ『第十六行持』16-21-2b

  〔『聞書』私訳〕                       /唐の宣宗皇帝。 /「不著仏求、不著法求、不著僧求、長老用礼何為」。                この問答は、それをそれと言うのである。「清浄本然、云何忽生山河大地」というほどの問答である。                                    「太麁生」、これは「一掌」するのを放置せず、はなはだあらいと言うのである。 〔『抄』私訳〕 唐の宣宗皇帝の段、文の通りである。 「心風なり」とは、物狂いであるという意味である。「 沙弥」「智閑禅師をともとして遊方するに、廬山にいたる」に、「智閑」が「沙弥」を試そうとして「瀑布を題していはく」、『穿崖透石不辞労、遠地方知出処高』。この両句をもて、沙弥を釣他して、これいかなる人ぞとみんとするなり。沙弥これを続していはく、『渓澗豈能留得住、終帰大海作波濤』。この両句をみて、沙弥はこれつねの人にあらずとしりぬ」。 「黄檗、ときに仏殿にいたりて礼仏するに、書記いたりてとふ、『不著仏求 ゙ 、不著法求、不著僧求、長老用礼何為』。かくのごとく問著するに、黄檗便掌して、沙弥書記にむかひて道す、『不著仏求、不著法求、不著僧求。常礼如是事』。かくのごとく道しをはりて、又掌すること一掌す。書記いはく、『太麁生なり』」。 これは「如何なるか風性常住無所不周底」と問うと、和尚が重ねて扇を使ったほどの道理である。 「黄檗いはく、『遮裏是什麽所在、更説什麽麁細』。また書記を掌すること一掌す。書記ちなみに休去す。武宗ののち、書記つひに還俗して即位す」。 唐の憲宗皇帝  ――穆宗 長慶四年崩御                                       ―宣宗 武宗即位の時、「宣宗をめして、昔日ちゝのくらゐにのぼりし         ことを罰して、一頓打殺して、後華園のなかにおきて、       不浄を灌するに復生す」。      「つひに父王の邦をはなれて、ひそかに香厳の閑禅師の会に参じ       て、沙弥となりぬ。しかあれども、いまだ不具戒なり」。      「のちに杭州塩官斉安国師の会にいたりて、書記に」なった。「黄          檗」は「ときに塩官の首座」であった。「黄檗」と「書記」は          「連単なり」。 穆宗―――憲宗皇帝...

宣宗皇帝は、常に結跏趺坐を好み、宮中にあって常に坐禅した『第十六行持』16-21-1

〔『正法眼蔵』原文〕    唐宣宗 センソウ 皇帝は、憲宗 ケンソウ 皇帝第二の子なり。 少而 ショウニ より敏黠 ビンカツ なり。 よのつねに結跏趺坐 ケッカ フザ を愛す。宮にありてつねに坐禅す。 穆宗 ボクソウ は宣宗の兄なり。 穆宗在位のとき、早朝罷 ソウチョウハ に、宣宗すなはち戯而 ケニ して、 龍床 リュウショウ にのぼりて揖群臣勢 ユウグンシンセイ をなす。 大臣これをみて、心風 シンプウ なりとす。すなはち穆宗に奏 ソウ す。 穆宗みて、宣宗を撫而 ブニ していはく、「我が弟は乃 スナハ ち吾が宗 ソウ 之 ノ 英冑 エイチュウ 也 ナリ 」。ときに宣宗、としはじめて十三なり。  穆宗は長慶四年晏駕 アンガ あり。 穆宗に三子あり、一は敬宗 ケイソウ 、二は文宗 ブンソウ 、三は武宗 ブソウ なり。 敬宗父位をつぎて三年に崩ず。 文宗継位 ケイイ するに一年といふに、内臣謀而 ダイシン ボウニ 、これを易 エキ す。 〔『正法眼蔵』私訳〕                                唐の宣宗皇帝は、憲宗皇帝の第二子である。幼少の頃から敏 サト く賢 カシコ かった。 常に結跏趺坐を好み、宮中にあって常に坐禅した。 (唐宣宗皇帝は、憲宗皇帝第二の子なり。少而より敏黠なり。よのつねに結跏趺坐を愛す。 宮にありてつねに坐禅す。) 穆宗 ボクソウ は宣宗の兄である。穆宗が帝位にあった時、早朝の政務のあとで、 宣宗が戯れに皇帝の座にのぼって群臣の拝に対して会釈するまねをした。 大臣がそれを見て、気違いだといって、穆宗に申し上げた。 (穆宗は宣宗の兄なり。穆宗在位のとき、早朝罷に、宣宗すなはち戯而して、龍床にのぼりて揖群臣勢をなす。大臣これをみて、心風なりとす。すなはち穆宗に奏す。) 穆宗はそれを見て、宣宗の頭を撫でて言った、「我が弟は我が一族の優れた世継である。」。その時宣宗は、十三歳になったばかりであった。 (穆宗みて、宣宗を撫而していはく、「我が弟は乃ち吾が宗之英冑也」。 ときに宣宗、としはじめて十三なり。)  穆宗は長慶四年 (824年) に崩御した。穆宗に三人の子があり、 長男は敬宗、次男は文宗、三男は武宗である。 (穆宗は長慶四年晏駕あり。穆宗に三子あり、一は敬宗、二は文宗、三は武宗なり。) 敬宗は...