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有智と無智は同じ真実の異なる面として現れるのである『第十七恁麼』17-4-6a(正法眼蔵)

  恁麼⑥ 〔『正法眼蔵』原文〕 われにあらず、遍界かくるゝところなし。 たれにあらず、万里 バンリ 一条鉄なり。 たとひ恁麼して抽枝 チュウシ なりとも、 「十方仏土中、唯有一乗法」なり。 たとひ恁麼して葉落すとも、 「是法住法位 ゼホウジュウホウイ 、世間相常住 セケンソウジョウジュウ 」なり。 「既是恁麼事 キゼインモジ 」なるによりて、 有智と無智と、日面 ニチメン と月面 ガチメン となり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 自分以外の誰でもないからこそ、 万里の彼方まで一本の鉄のように真理は貫かれているのである。 たとえこのように真理が新しい枝を出すとしても、 それは「十方の仏の国土の中には、ただ一つの真実の教えしかない」ということである。 たとえこのように真理が葉を落とすとしても、 それは「この法は法位に住し、世間の相常住なり (この仏の教えは、真如という普遍不変の法の位に安住しており、一見無常に見えるこの世の現象も、実はそのままの姿で真理に照らされており、永遠である) 」ということである。 既にかくの如きありようであるから、 「有智」と「無智」は、日面の仏と月面の仏のように、 ただ同じ真理の異なる面として現れるのである。                             合掌 有智と無智は同じ真実の異なる面として現れるのである『第十七恁麼』17-4-6b(聞書抄) ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  
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有智と無智は同じ真実の異なる面として現れるのである『第十七恁麼』17-4-6b(聞書抄)

〔『抄』原文〕 「われにあらず、遍界かくるゝところなし。たれにあらず、万里一条鉄なり。」   如文、遍界かくるゝ所なければ、非我道理顕然なり。たれにあらざれば、万里一条鉄と云はるゝ、尤有其謂。 「たとひ恁麼して抽枝 チュウシ なりとも、十方仏土中、唯有一乗法なり。たとひ恁麼して葉落すとも、是法住法位、世間相常住なり。」   抽枝は春、葉落は秋か。所詮、抽枝と云も、葉落すと云も、十方仏土中、唯有一乗法なり、是法住法位、世間相常住程の事なり。只同程の心なりと云証拠に被出なり。 「既是恁麼事なるに依て、有智与無智、日面与月面なり。」   既是恁麼事、何愁恁麼事の道理なるゆゑに、有智与無智、日面与月面只一物なる道理なり。已下如文。 〔『抄』私訳〕 「われにあらず、遍界かくるゝところなし。たれにあらず、万里一条鉄なり」とある。   文の通り、「遍界かくるゝところ」がないので、「自分ではない」道理があきらかである。「たれ」でもないからこそ「万里一条鉄」と言われるのは、非常に深い意味がある。 「たとひ恁麼して抽枝 チュウシ なりとも、十方仏土中、唯有一乗法なり。 たとひ恁麼して葉落すとも、是法住法位、世間相常住なり」とある。   「抽枝 (新しい枝が出ること) 」は「春」、「葉落」は「秋」であろうか。つまるところ、「抽 枝」といっても、「葉落」するといっても、「十方仏土中、唯有一乗法なり」「是法住法位、世間相常住なり」というほどのことである。 ただ同じような意味であるという証拠として挙げられているのである。 「既是恁麼事なるに依て、有智与無智、日面与月面なり」とある。   「既に是れ恁麼の事、何ぞ恁麼の事を愁えん」という道理であるから、 「有智」と「無智」と、「日面仏」と「月面仏」はただ同じ物である道理である。 以下文の通りである。                             合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  

春の松の有があり、秋の菊の無がある『第十七恁麼』17-4-5a(正法眼蔵)

  第四段⑤ 〔『正法眼蔵』原文〕  「無智疑怪 ムチギケ 、即為永失 ソクイヨウシツ 《智無きは疑怪す、即ち為めに永く失ふ》」といふ道あり。 智かならずしも有にあらず、智かならずしも無にあらざれども、 一時の春松 シュンショウ なる有あり、秋菊 シュウキク なる無あり。 この「無智」のとき、三菩提みな疑怪 ギケ となる、尽諸法みな疑怪なり。 このとき永失即為なり。 所聞すべき道、所証なるべき法、しかしながら疑怪なり。 〔『正法眼蔵』私訳〕                                「智無き者は疑い怪しむ為に永遠に真理を失う」という言葉がある。 智は必ずしも有でもなく、必ずしも無でもないが、 ある時は春の松の有があり、秋の菊の無があるのである。 この「無智」の時、無上菩提 (この上ない悟り) は、 すべて「疑い怪しむもの」となり、すべてのものが「疑い怪しむもの」となる。 この時こそが「永失即為 (永遠に真理を失うということが無上菩提の為すところである) 」 なのである。 聞くべき道も、証すべき法も、すべてが「疑い怪しむもの」となるのである。 世界の隅々に至るまで隠れる場所はなく真理はあらわれているから、 疑い怪しむことそのものは自分がやっていることではないのである 。 春の松の有があり、秋の菊の無がある『第十七恁麼』17-4-5b(聞書抄)                             合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  

春の松の有があり、秋の菊の無がある『第十七恁麼』17-4-5b(聞書抄)

  〔抄原文〕 「無智疑怪 ムチギケ 、即為永失 ソクイヨウシツ 《智無きは疑怪す、即ち為めに永く失ふ》」といふ道あり。智かならずしも有にあらず、智かならずしも無にあらざれども、一時の春松 シュンショウ なる有あり、秋菊 シュウキク なる無あり。この「無智」のとき、三菩提みな疑怪 ギケ となる、尽諸法みな疑怪なり。このとき永失即為なり。所聞すべき道、所証なるべき法、しかしながら疑怪なり。」   法華の文に、有智若聞、即能信解、無智疑怪、即為永失とあるを心得には、有智人なれば若聞すれば即能信解す。 無智の人なれば聞てはうたがひあやしむ故、即為永失と被嫌なり、 と多分取捨の詞に此文をば心得たるなり。 今義更非爾。先不審なる事は、法華は諸仏出世の本懐なり、衆生成仏の直道なり。 已爾前の教をば置て仏の已証を交物なく説 トキ 顕 アラワサ 被 ルゝ 経 キョウ に、有智無智ぞ永失ぞなむと、凡夫の思付たる取捨の法をばはたらかせて談ぜむや、能々可了見事なり。 此義曾不可有事なり。 然者、此智に有無の義あるべからざれども、春松なる有あり、秋菊なる無ありとは、只しばらく春松を有と云ひ、秋菊を無と云程の有無なるべし。 ゆゑに、無智の時、三菩提皆疑怪となる、尽諸法みな疑怪なりと云は、此有智無智、善悪、勝劣の法にあらざるゆゑに、無智の時、三菩提皆疑怪となるとは云な り。 尽諸法又同前、かゝるゆゑに、永失即為と云。 即為永失と云へば、猶失をいたすに似たり。 「永失」が「即為」と云時は、取捨、善悪の心地はゝなるゝなり。 如此談ずれば、今の法華の有智若聞の文は、惣善悪、取捨の法とは不被心得、 只同心なりと談なり。 ゆゑに、今は 被 嫌と心得つる疑怪の詞が、所聞の道、所証の法を皆疑怪と談ず。 日来の所談に大に違するなり。仏法の所談如此。 〔抄私訳〕 「無智疑怪 ムチギケ 、即為永失 ソクイヨウシツ 《智無きは疑怪す、即ち為めに永く失ふ》」といふ道あり。智かならずしも有にあらず、智かならずしも無にあらざれども、一時の春松 シュンショウ なる有あり、秋菊 シュウキク なる無あり。この「無智」のとき、三菩提みな疑怪 ギケ となる、尽諸法みな疑怪なり。このとき永失即為なり。所聞すべき道、所証なるべき法、しかしながら疑怪なり」とある。   『法華経』の文に、「有智若聞、即能信解、無智疑怪、即...