〔『抄』原文〕 「身すでにわたくしにあらず、命は光陰にうつされて、暫もとゞめがたし。」 此詞は、無常を観ずる小乗の詞に似たり。是は、生老病死の姿、我と云べきにあらず。老 も病も死も、皆「私」の進退 シンタイ にあらず、時節に被転もてゆく道理を、凡夫の上、世間の 法猶如此、況仏法の上に我を不可立と云道理を云はむ料なり。能々可心得事なり。 「つらつら観ずる所に、往 ワウ 事の二たびあふへからざる多し。赤心もとゞまらず、片々として往来す。たとひまことありと云ども、吾我のほとりにとゞこほるものにはあらず。」 「片々として往来す」とは、「光陰にうつさる」ゝ事を云歟。「まことありと云ふとも、 吾我の」見にとゞまるべからずと云なり。 「無端に発心するものあり。この心おこるより、向来もてあそぶ所をなげすてゝ、所未聞をきかむとねがひ、所未証を証せむともとむる。ひとゑにわたくしの所為にあらず。しるべし、恁麼人なるゆゑにしかあるなり。」 「無端に発心する物あり」とは、「発心」と云は、いかにも物一を縁として「発心」する なり。此「発心」非縁起。「尽界」を指て「発心」と談ず。全於身彼が「発心する」と は不云なり。ゆへに、「無端に発心する」とは云はるゝなり。 「此心おこるより、向来もてあそぶ所をなげすつ」とは、仮令三乗の教を説く学者、小乗権門の族、乃至世俗塵労に心をそむる人 、 此如「心」を「なげすてゝ、所未 聞をきかむ、所未証を証せむともとむる」人の事を如此云なり。所詮、法を聞、法を「証せむともとむる」「心」あらむ人は「私の所為にあらず」。是併 シカシナガラ 、宿善開発する「恁麼人なり」と云心なり。尤憑敷 タノモシキ 事なり。已下如文。 〔『抄』現代語訳〕 「身すでにわたくしにあらず、命は光陰にうつされて、暫もとゞめがたし」とある。 この言葉は無常を観じる小乗の言葉のようであるが、これは生老病死する姿を、「我」と言うのではない。生も老も病も死もみな「私」の進退ではなく、時節に転ぜられていく道理を、凡夫の上で、世間の法はやはりこのように言うのである。言うまでもなく、仏法の上では「我」を立ててはならないという道理 (無我を観ぜよ) を言うだけである。よく理解すべきことである。 「つらつら観ずる所に、往 ワウ 事の二たびあふへからざる多し...
〔正法眼蔵〕 いはゆるは、「恁麼事をえんとおもはば、すべからくこれ恁麼人なるべし。 すでにこれ恁麼人なり、なんぞ恁麼事をうれへん」。 この宗旨は、直趣無上菩提 ジキシュムジョウボダイ 、しばらくこれを恁麼といふ。 この無上菩提のていたらくは、すなはち尽十方界も無上菩提の少許 ショウコ なり。 さらに菩提の尽界よりもあまるべし。 われらもかの尽十方界の中にあらゆる調度なり。 なにによりてか恁麼あるとしる。 いはゆる身心 シンジン ともに尽界にあらはれて、 われにあらざるゆゑにしかありとしるなり。 〔正法眼蔵訳〕 言うところは、「恁麼 インモ の事を得ようと思うなら、当然恁麼の人であるべきである。 もともとすべての人は恁麼の人である、どうして恁麼の事が得られるかどうか心配することがあろうか。」ということである。 この宗旨は、この直趣無上菩提 (無上の悟りに直に趣くこと) を、 しばらくこれを恁麼 インモ(かくの如し) と言うのである。 この無上菩提のありようは、すなわち尽十方界 (全ての十方の世界) も 無上菩提 (無上の悟り) の少しばかりである。 さらに言えば、菩提 (悟り) は尽十方界よりも大きいのである。 我々もかの尽十方界の中にある調度である。 どうしてこのようであると知ったのか。 いわゆる身心はともに尽十方界に現れて (尽十方界はこの身心に現れて) 、 我のものではないから、そうであると知るのである。 無上の悟りに直に趣くことを恁麼インモ(かくの如し)と言う『第十七恁麼』17-1-1b(聞書抄) 合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村