第三段① 〔『正法眼蔵』原文〕 第十七代の祖師、僧伽難提尊者、ちなみに伽耶舍多 カヤシャタ 、これ法嗣 ホッス なり。 あるとき殿 デン にかけてある鈴鐸 レイタク の、風 カゼ にふかれてなるをきゝて、 伽耶舍多にとふ、「風 フウ のなるとやせん、鈴 レイ のなるとやせん」。 伽耶舍多まうさく、 「風 フウ の鳴 メイ にあらず、鈴の鳴にあらず、我心 ガシン の鳴なり。」 僧伽難提尊者いはく、「心はまたなにぞや」。 伽耶舍多まうさく、「ともに寂静 ジャクジョウ なるがゆゑに」。 僧伽難提尊者いはく、「善哉善哉 ゼンザイゼンザイ 、わが道 ドウ をつぐべきこと子 ナンジ にあらずよりはたれぞや」。 つひに正法眼蔵を伝付 デンプ す。 〔『正法眼蔵』私訳〕 第十七代の祖師である僧伽難提尊者 ソウギャナンダイソンジャ には、その法を継いだ弟子の伽耶舎多 カヤシャt がいた。 ある時、仏殿に懸っている鈴が風に吹かれて鳴るのを聞き、僧伽難提尊者が伽耶舎多に尋ねた、「風が鳴るのか、それとも鈴が鳴るのか」。 伽耶舎多は答えた、「風が鳴るのではありません。鈴が鳴るのでもありません。尽界の心が鳴るのです」。 僧伽難提尊者は言った、「では心とは何か」。 伽耶舎多は答えた、「倶に寂静であるからです」。 僧伽難提尊者は言った、「善きかな、善きかな、我が仏道を継ぐのは、お前でなければ誰がいようか」。 ついに正法眼蔵涅槃妙心を伽耶舎多に伝え、その護持を依嘱 イショク した (伽耶舎多が第十八代の祖師となった) 。 注:( )内は注釈、〔 〕内は補足。 僧伽難提ソウギャナンダイ尊者:心とは何か『第十七恁麼』17-3-1b(聞書抄) 合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村
〔抄原文〕 「第十七代の祖師、僧伽難提尊者、ちなみに伽耶舍多、これ法嗣なり。あるとき、殿にかけてある鈴鐸の、風にふかれてなるをきゝて、伽耶舍多にとふ、「風のなるとやせん、鈴のなるとやせん」。伽耶舍多まうさく、「風の鳴にあらず、鈴の鳴にあらず、我心の鳴なり。」僧伽難提尊者いはく、「心はまたなにぞや」。伽耶舍多まうさく、「ともに寂静なるがゆゑに」。」 是は、今の問答を、打任て、西天東地、古代より今日まであやまると云は、風、鈴を吹くひゞきありとも、心に縁せずば、いかでか是を聞べき。 然者、心の根本をさして、如此答すると心得たり。是を邪解なりときらふなり。 所詮、風も鈴も心も寂静も、無上菩提正法眼蔵を指て云なり。 此上は、風と談ずる時は全風、鈴と談時も全鈴、心も又如此。此寂静とは云なり。 さらに心の一法を取出て為根本、彼が是に縁ずるなむとは、不可心得。 以此道理倶寂静とは云なり。 ひゞく所が、又、風鳴、鈴鳴、吹鳴、鳴々とも云へしとあり、 能々可了見事なり。委見于文。 〔注:最初の文頭が上がっている文章は蒐書大成に引用された正法眼蔵の原文で、その下の文頭が一字下がっている文章は聞書抄の本文です(蒐書大成と同じ体裁)。 一 般読者の便宜のため、カタカナを平仮名に変換し、句読点・濁点を付け、旧漢字を新漢字にし、かな使いを修正して記載しました。以下同様。〕 〔抄私訳〕 「第十七代の祖師、僧伽難提尊者、ちなみに伽耶舍多、これ法嗣なり。あるとき殿にかけてある鈴鐸の、風にふかれてなるをきゝて、伽耶舍多にとふ、「風のなるとやせん、鈴のなるとやせん」。伽耶舍多まうさく、「風の鳴にあらず、鈴の鳴にあらず、我心の鳴なり。」僧伽難提尊者いはく、「心はまたなにぞや」。 伽耶舍多まうさく、「ともに寂静なるがゆゑに」とある。 これは、今の問答を一般には、インドや中国において、昔から今日に至るまで誤解してきたのは、「風」が「鈴」を吹く響きがあっても、心に感受するはたらきがなければ、どうしてもこれを聞くことはできないから、「心」が根本であることを指してこのように答えるのだと解しているが、これを邪解であると嫌うのである。 つまるところ、「風」も「鈴」も「心」も「寂静」も、みな「無上菩提正法眼蔵」を指して言うのである。 この上 は、「風」と言うときはすべて「風」、「鈴」と言うときはすべて「...