〔『正法眼蔵』原文〕 われらが卑賤おもひやれば、驚怖しつべし。 中土 チュウド をみず、中華にむまれず、聖 ショウ をしらず、賢をみず。 天上にのぼれる人いまだなし、人心ひとへにおろかなり。 開闢 カイビャク よりこのかた化俗 ケゾク の人なし、国をすますときをきかず。 いはゆるは、いかなるか清、いかなるか濁としらざるによる。 二柄三才 ニヘイサンサイ の本末にくらきによりてかくのごとくなり。 いはんや五才の盛衰 ジョウスイ をしらんや。 この愚は、眼前の声色にくらきによりてなり。 くらきことは、経書をしらざるによりてなり、経書に師なきによりてなり。 その師なしといふは、この経書いく十巻といふことをしらず、 この経いく百偈、いく千言としらず、たゞ文 モン の説相をのみよむ。 いく千偈、いく万言といふことをしらざるなり。 すでに古経をしり、古書をよむがごときは、すなはち慕古の意旨あるなり。 慕古のこゝろあれば古経きたり現前するなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 日本に住む我々の卑賤なことは、顧みれば驚き恐れるほどである。 (われらが卑賤おもひやれば、驚怖しつべし。) 中央の地を見たことがなく、中華に生まれず、聖人を知らず、 賢者を見ず、天上界に上った人もなく、人の心はまったく愚かである。 (中土をみず、中華にうまれず。聖をしらず、賢をみず、 天上にのぼれる人いまだなし、人心ひとへにおろかなり。) 日本の国始まって以来、俗人を教化した人がなく、 国を清らかにした時を聞いたことがない。 (開闢よりこのかた、化俗の人なし、国をすますときをきかず。) それは、どのようなことが国が清らかになることで、 どのようなことが国が濁ることであるか知らないからである。 (いわゆるは、いかなるが清、いかなるが濁としらざるによる。) 天と地と人の道理の本末に暗いから、このようであるのだ。 (二柄三才の本末にくらきによりて、かくのごとくなり。) 言うまでもなく、 万物を構成する木火土金水 モクカドゴンスイ による世の盛衰を知らない。 (いわんや、五才の盛衰をしらんや。) この愚しさしさは、眼の前の五感の対象に迷わされているからである。 (この愚は、眼前の声色に...
〔『正法眼蔵』原文〕 しかあればすなはち、梁 リョウ より魏へゆくことあきらけし。 嵩山 スウザン に経行 キンヒン して少林に倚杖 イジョウ す。 面壁燕坐 メンペキエンザ すといへども、習禅にはあらざるなり。 一巻の経書 キョウショ を将来せざれども、正法伝来の正主 ショウシュ なり。 しかあるを、史者あきらめず、 習禅の篇につらぬるは、至愚なり、かなしむべし。 かくのごとくして嵩山に経行するに、犬あり、堯 ギョウ をほゆ。 あはれむべし、至愚なり。 だれのこゝろあらんか、この慈恩をかろくせん。 たれのこゝろあらんか、この恩を報ぜざらん。 世恩なほわすれず、おもくする人おほし、これを人といふ。 祖師の大恩は父母 ブモ にもすぐるべし、 祖師の慈愛は、親子 シンシ にもたくらべざれ。 〔『正法眼蔵』私訳〕 このようであったので、大師が梁から魏へ行ったことは明らかである。 ( しかあればすなはち、梁より魏へゆくことあきらけし。) 嵩山に行き少林寺に逗留した。 (嵩山に経行して少林に倚杖す。) 壁に向って坐禅をしたが、それは禅定の修練ではないのである。 (面壁燕坐すといへども、習禅にはあらざるなり。) 大師は一巻の経書ももたらさなかったが、 正法を伝来した正統な教主である。 (一巻の経書を将来せざれども、正法伝来の正主なり。) しかし、歴史家はそのことを理解せず、禅定を修練する者の部類に入れたのは、まことに愚かで、悲しむべきことである。 (しかあるを、史者あきらめず、習禅の篇につらぬるは、至愚なり。かなしむべし。) このようにして嵩山に行ったが、盗人の犬が聖天子の堯を吠えたように、 大師を誹謗する者がいた。 (かくのごとくして嵩山に経行するに、犬あり、堯をほゆ。) 〔犬は、達磨大師に迫害を加えた菩提流支三蔵や光統律師などを指す。〕 哀れむべき者であり、まことに愚かなことである。 (あわれむべし、至愚なり。) 心ある人ならば、誰が慈悲深いこの師の恩を軽んじるであろうか。 (だれのこゝろあらんか、この慈恩をかろくせん。) 心ある人ならば、誰がこの師の恩に報いないでおられようか。 (...