第一段③ 〔『正法眼蔵』原文〕 身すでにわたくしにあらず、 いのちは光陰にうつされて、しばらくもとゞめがたし。 紅顔いづくへかさりにし、たづねんとするに蹤跡 ショウセキ なし。 つらつら観ずるところに、往事のふたゝびおふべからざるおほし。 赤心もとゞまらず、片々として往来す。 たとひまことありといふとも、 吾我 ゴガ のほとりにとゞこほるものにあらず。 恁麼なるに、無端に発心するものあり。 この心おこるより、向来 キョウライ もてあそぶところをなげすてゝ、 所未聞 ショミモン をきかんとねがひ、所未証 ショミショウ を証せんともとむる、 ひとへにわたくしの所為にあらず。 しるべし、恁麼人なるゆゑにしかあるなり。 なにをもつてか恁麼人にてありとしる、 すなはち恁麼事をえんとおもふによりて恁麼人なりとしるなり。 すでに恁麼人の面目あり、いまの恁麼事をうれふべからず。 うれふるもこれ恁麼事なるがゆゑに、うれへにあらざるなり。 〔『正法眼蔵』現代語訳〕 この身はすでに私ではなく、命は時の流れに遷されて、 しばらくも留めておくことはできない。 紅顔はどこへ去ったのであろうか、尋ねてみようとしても跡形がない。 よく観察してみると、過去のことに再び会おうとしても多くは会うことはできない。 これだけは真実であると思っているまことの心も留まることなく、 その時その時で行ったり来たりする。 たとえ真実があるといっても、自分の考え方に停滞するものではない。 このようであるが、いつということもなく発心するものがある。 この心が発ると、これまで弄んできたことを投げ捨てて、まだ聞いたことがない真理を聞こうと願い、まだ悟っていないことを悟ろうと求めるのである。 こうしたことはまったく自分がなすところではないのである。 知らなければならない、恁麼の人であるから、菩提心が発るのである。 何によって、恁麼の人であると分かるのか。 それは、恁麼の事を得ようと思うから、恁麼の人であると分かるのである。 すでに恁麼の人の面目がある、今の恁麼の事を愁える必要はない。 愁えるとしても、恁麼の事であるから、愁いではないのである。 恁麼の人であるから、菩提心が発るのである『第十七恁麼』17-1-3b(抄) 合掌 ランキングに参加中です。よろしければク...
〔『抄』原文〕 「身すでにわたくしにあらず、命は光陰にうつされて、暫もとゞめがたし。」 此詞は、無常を観ずる小乗の詞に似たり。是は、生老病死の姿、我と云べきにあらず。老 も病も死も、皆「私」の進退 シンタイ にあらず、時節に被転もてゆく道理を、凡夫の上、世間の 法猶如此、況仏法の上に我を不可立と云道理を云はむ料なり。能々可心得事なり。 「つらつら観ずる所に、往 ワウ 事の二たびあふへからざる多し。赤心もとゞまらず、片々として往来す。たとひまことありと云ども、吾我のほとりにとゞこほるものにはあらず。」 「片々として往来す」とは、「光陰にうつさる」ゝ事を云歟。「まことありと云ふとも、 吾我の」見にとゞまるべからずと云なり。 「無端に発心するものあり。この心おこるより、向来もてあそぶ所をなげすてゝ、所未聞をきかむとねがひ、所未証を証せむともとむる。ひとゑにわたくしの所為にあらず。しるべし、恁麼人なるゆゑにしかあるなり。」 「無端に発心する物あり」とは、「発心」と云は、いかにも物一を縁として「発心」する なり。此「発心」非縁起。「尽界」を指て「発心」と談ず。全於身彼が「発心する」と は不云なり。ゆへに、「無端に発心する」とは云はるゝなり。 「此心おこるより、向来もてあそぶ所をなげすつ」とは、仮令三乗の教を説く学者、小乗権門の族、乃至世俗塵労に心をそむる人 、 此如「心」を「なげすてゝ、所未 聞をきかむ、所未証を証せむともとむる」人の事を如此云なり。所詮、法を聞、法を「証せむともとむる」「心」あらむ人は「私の所為にあらず」。是併 シカシナガラ 、宿善開発する「恁麼人なり」と云心なり。尤憑敷 タノモシキ 事なり。已下如文。 〔『抄』現代語訳〕 「身すでにわたくしにあらず、命は光陰にうつされて、暫もとゞめがたし」とある。 この言葉は無常を観じる小乗の言葉のようであるが、これは生老病死する姿を、「我」と言うのではない。生も老も病も死もみな「私」の進退ではなく、時節に転ぜられていく道理を、凡夫の上で、世間の法はやはりこのように言うのである。言うまでもなく、仏法の上では「我」を立ててはならないという道理 (無我を観ぜよ) を言うだけである。よく理解すべきことである。 「つらつら観ずる所に、往 ワウ 事の二たびあふへからざる多し...