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仏祖と自分の正体である古鏡『第十九古鏡』19-1-1a(正法眼蔵)

  第十九古鏡 第一段  〔『正法眼蔵』原文〕  諸仏諸祖の受持し単伝するは古鏡なり。 同見同面なり、 同像同鋳 ドウチュウ なり、 同参同証す。 〔『正法眼蔵』現代的読解〕 諸仏や諸祖が、代々受け継ぎ保持し、ただ一筋に伝えてきたものは、 古鏡 (一切を差別無くありのままに映す本来の自己のはたらき:仏性、無上菩提) です。 仏祖と自分の正体である古鏡は、 同じく見え、同じありようです (同見同面) 。 鏡面に結ぶ像は、同じ鋳型から鋳られています (同像同鋳) 。 仏祖と同じく修行し、仏祖であることを立証します (同参同証) 。 仏祖と自分の正体である古鏡『第十九古鏡』19-1-1b(聞書抄)                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  
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仏祖と自分の正体である古鏡『第十九古鏡』19-1-1b(聞書抄)

  〔『聞書』原文〕 /此「古」の字はふるしとは心得まじ。非対新物の極たる心なり。 諸法実相ととき、三界を一心ととく、今の「古鏡」同事なり。 /「古鏡」は観音の草子に大悲菩薩許多手眼と云同かるべし。 諸仏諸祖の受持し単伝する「古鏡、用作麼と云べし。 諸仏諸祖の単伝は、払子柱杖とも云はむが如し。 /天台に三諦 タイ をとく時、鏡にたとふる事あり。 是猶世間の見を不離なり。 いまの鏡にうつる諸法を仮諦ととく。 此假をうつす鏡を空諦ととく。 鏡にうつれども、如無其実なる所を中道ととるか。 是猶大円鏡、「古鏡」なむと談ずる所には不及。 能所を置てうつすと云ふゆへに。 /教に伝教附財 デンキョウフザイ 〔注:『蒐書大成』は 伝教を 転経 と誤写したか〕      と云天台の名目あり。 是は二乗 ニジョウ を以て、菩薩の使 ツカイ と為 ナ して、           やうやく機をちかづけむ為の方便なり。 但、直指の法とこそ此宗門を云ときに、方便も譬喩も不可入。 見成公案一帖、摩訶般若、仏性等の一帖にても足る可き事なれども、 さすがにものを初てきくになれば、おぼつかなきゆへに、      七十五帖の草子もいでくるは、しばらく伝教附財にもあたるなり。 法を習上は、法と習と、能所を置く事なけれども、         又今の学人もあるが如し。 能々心得て学ぶ可きなり、教学に似る可から不るなり。 〔『聞書』現代語訳〕 /この「古」の字を、ふるいという意味に理解してはいけません。 新しいものに対する古いではなく、究極のあり方を示しているのです。 「諸法を実相」と説き、「三界 (すべての迷いの世界) を一心」 と説くのも、 今の「古鏡」と同じことです。 /「古鏡」は、『観音』の巻にある 「大悲菩薩許多手眼 (慈悲深い観音菩薩の数多くの手と眼) 」と同じです。 諸仏や諸祖が受け継ぎ保持し、ただ一筋に伝えてきた「古鏡」は、 「用作麼 (どう用いるのか) 」と言うべきものです。 諸仏や諸祖がただ一筋に伝えてきたのは、 払子 ホッス(獣毛等を束ねて柄を付けた法具) や柱杖 シュジョウ(僧の杖)  〔を、「はい、どうぞ」と手渡してきた〕ようなことです。 /天台宗で三諦 タイ(空・仮・中の三つの真理) を説くときに、 鏡にたとえることがあります。 これは、まだ世間の見方から離れていませ...

その物を見、その音を聞いて自己の心を明らめる観世音菩薩『第十八観音』完18-6-6a(正法眼蔵)

  〔『正法眼蔵』原文〕   麻谷 マヨク ・臨済に正手眼の相見あり。許多の一々なり。   雲門に見色明心 ケンシキミョウシン 、聞声悟道 モンショウゴドウ の観音あり。 いづれの声色か見聞の観世音菩薩にあらざらん。  百丈に入理の門あり、楞厳会 リョウゴンエ に円通 エンヅウ 観音あり、 法華会 ホッケエ に普門示現 フモンジゲン 観音あり。 みな与仏同参 ヨブツドウサン なり、与山河大地同参なりといへども、 なほこれ許多手眼の一二なるべし。  仁治壬寅 ジンイン 仲夏十日書写之 懐弉 エジョウ 〔『聞書抄』を組込んだ『正法眼蔵』現代的読解〕  麻谷と臨済に正手眼の問答がある。 〔麻谷が「十二面観音那箇是正手眼 (十二面観音はどれが正面ですか) 」と問い、 臨済が「阿那箇是正眼 (貴公がそれだ) 」と答えた。〕 これも雲巖の「許多の手眼 (無辺際の観音) 」の一例である。  雲門には、見色明心 (色を見て自己の心を明らめる) し、 聞声悟道 (声を聞いて仏道を悟る) する観音がある。 どんな色 (物) や声 (音) であっても、その色を見、 その声を聞いて自己の心を明らめる観世音菩薩でないものはないのである。  百丈には「観音入理の門」という言葉があり(一僧が飯鼓を聞いて大笑して帰ったのを見て、百丈が「俊なるかなこれはこれ観音入理の門 (何と素晴らしいことか、これこそが観音が真理に入る門だ) 」と言った)、 『楞厳経』には円通 (自由自在) の観音があり、 『法華経』には普門 (あらゆる方面) に示現 (姿を現わす) する観音がある。 これらの観音はすべて仏と一体となって修行し、山河大地と一体となって 修行するが、やはりこれらも「許多の手眼 (無辺際の観音) 」の一例なのである。  仁治三年壬寅 ミズノエトラ(1244年) 仲夏 (夏の中頃) にこれを書写した。懐弉 その物を見、その音を聞いて自己の心を明らめる観世音菩薩『第十八観音』18-6-6b(聞書抄)                           合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  

その物を見、その音を聞いて自己の心を明らめる観世音菩薩『第十八観音』完18-6-6b(聞書抄)

  〔『抄』原文〕 「麻谷 マヨク ・臨済に正手眼の相見あり。許多の一一なり。 雲門に見色明心 ケンシキミョウシン 、聞声悟道 モンショウゴドウ の観音あり。いづれの声色か見聞の観世音菩薩にあらざらん。」   正手眼の事追 オッテ 可決。雲門詞に「見色明心、聞声悟道」を以て観音と談ずるか。 「百丈に入理の門あり。楞厳会 リョウゴンエ に円通 エンヅウ 観音あり。法華会 ホッケエ に普門示現 フモンジゲン 観音あり。」   入理門事追可決。楞厳会とは、首楞厳経説事なり。法華会とは法華の普門品事なり。 「みな与仏同参 ヨブツドウサン なり、与山河大地同参なりといへども、なほこれ許多手眼の一二なるべし。」   是は与仏同参、与山河大地同参なりといへり、無別子細。 こゝに「なほこれ許多手眼の一二なるべし」と云へば、許多手眼はまさりて、今右に所挙真覚大師・麻谷・臨済・雲門・百丈乃至楞厳・法華等の観音は、猶許多手眼には不及、纔 ワヅカニ 一二なるべしと云やうにきこゆ、非其義。 此一二は全一全二なるべし。 非数量一二なり。 是は祖師等中に被談観音人々の詞を被挙なり。 上にも許多の一々なりとあり。 許多の一二なるゆへに非数量一二なり。 凡は一仏を讃嘆する時、自余は不斉肩義常事なり。 実にも一仏の究尽するとき、余仏皆蔵身す。 祖師讃嘆の詞も可准之歟。 いかさまにも勝劣差別の義にあらず。 能々可了見事なり。 〔『抄』私訳〕 「麻谷 マヨク ・臨済に正手眼の相見あり、許多の一一なり。 雲門に見色明心 ケンシキミョウシン 、聞声悟道 モンショウゴドウ の観音あり。いづれの声色か見聞の観世音菩薩にあらざらん」とある。   正手眼のことは追って決める。雲門の言葉で「見色明心、聞声悟道」 をもって観音と言うか。 「百丈に入理の門あり、楞厳会 リョウゴンエ に円通 エンヅウ 観音あり、 法華会 ホッケエ に普門示現 フモンジゲン 観音あり」とある。   入理の門のことは追って決める。 「楞厳会」とは、『首楞厳経 (菩薩の在り方を説く経) 』の観音円通章のことである。 「法華会」とは『法華経』の普門品のことである。 「みな与仏同参 ヨブツドウサン なり、与山河大地同参なりといへども、 なほこれ許多手眼の一二なるべし」とある。  これは仏と一体となって修行し、...

自分のこの身が如来や観音であることを実証しているのである『第十八観音』18-6-5a(正法眼蔵)

  〔『正法眼蔵』原文〕  正法眼蔵第十八観音奥書  いま仏法西来よりこのかた、仏祖おほく観音を道取するといへども、 雲巌道吾におよばざるゆゑに、ひとりこの観音を道取す。  永嘉真覚大師に、「不見一法名如来、方得名為観自在《一法を見ざるを如来と 名づく、方に名づけて観自在と為すことを得たり》」の道あり。 如来と観音と、即現此身 ソクゲンシシン なりといへども、 他身にはあらざる証明なり。 〔『聞書抄』を組込んだ『正法眼蔵』現代的読解〕  正法眼蔵第十八観音の奥書  仏法が西のインドから中国へ伝来して以来、多くの仏祖が観音について 説いてきたけれど、雲巌・道吾の問答には及ばないので、 雲巖が「千手観音は、あんなにたくさんの手と眼 (許多の手眼) を 何につかうのでしょう 」と問い、 道吾が「人が夜中に手を背にして枕を摸るようなものだ (人の夜間に手を背にして 枕子を摸するが如し) 」と答えた問答だけを選び、説いたのである。  永嘉真覚 ヨウカシンカク 大師 (六祖の法嗣) に「何ひとつとして対象としての法を見ない者を如来と呼ぶ。 まさしく観自在菩薩と名付けることができる」という言葉がある。 如来や観音がこの身となって現れると言っても、決して他の誰かの身ではなく、 自分のこの身が如来や観音であることを実証しているのである。 自分のこの身が如来や観音であることを実証しているのである『第十八観音』18-6-5b(聞書抄)                            合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村