第四段③ 〔『正法眼蔵』原文〕 六祖のむかしは新州の樵夫 ショウフ なり。 山をもきはめ、水をもきはむ。 たとひ青松 セイショウ のもとに功夫して根源を截断 セツダン せりとも、 なにとしてか明窓 メイソウ のうちに従容 ショウヨウ して、照心の古教ありとしらん。 澡雪 ソウセツ たれにかならふ。 いちにありて経をきく、これみづからまちしところにあらず、 他のすゝむるにあらず。 いとけなくして父を喪 ソウ し、長じては母をやしなふ。 しらず、このころもにかゝれりける一顆珠の乾坤 ケンコン を照破することを。 たちまちに発明 ハツメイ せしより、老母をすてて知識をたづぬ、 人のまれなる儀なり。 恩愛 オンナイ のたれかかろからん。 法をおもくして恩愛を軽ろくするによりて棄恩せしなり。 これすなはち「有智若聞、即能信解 《智有るもの若し聞かば、即ち能く信解す》の道理なり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 六祖は、昔は新州の木こりであった。 深い山中で、山や谷川の水をも極めるような生活を送っていた。 たとえ山中の青松の下で修行しあらゆる世俗的な考え方を断ち切ったとしても、 どうして明るい窓辺でゆったりと落ち着き、 心を照らす古 イニシエ の教えの存在を 知ることができたであろうか。 また身心を絶え間なく磨きあげる修行方法を、 一体誰に習うことができたであろうか。 ある日、市場で僧がお経を読んでいるのを偶然耳にしたが、 それは自分が期待していたものでも、誰かに勧められたものでもなかった。 幼い頃に父を亡くし、成長してからは母を養った。 この頃、自分の身心に備わっていた一顆の珠 (一個の光り輝く珠) が、 天地を照らす力を持っていることに気づいていなかった。 しかし突然、自分の身心の真相が明らかになると、 老いた母を置いて善知識を訪ねた。 これは世にも稀な行いであった。 親子の恩愛が軽いなどということは決してないが、 それでも恩愛を捨て出家したのは、仏法を重んじ恩愛を軽くすることは、 それに比べれば軽いものとしたからである。 これこそ、「智有るもの若し聞かば、即ち能く信解す (智ある者がもし聞けば、 すぐに理解し信ずるであろう) 」という道理に他ならないのである。 合掌 六祖は、昔は新州の木こりであった『第十七恁...
〔聞書原文〕 /古教ありとしらんと云ふ。 是は、古教照心と云ふるき詞あり、近代の禅僧は祖師の言句を 推度 スイタク(オシハカル) する事あるべからず、はじめてわれとこそ法をば得れと云ふ。 尤古教照心の義にはそむくべし。 仏の言句、祖師の語話 ゴワ をこそ、よくよく校合 コウゴウ 了見すべけれ。 不然者、経論すべて無詮なり。 〔聞書私訳〕 /「古教ありとしらん」と言う。 これは、「古教照心 (古の教えが心を照らす) 」という古い言があるにもかかわらず、 近年の禅僧は祖師の言葉を深く考えることなく、 「自分が初めて法を得たのだ」と主張する傾向にある。 これはもっとも「古教照心」の教えに反するものである。 仏の言葉や祖師の語録を、 入念に校合 キョウゴウ (基準とする本文に照らして 本文の異同を確かめること) し、 深く考察すべきである。 そうしなければ、経論 (経典と注釈書) もすべて意味をなさなくなってしまうのである。 合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村