第二段 〔『正法眼蔵』原文〕 しかあるに、雲巌道の大悲菩薩、 用許多手眼作麼の道を挙拈して、 参究すべきなり。 観音を保任せしむる家門あり、観音を未夢見なる家門あり。 雲巌に観音あり、道吾と同参せり。 たゞ一両の観音のみにあらず、百千の観音、おなじく雲巌に同参す。 観音を真箇に観音ならしむるは、ただ雲巌会のみなり。 所以はいかん。 雲巌道の観音と、余仏道の観音と、道得道不得なり。 余仏道の観音はただ十二面なり、雲巌しかあらず。 余仏道の観音はわづかに千手眼なり、雲巌しかあらず。 余仏道の観音はしばらく八万四千手眼なり、雲巌しかあらず。 なにをもつてかしかありとしる。 〔『正法眼蔵』私訳〕 そうであるから、雲巌が道 イ う「大悲菩薩は、たくさんの手眼を用いて何をするのか」という言葉を取り上げて、参究しなければならない。 観音を自己のものとする家門があり、 観音をいまだ夢にすら見たことのない家門がある。 雲巌に観音があり、道吾と共に修行する。 ただ一人二人の観音だけではなく、百千 (無量) の観音が、 同じく雲巌と共に修行する。 観音を真に観音ならしめるのは、ただ雲巌の門下だけである。 それはどういうわけか。 雲巌は観音を言い得ており、他の僧は観音を言い得ていないからである。 他の僧が言う観音は十二面だけであるが、雲巌はそうではない。 他の僧が言う観音はわずかに千の手と眼であるが、雲巌はそうではない。 他の僧が言う観音はしばらく八万四千の手と眼であるが、雲巌はそうではない。 どういうわけでそうだと分かるのか。 観音を自己のものとする家門がある『第十八観音』18-2b(聞書抄) 合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村
〔『抄』原文〕 「観音を保任せしむる家門あり、観音を未夢見なる家門あり。雲巌に観音あり、道吾と同参せり。たゞ一両の観音〔のみにあらず、百千の観音、おなじく雲巌に同参す。観音〕を真箇に観音ならしむるは、ただ雲巌会のみなり。」 是は「観音を保任せしむる家門あり」とは、今の「雲巖」「道吾」の事なり。「観音未夢見なる家門有」とは、祖門に所談にあらざる所をさすなり。 「雲巌に観音あり」とは、今の「用許多手眼作麼」の詞歟。 此「雲巖」「道吾」の「一両の観音のみにあらず」、此 「雲巖」「道吾」の「観音」には、「百千の観音」皆「同参する」なりと云なり。「雲巌 会のみなり」とは讃嘆詞歟。 「所以はいかん。雲巌道の観音と、余仏道の観音と、道得道不得なり。余仏道の観音はただ十二面なり、雲巌しかあらず。余仏道の観音はわづかに千手眼なり、雲巌しかあらず。余仏道の観音はしばらく八万四千手眼なり、雲巌しかあらず。なにをもつてかしかありとしる。」 是は、「雲巌道の観音」は「道得」と云ひ、「余仏道」は「道不得」とあり、勝劣があるように聞こえる。 其故は、「雲巌道の観音」は「用許多手眼」とあり、「余仏道の観音」は、 或「十二面」「千手眼」「八万四千手眼」なむとある所を、しばらく如此被挙なり。 さればとて、釈尊所説の「観音」を劣なりと云べきにあらず。 仏言何違此道理 。 更今人の思習はしたる所を、暫如此云なり。 〔『抄』私訳〕 〕 「観音を保任せしむる家門あり、観音を未夢見なる家門あり。雲巌に観音あり、道吾と同参せり。たゞ一両の観音のみにあらず、百千の観音、おなじく雲巌に同参す。観音を真箇に観音ならしむるは、ただ雲巌会のみなり」とある。 これは「観音を保任せしむる家門あり」とは、今の「雲巖」「道吾」のことである。「観音未夢見なる家門あり」とは、祖師の教えで談ずるところでない所を指すのである。 「雲巌に観音あり」とは、今の「用許多手眼作麼」の言葉である。 この「雲巖」と「道吾」の「一両の観音のみにあらず」、この「雲巖」と「道吾」の「観音」には、「百千の観音」がみな「同参する」というのである。 「雲巌会のみなり」とは、讃嘆の言葉である。 「所以はいかん。雲巌道...