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宣宗皇帝は、常に結跏趺坐を好み、宮中にあって常に坐禅した『第十六行持』16-21-1

〔『正法眼蔵』原文〕    唐宣宗 センソウ 皇帝は、憲宗 ケンソウ 皇帝第二の子なり。 少而 ショウニ より敏黠 ビンカツ なり。 よのつねに結跏趺坐 ケッカ フザ を愛す。宮にありてつねに坐禅す。 穆宗 ボクソウ は宣宗の兄なり。 穆宗在位のとき、早朝罷 ソウチョウハ に、宣宗すなはち戯而 ケニ して、 龍床 リュウショウ にのぼりて揖群臣勢 ユウグンシンセイ をなす。 大臣これをみて、心風 シンプウ なりとす。すなはち穆宗に奏 ソウ す。 穆宗みて、宣宗を撫而 ブニ していはく、「我が弟は乃 スナハ ち吾が宗 ソウ 之 ノ 英冑 エイチュウ 也 ナリ 」。ときに宣宗、としはじめて十三なり。  穆宗は長慶四年晏駕 アンガ あり。 穆宗に三子あり、一は敬宗 ケイソウ 、二は文宗 ブンソウ 、三は武宗 ブソウ なり。 敬宗父位をつぎて三年に崩ず。 文宗継位 ケイイ するに一年といふに、内臣謀而 ダイシン ボウニ 、これを易 エキ す。 〔『正法眼蔵』私訳〕                                唐の宣宗皇帝は、憲宗皇帝の第二子である。幼少の頃から敏 サト く賢 カシコ かった。 常に結跏趺坐を好み、宮中にあって常に坐禅した。 (唐宣宗皇帝は、憲宗皇帝第二の子なり。少而より敏黠なり。よのつねに結跏趺坐を愛す。 宮にありてつねに坐禅す。) 穆宗 ボクソウ は宣宗の兄である。穆宗が帝位にあった時、早朝の政務のあとで、 宣宗が戯れに皇帝の座にのぼって群臣の拝に対して会釈するまねをした。 大臣がそれを見て、気違いだといって、穆宗に申し上げた。 (穆宗は宣宗の兄なり。穆宗在位のとき、早朝罷に、宣宗すなはち戯而して、龍床にのぼりて揖群臣勢をなす。大臣これをみて、心風なりとす。すなはち穆宗に奏す。) 穆宗はそれを見て、宣宗の頭を撫でて言った、「我が弟は我が一族の優れた世継である。」。その時宣宗は、十三歳になったばかりであった。 (穆宗みて、宣宗を撫而していはく、「我が弟は乃ち吾が宗之英冑也」。 ときに宣宗、としはじめて十三なり。)  穆宗は長慶四年 (824年) に崩御した。穆宗に三人の子があり、 長男は敬宗、次男は文宗、三男は武宗である。 (穆宗は長慶四年晏駕あり。穆宗に三子あり、一は敬宗、二は文宗、三は武宗なり。) 敬宗は...
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わが宗は、お前に到って大いに世に興るであろう『第十六行持』16-20-2

  〔『正法眼蔵』原文〕 師在黄檗、与黄檗栽杉松次、黄檗問師曰、「深山裏、栽許多樹作麽」。        《師、黄檗 オウバク に在 ア りしとき、黄檗と与 トモ に杉松 サンショウ を栽うる次 ツイ でに、   黄檗、師に問うて曰く、「深山の裏 ウチ に許多 ソコバク の樹を栽えて作麽 ソモ )」》 師曰、「一与山門為境致、二与後人作標榜」。乃将鍬拍地両下。             《師曰く、「一には山門の与 タメ に境致 キョウチ と為 ナ し、二には後人の与に標榜 ヒョウボウ と作す」。 乃 スナハ ち鍬 クワ を将 モッ て地を拍 ウ つこと両下 リョウゲ す》                                      黄檗拈起拄杖曰、「雖然如是、汝已喫我三十棒了也。 《黄檗、拄杖 シュジョウ を拈起ネンキして曰く、 「然 シカ も是 カク の如くなりと雖も、汝已 スデ に我が三十棒を喫し了 オワ れり」》 師作嘘嘘声 《師、嘘嘘声 キョキョセイ をなす》 。                          黄檗曰、「吾宗到汝大興於世」。 《黄檗曰く、「吾 ワ が宗、汝に到って大いに世に興らん」》      しかあればすなはち、得道ののちも杉松などをうゑけるに、てづからみづから鍬柄 シュウヘイ をたづさへけるとしるべし。 「吾宗到汝大興於世 ゴシュウ トウニョ ダイコウ オセ 」これによるべきものならん。 栽松道者 サイショウドウジャ の古蹤 コショウ 、まさに単伝直指 タンデン ジキシ なるべし、 黄檗も臨済とともに栽樹するなり。 黄檗のむかしは、捨衆 シャシュ して大安精舎 ダイアン ショウジャ の労侶 ロウリョ に混迹 コンセキ して、殿堂 デンドウ を掃洒 ソウサイ する行持あり。 仏殿を掃洒し、法堂 ハットウ を掃洒す。 心を掃洒すると行持をまたず、ひかりを掃洒すると行持をまたず。 裴相国 ハイショウコク と相見 ショウケン せし、この時節なり。  〔『正法眼蔵』私訳〕 臨済が黄檗禅師の所にいたとき、 黄檗とともに杉や松を植えていた際に、 黄檗が臨済に尋ねて言った、 「こんな深い山の中に沢山の木を植えてどうするつもりか」。 (師、黄檗に在りしとき、黄檗と与に杉松を栽うる次でに、 黄檗、師に問...

臨済の修行は純一でその行持はずば抜けていた『第十六行持』16-20-1

〔『正法眼蔵』原文〕  臨済院慧照大師 リンザイイン エショウ ダイシ は、黄檗 オウバク の嫡嗣 テキシ なり。 黄檗の会 エ にありて三年なり。純一に辨道するに、睦州陳尊宿 ボクシュウチン ソンシュク の教訓によりて、仏法の大意 ダイイ を黄檗にとふこと三番するに、かさねて六十棒を喫 キッ す。なほ励志 レイシ たゆむことなし。 大愚 ダイグ にいたりて大悟することも、すなはち黄檗、睦州両尊宿の教訓なり。祖席の英雄は臨済・徳山といふ。 しかあれども、徳山いかにしてか臨済におよばん。 まことに臨済のごときは、群に群せざるなり。 そのときの群は、近代の抜群 バックン よりも抜群なり。 行業 ギョウゴウ 純一にして行持抜群せりといふ。 幾枚幾般の行持なりとおもひ擬せんとするに、あたるべからざるものなり。 〔『抄』私訳〕 臨済院慧照大師の段、文の通りである。 「陳尊宿の教訓によりて、仏法の大意を黄檗にとふ」ときに、「三番する」と、一番につき二十回ずつ合計「六十棒」を与えたけれども、「励志たゆむことなし」。 「大愚にいたりて大悟することも、すなはち黄檗、睦州両尊宿の教訓なり」。「黄檗」と「臨済」の問答の文で詳細に書かれている。 〔『正法眼蔵』私訳〕                     臨済院の慧照大師 (臨済義玄) は、黄檗 (希運禅師) の法を嗣いだ人である。 黄檗の門下にあって三年であった。純一に坐禅修行に精進していたとき、 兄弟子の睦州陳尊宿の教導によって、仏法の大意を黄檗に三度尋ねると、 その度に二十棒、あわせて六十棒をくらった。 (臨済院慧照大師は、黄檗の嫡嗣なり。黄檗の会にありて三年なり。 純一に辨道するに、睦州陳尊宿の教訓によりて、 仏法の大意を黄檗にとふこと三番するに、かさねて六十棒を喫す。) それでもなお求道の志は弛 ユル むことがなかった。 のちに大愚和尚 (高安大愚) の所に至って大悟したことも、 黄檗と睦州の両高僧の教導によるものである。 (なほ励志たゆむことなし。大愚にいたりて大悟することも、 すなはち黄檗・睦州両尊宿の教訓なり。) 仏祖の道場で傑出した人は臨済義玄と徳山宣鑑であると言う。 しかしながら、徳山はどうして臨済に及ぼうか。 (祖席の英雄は臨済徳山といふ。 しかあれども、徳山いかにしてか臨済におよばん。) まこと...