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驚き怪しまれる恁麼があっても、それがまた恁麼である『第十七恁麼』17-1-4a(正法眼蔵)

  第一段④ 〔『正法眼蔵』原文〕 「又恁麼事の恁麼あるにも、おどろくべからず。 たとひおどろきあやしまるゝ恁麼ありとも、さらにこれ恁麼なり。 おどろくべからずといふ恁麼あるなり。 これたゞ仏量にて量ずべからず、心量にて量ずべからず、 法界量 ホッカイリョウ にて量ずべからず、尽界量にて量ずべからず。 たゞまさに「既是 キゼ 恁麼人、何愁 ガシュウ 恁麼事」なるべし。」 〔『正法眼蔵』現代語訳〕 また恁麼の事がそのようである (恁麼ある) ことも、驚くに及ばない。 たとえ、驚き怪しまれる恁麼があっても、それがまた恁麼なのである。 驚くに及ばないという恁麼があるのである。 恁麼の道理は、仏の量 ハカリ によっても、心の量によっても、法界の量によっても、尽界の量によっても量ることができない量 リョウ である。 ただまさに、「すでにすべての人は恁麼の人であるから、 恁麼の事を愁えることは要らない」のである。 驚き怪しまれる恁麼があっても、それがまた恁麼である『第十七恁麼』17-1-4b(聞書抄)                        合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村
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驚き怪しまれる恁麼があっても、それがまた恁麼である『第十七恁麼』17-1-4b(聞書抄)

  〔『抄』原文〕 「又恁麼事の恁麼あるにも、不可驚。たとひ驚きあやしまるゝ恁麼ありとも、 さらに是恁麼なり。おどろくべからずと云ふ、恁麼あるなり。」  文の如し。驚と云も、あやしむと云も、皆恁麼なり。ゆゑに、如此いはるゝなり。 「是只仏量にて量ずべからず、心量にて量ずべからず、法界量にて量ずべからず、尽界量にて量ずべからず、たゞまさに既是恁麼人、何売愁恁麼事なるべし。」  まことに此恁麼の道理、仏量、心量、法界量にて不可量量なり。只既是恁麼人、何愁恁麼 事なるべきなり。仏量にも、心量にも、法界量にも、尽界量にも不可量とは、只一物にと ゞこおる所を如此被嫌なり。是則説似一物即中の道理なり。 〔『抄』現代語訳〕 「又恁麼事の恁麼あるにも、不可驚。たとひ驚きあやしまるゝ恁麼ありとも、さらに是恁麼なり。おどろくべからずと云ふ、恁麼あるなり。」とある。  文の通りである。「おどろく」といっても、「あやしむ」といっても、みな「恁麼」であ るから、このように言われるのである。 「是只仏量にて量ずべからず、心量にて量ずべからず、法界量にて量ずべからず、尽界量にて量ずべからず、たゞまさに既是恁麼人、何売愁恁麼事なるべし。」とある。  本当にこの「恁麼」の道理は、「仏の量 ハカリ 」「心の量」「法界の量」で量ることはできな い「量 リョウ 」なのである。「只既是恁麼人、何愁恁麼事」のである。「仏の量」でも「心の 量」でも「法界の量」でも「尽界の量」でも量ることはできないとは、ただ一つのものに 滞ること (限定解釈されること) をこのように斥けられるのである。これはすなわち「一物も説似しようとすれば即ち中らず」 (言語で説明しようとすると、説明した途端に的外れになる) の道理である。 〔『聞書』原文〕 /「仏量にて量るべからず」と云は、今云「仏量」は猶教家の心地なり。こなたには「仏量」とも不可云。すべて「量」不可有。ゆへに又、「量」を嫌ふのみならず、恁麼の時節には、仏をも法をも不可用。 〔『聞書』現代語訳〕 /「仏の量りで量ることができない」と言う。今言う「仏の量」はなお教家の意味合いである。こちら (仏意) では「仏の量」とも言わない。すべて「量ること」ができないのである。だからまた「量」を斥けるだけでなく、「恁麼」の時節には「仏」も「法」も用いることがないのである。 驚き怪...

恁麼の人であるから、菩提心が発るのである『第十七恁麼』17-1-3a(正法眼蔵)

  第一段③ 〔『正法眼蔵』原文〕  身すでにわたくしにあらず、 いのちは光陰にうつされて、しばらくもとゞめがたし。 紅顔いづくへかさりにし、たづねんとするに蹤跡 ショウセキ なし。 つらつら観ずるところに、往事のふたゝびおふべからざるおほし。 赤心もとゞまらず、片々として往来す。 たとひまことありといふとも、 吾我 ゴガ のほとりにとゞこほるものにあらず。 恁麼なるに、無端に発心するものあり。 この心おこるより、向来 キョウライ もてあそぶところをなげすてゝ、 所未聞 ショミモン をきかんとねがひ、所未証 ショミショウ を証せんともとむる、 ひとへにわたくしの所為にあらず。 しるべし、恁麼人なるゆゑにしかあるなり。 なにをもつてか恁麼人にてありとしる、 すなはち恁麼事をえんとおもふによりて恁麼人なりとしるなり。 すでに恁麼人の面目あり、いまの恁麼事をうれふべからず。 うれふるもこれ恁麼事なるがゆゑに、うれへにあらざるなり。 〔『正法眼蔵』現代語訳〕  この身はすでに私ではなく、命は時の流れに遷されて、 しばらくも留めておくことはできない。 紅顔はどこへ去ったのであろうか、尋ねてみようとしても跡形がない。 よく観察してみると、過去のことに再び会おうとしても多くは会うことはできない。 これだけは真実であると思っているまことの心も留まることなく、 その時その時で行ったり来たりする。 たとえ真実があるといっても、自分の考え方に停滞するものではない。 このようであるが、いつということもなく発心するものがある。 この心が発ると、これまで弄んできたことを投げ捨てて、まだ聞いたことがない真理を聞こうと願い、まだ悟っていないことを悟ろうと求めるのである。 こうしたことはまったく自分がなすところではないのである。 知らなければならない、恁麼の人であるから、菩提心が発るのである。 何によって、恁麼の人であると分かるのか。 それは、恁麼の事を得ようと思うから、恁麼の人であると分かるのである。 すでに恁麼の人の面目がある、今の恁麼の事を愁える必要はない。 愁えるとしても、恁麼の事であるから、愁いではないのである。 恁麼の人であるから、菩提心が発るのである『第十七恁麼』17-1-3b(抄)                        合掌 ランキングに参加中です。よろしければク...

恁麼の人であるから、菩提心が発るのである『第十七恁麼』17-1-3b(抄)

  〔『抄』原文〕 「身すでにわたくしにあらず、命は光陰にうつされて、暫もとゞめがたし。」   此詞は、無常を観ずる小乗の詞に似たり。是は、生老病死の姿、我と云べきにあらず。老 も病も死も、皆「私」の進退 シンタイ にあらず、時節に被転もてゆく道理を、凡夫の上、世間の 法猶如此、況仏法の上に我を不可立と云道理を云はむ料なり。能々可心得事なり。 「つらつら観ずる所に、往 ワウ 事の二たびあふへからざる多し。赤心もとゞまらず、片々として往来す。たとひまことありと云ども、吾我のほとりにとゞこほるものにはあらず。」   「片々として往来す」とは、「光陰にうつさる」ゝ事を云歟。「まことありと云ふとも、 吾我の」見にとゞまるべからずと云なり。 「無端に発心するものあり。この心おこるより、向来もてあそぶ所をなげすてゝ、所未聞をきかむとねがひ、所未証を証せむともとむる。ひとゑにわたくしの所為にあらず。しるべし、恁麼人なるゆゑにしかあるなり。」   「無端に発心する物あり」とは、「発心」と云は、いかにも物一を縁として「発心」する なり。此「発心」非縁起。「尽界」を指て「発心」と談ず。全於身彼が「発心する」と  は不云なり。ゆへに、「無端に発心する」とは云はるゝなり。              「此心おこるより、向来もてあそぶ所をなげすつ」とは、仮令三乗の教を説く学者、小乗権門の族、乃至世俗塵労に心をそむる人 、 此如「心」を「なげすてゝ、所未 聞をきかむ、所未証を証せむともとむる」人の事を如此云なり。所詮、法を聞、法を「証せむともとむる」「心」あらむ人は「私の所為にあらず」。是併 シカシナガラ 、宿善開発する「恁麼人なり」と云心なり。尤憑敷 タノモシキ 事なり。已下如文。 〔『抄』現代語訳〕 「身すでにわたくしにあらず、命は光陰にうつされて、暫もとゞめがたし」とある。   この言葉は無常を観じる小乗の言葉のようであるが、これは生老病死する姿を、「我」と言うのではない。生も老も病も死もみな「私」の進退ではなく、時節に転ぜられていく道理を、凡夫の上で、世間の法はやはりこのように言うのである。言うまでもなく、仏法の上では「我」を立ててはならないという道理 (無我を観ぜよ) を言うだけである。よく理解すべきことである。 「つらつら観ずる所に、往 ワウ 事の二たびあふへからざる多し...

無上の悟りに直に趣くことを恁麼インモ(かくの如し)と言う『第十七恁麼』17-1-2a(正法眼蔵)

〔正法眼蔵〕  いはゆるは、「恁麼事をえんとおもはば、すべからくこれ恁麼人なるべし。 すでにこれ恁麼人なり、なんぞ恁麼事をうれへん」。 この宗旨は、直趣無上菩提 ジキシュムジョウボダイ 、しばらくこれを恁麼といふ。 この無上菩提のていたらくは、すなはち尽十方界も無上菩提の少許 ショウコ なり。 さらに菩提の尽界よりもあまるべし。 われらもかの尽十方界の中にあらゆる調度なり。 なにによりてか恁麼あるとしる。 いはゆる身心 シンジン ともに尽界にあらはれて、 われにあらざるゆゑにしかありとしるなり。 〔正法眼蔵訳〕  言うところは、「恁麼 インモ の事を得ようと思うなら、当然恁麼の人であるべきである。 もともとすべての人は恁麼の人である、どうして恁麼の事が得られるかどうか心配することがあろうか。」ということである。 この宗旨は、この直趣無上菩提 (無上の悟りに直に趣くこと) を、 しばらくこれを恁麼 インモ(かくの如し) と言うのである。 この無上菩提のありようは、すなわち尽十方界 (全ての十方の世界) も 無上菩提 (無上の悟り) の少しばかりである。 さらに言えば、菩提 (悟り) は尽十方界よりも大きいのである。 我々もかの尽十方界の中にある調度である。 どうしてこのようであると知ったのか。 いわゆる身心はともに尽十方界に現れて (尽十方界はこの身心に現れて) 、 我のものではないから、そうであると知るのである。 無上の悟りに直に趣くことを恁麼インモ(かくの如し)と言う『第十七恁麼』17-1-1b(聞書抄)                         合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村