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大鑑慧能禅師:風も幡も動もみな心である『第十七恁麼』17-4-1a(正法眼蔵)

  第四段①  〔『正法眼蔵』原文〕  第三十三祖大鑑禅師 ダイカンゼンジ 、未剃髪のとき、広州法性寺 ホッショウジ に宿するに、 二僧ありて相論 ソウロン するに、 一僧いはく、「幡 バン の動ずるなり」。 一僧いはく、「風の動ずるなり」。 かくのごとく相論往来して休歇 キュウカツ せざるに、 六祖いはく、「風動にあらず、幡動にあらず、仁者心動 ジンシャシンドウ なり」。 二僧きゝてすみやかに信受す。  この二僧は西天よりきたれりけるなり。 しかあればすなはち、この道著 ドウヂャク は風も幡も動も、 ともに心にてあると、 六祖は道取するなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕  第三十三祖 (中国第六祖) の大鑑慧能 エノウ 禅師がまだ頭を剃る前のこと、 広州の法性寺で過ごしていた頃、二人の僧が論争したことがあった。 一方の僧は、「幡 ハタ が動くのだ」と言い、 もう一方の僧は、「風が動くのだ」と言い、 このように議論を交わして決着が着かなかったので、 六祖が言った、「風が動くのではない、幡が動くのではない、 仁者 (あなた) の心が動くのである」と。 この二人の僧はそれを聞いて、すぐに了解した。  この二人の僧はインドから来たのである。 そうであれば、ここで言われていることは、 風も幡も動もみな心である (三界唯一心) 、と六祖は言うのである。                          合掌 大鑑慧能禅師:風も幡も動もみな心である『第十七恁麼』17-4-1b(聞書抄) ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村
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大鑑慧能禅師:風も幡も動もみな心である『第十七恁麼』17-4-1b(聞書抄)

  〔抄原文〕   「第三十三祖大鑑禅師、未剃髪 テイハツ のとき、広 コウ 州法性寺に宿する に、二僧あ        り て相論するに、一僧いはく、幡の動ずるなり。一僧いは く、風の動ずるな    り。如此相論往来して休歇 キウカツ せさるに、六祖いはく、風動にあらず、幡動に   あらず、仁者心動なり。二僧きゝてすみやかに信受す。」 「六祖未剃髪の時」と云へば、未伝法只尋常人なりし時を指て云かと覚えたり。 已在俗の昔、伝法伝衣し御き、其以後事なり、伝法以後出家なり。 一僧の心地は、いかに風が吹とも、幡なからむには不可動と云歟。 一僧の心地には、幡ありとも、不被吹風争可動と云か。 是を「六祖」は、「非風動、非幡動、仁者心動なり」と被仰は、 前の「風鳴」、「鈴鳴」を「心鳴」と有しが如く、幡動も風動も心の念起なり、 と六祖は被仰と心得は邪見なり。 「二僧聞て速 スミヤカ に信受す」とあれば、「六祖」の如本意心得たりけるか、 こゝには不分明、おぼつかなし。 然者、則この道著は、「風も幡も動も共に心」にてあり、 と「六祖」は道取するなり。以下如文。 〔抄私訳〕   「第三十三祖大鑑禅師、未剃髪 テイハツ のとき、広 コウ 州法性寺に宿する に、二僧あ        り て相論するに、一僧いはく、幡の動ずるなり。一僧いは く、風の動ずるな    り。如此相論往来して休歇 キウカツ せさるに、六祖いはく、風動にあらず、幡動に   あらず、仁者心動なり。二僧きゝてすみやかに信受す。」   とある。 「六祖が未剃髪の時」と言えば、仏祖の大法を伝授されていないごく普通の人であった時を指していると思われるが、「六祖」はすでに在家の昔に伝法伝衣 (仏法と法衣を伝授されること) を終えており、それ以後の出来事であり、伝法以後の出家である。 「一人の僧」の考は、どんなに風が吹いても、「幡」がなければ「動く」はずがないというのであり、もう「一人の僧」の考えは、幡があっても、「風」が吹かなければ「動く」はずがないというのである。 これを「六祖」は、「風が動くのではない、幡が動くのではない、仁者の心が動くのだ」と仰せになったのは、前に「風が鳴る」、「鈴が鳴る」というのを、「心が鳴る」としたように、幡が動くのも風が動くのも心の念が起るのである、と六祖が仰せになったと解するのは邪見である。 ...

一つでも寂静であれば、あらゆるものはみな寂静である『第十七恁麼』17-3-3a(正法眼蔵)

  第三段③ 〔『正法眼蔵』原文〕  しかあるを、仏道の嫡嗣 テキシ に学しきたれるには、 無上菩提正法眼蔵、 これを寂静といひ、無為といひ、三昧といひ、陀羅尼 ダラニ といふ道理は、 一法わづかに寂静なれば、万法ともに寂静なり。 風吹 フウスイ 寂静なれば鈴鳴 リンメイ 寂静なり。 このゆゑに「倶寂静」といふなり。 心鳴は風鳴にあらず、心鳴は鈴鳴にあらず、心鳴は心鳴にあらずと道取するなり。 親切の恁麼なるを究辨 キュウベン せんよりは、さらにたゞいふべし、 「風鳴なり」、「鈴鳴なり」、「吹鳴なり」、「鳴々なり」ともいふべし。 「何愁 ガシュウ 恁麼事」のゆゑに恁麼あるにあらず、 何関 ガカン 恁麼事なるによりて恁麼なるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕  ところが、仏道を正しく受け継いだ人に学んできた人は、 無上菩提正法眼蔵 (この上ないさとり) 、 これを寂静と言い、無為 (因果を離れた不生不滅のありよう) と言い、三昧 (寂静無為の本性を体験すること) と言い、陀羅尼 ダラニ(善法を保持すること) と言うのである。 その道理は、わずか一つでも寂静であれば、あらゆるものはみな寂静であるということである。 風が吹くのが寂静ならば、鈴が鳴るのも寂静であるから、「倶に寂静」と言うのである。 心鳴 (実物の音) は風鳴 (風が鳴るという思い) ではない、心鳴は鈴鳴 (鈴が鳴るという思い) ではない、 心鳴は心鳴だと説明する必要はないほどはっきりしていると言っているのである。 実物が最も親しく真実であることを究め尽くした後は、さらに ただ「風が鳴る」、「鈴が鳴る」、「吹が鳴る」、「鳴が鳴る」と言えるであろう。 「恁麼の事 (その時にその事がそのようにあるありようの事) を愁える必要はない」から 恁麼 (かくの如く) あるのではない、 恁麼の事は自分がどうするというものではないから、 恁麼 (かくの如く) あるのである。                               合掌 一つでも寂静であれば、あらゆるものはみな寂静である『第十七恁麼』17-3-3b(聞書抄) ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       ...

一つでも寂静であれば、あらゆるものはみな寂静である『第十七恁麼』17-3-3b(聞書抄)

  〔抄原文〕 「何愁 シウ 恁麼事 ナンソウレエムイムモノシヲ のゆゑに恁麼あるにあらず、何 関 恁麼事なるによりて恁麼なるなり。」  是は、「何愁恁麼事」と云へば、只一筋に恁麼なれば、なむぞ恁麼の事を愁む    と許云たるやうにきこゆるを、「何関恁麼事なるによりて恁麼なるなり」とは、 風鳴なるべきか、鈴鳴なるべきか、心鳴なるべきか、いづれにあづかるべきぞと暫うけたる言葉なり、非不審。 「何」字如例いづれにもあたるべきなり。 説似一物即不中理なり。 〔抄私訳〕 「なんぞ恁麼事をうれへん」のゆゑに恁麼あるにあらず、「なんぞ恁麼事に関わらん」なるによりて恁麼なるなり」とある。  これは「なんぞ恁麼事をうれへん」と言えば、ただひたすら恁麼であれば、 どうして「恁麼事を愁えることがあろうか」とばかり言っているように思わ れるが、 「なんぞ恁麼事に関わらんなるによりて恁麼なるなり」とは、 「風が 鳴る」のか、「鈴が鳴る」のか、「心が鳴る」のか、どれに関わるのか、とし ばらく受けとめた言葉であり、不審しているのではない。  「何」という字は、例のように何にでも当てはまるのである。 「一物を説似す れども即ち中らず」という道理である。 〔聞書原文〕 /「親切の恁麼なるを究辨せむよりは」と云は、後 ノチ を勝たりと云はむとするには非ず。親切の恁麼ならむ時より後は、風鳴、鈴鳴、吹鳴、鳴々と云うべしとなり。 /「親切の恁麼なるを究辨せむよりは、さらにたゞいふべし」といふとあれば、「親切の恁麼なるを究辨」せりよりこのかたと心得るなり。さればこそ、吹鳴、鳴々と云ふ言葉も やすく云はるれ。自 ミツカラ 究辨 キウハム とは心得まじ。 /「何愁恁麼事のゆゑに恁麼あるにあらず」と云は、欲得恁麼事が恁麼人とも既是恁麼人とも、今、何愁とも言わるゝときに、何愁と云より恁麼と心得べからずとなり。 /「何関恁麼事」と云は、会不会恁麼ならずと云事なし。その上は、実に何をかあづから むとなり。又、「関」とあるは、風鳴、鈴鳴、心鳴なむと云をあげて、何関恁麼事とも云うべし。 〔聞書私訳〕 /「親切の恁麼なるを究辨せむよりは」とは、〔実物が最も親しく真実であることを究め尽くした〕後を勝れていると言おうとしているのではない。 「親切の恁麼」である時から後は、「風が鳴る」「鈴が鳴る」「吹が鳴る」「鳴が鳴る」と...