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趙州和尚は六十一歳になって修行の旅に出た『第十六行持』16-11

   趙州 ジョウシュウ 観音院真際 シンサイ 大師従諗 ジュウシン 和尚、 とし六十一歳なりしに、はじめて発心求道 ホッシン グドウ をこころざす。 瓶錫 ビョウシャク をたづさへて行脚 アンギャ し、遍歴諸方するに、 つねにみづからいはく、 「七歳童子、若勝我者、我即問伊。百歳老翁、不及我者、我即教他 《七歳の童子なりとも、若し我よりも勝れば、我 ワレ 即ち伊 カレ に問うべし。 百歳の老翁なりとも、我に及ばざれば、我即ち他 カレ を教ふべし》 」。                                      かくのごとくして南泉の道を学得する功夫 クフウ 、すなはち二十年なり。 年至 ネンシ 八十のとき、はじめて趙州城東観音院に住して、 人天 ニンデン を化導 ケドウ すること四十年来なり。 いまだかつて一封の書をもて檀那 ダンナ につけず。 僧堂おほきならず、前架なし、後架 コウカ なし。 あるとき牀脚 ジョウキャク をれき。 一隻 イッセキ の焼断 ショウダン の燼木 ジンボク を、縄をもてこれをゆひつけて、 年月を経歴 キョウリャク し修行するに、知事、この床脚をかへんと請 ショウ ずるに、 趙州ゆるさず。 古仏の家風、きくべし。                                  趙州の趙州に住することは八旬よりのちなり、伝法よりこのかたなり。 正法正伝 ショウボウ ショウデン せり。 諸人これを古仏といふ。 いまだ正法正伝せざらん余人 ヨニン は師よりもかろかるべし。 いまだ八旬にいたらざらん余人は師よりも強健 ゴウコン なるべし。 壮年にして軽爾 キョウニ ならんわれら、なんぞ老年の崇重 ソウヂュウ なると ひとしからん、はげみて弁道行持すべきなり。  〔『正法眼蔵』私訳〕                         趙州観音院の真際大師従諗和尚は、六十一歳のときに 始めて菩提心を発 オ こし菩提道を求めることを志した。 (趙州観音院真際大師従諗和尚、とし六十一歳なりしに、はじめて発心求道をこころざす。)  浄瓶 ジョウビョウ(水を入れる器) と錫杖 シャクジョウ(行脚に使う杖) を携えて行脚 (諸国を巡り歩いて修行する) し、諸方を遍歴するときに、...
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道を得てからは天人が禅師を探しても見ることは出来なかった『第十六行持』16-10a 

〔『正法眼蔵』原文〕                                             鏡清 キンシン 和尚住院のとき、土地神 ドヂジン かつて師顔 シガン をみることえず、 たよりをえざるによりてなり。                                     三平山 サンペイザン 義忠 ギチュウ 禅師、そのかみ天厨 テンチュウ 送食 ソウジキ す。 大顚 ダイテン をみてのちに、天神 テンジン また師をもとむるに、みることあたはず。                      〔『正法眼蔵』私訳〕                                            鏡清和尚が禅院の住持であったとき、土地神 (寺院を守護する神) は一度も和尚の顔を見ることが出来なかった。 和尚に近づく手がかりを得ることができなかったからである。 (鏡清和尚住院のとき、土地神かつて師顔をみることえず。たよりをえざるによりてなり。)                 三平山の義忠禅師は、その昔天人から食物を送られていた。 しかし、師の大顚宝通和尚に参じて道を得てからは、天人が再び禅師を探しても、見ることは出来なかった。 (三平山義忠禅師、そのかみ天厨送食す。 大顚をみてのちに、天神また師をもとむるに、みることあたはず。) 道を得てからは天人が禅師を探しても見ることは出来なかった『正法眼蔵第十六行持』16-10b                合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                     ↓               ↓       にほんブログ村

道を得てからは天人が禅師を探しても見ることは出来なかった『第十六行持』16-10b 

  〔『聞書』私訳〕    /三平山義忠禪師。                                 /「天厨送食す。大顚を見てのちに、天神また師を」見ない。 これは仏法が伝わった証しである。 その理由は、今の人でも、外道の法を行じて、 魔道によって不思儀な事を現すと信仰するであろう。 正しく仏道を行じて人情に従わなければ、人はこれを貴ばないであろう。 雲居山弘覚大師が、三峰庵に住したときの行は、天はこれを貴んだけれども、伝法した後はその境界を離れたのである。   〔『抄』私訳〕                                                鏡清和尚の段、文の通りである。                                    「土地神」が「師顔をみることえず」、「たよりをえざるによりてなり」。 雲居山の弘覚大師と同じ。                                    「三平山義忠禪師」の段、文の通りである。                     これもまた、「天廚送食す」。 これもまた、法を得た後、「師をもとむるに、みることあたはず」。 大顚は石頭の弟子である。今の義忠は大顚の弟子である。                        合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                     ↓               ↓       にほんブログ村

百丈「一日なさざれば、一日食らわず」 『正法眼蔵第十六行持』16-9a 

〔『正法眼蔵』原文〕   百丈山 ヒャクジョウザン 大智禅師、 そのかみ馬祖 バソ の侍者とありしより、 入寂 ニュウジャク のゆふべにいたるまで、 一日も為衆為人 イシュイニン の勤仕 ゴンジ なき日あらず。 かたじけなく、「一日不作 イチニチ フサ 一日不食 フジキ 」のあとをのこすといふは、 百丈禅師すでに年老臘高 ネンロウロウコウ なり、なほ普請作務のところに、 壮齢 ソウレイ とおなじく励力 レイリキ す。 衆、これをいたむ、人、これをあはれむ、師、やまざるなり。 つひに作務のとき、作務の具をかくして、師にあたへざりしかば、 師、その日一日不食なり。 衆の作務にくはゝらざることをうらむる意旨なり。 これを百丈の「一日不作、一日不食」のあとといふ。 いま大宋国に流伝 ルデン せる臨済の玄風ならびに諸方の叢林 ソウリン 、 おほく百丈の玄風を行持するなり。                                                                                         〔『正法眼蔵』私訳〕                               百丈山の大智禅師 (百丈懐海禅師) は、その昔馬祖 (馬祖道一禅師) の侍者であった時から、入滅の夕方に至るまで、一日たりとも大衆と人のために勤めない日はなかった。   (百丈山大智禅師、そのかみ馬祖の侍者とありしより、入寂のゆふべにいたるまで、 一日も為衆為人の勤仕なき日あらず。) 恐れ多いことに、「一日なさざれば、一日食らわず」という故実を残したのは、百丈禅師がすでに老齢となり出家後の年数も大分経ってからのことであり、依然として普請作務 (大衆を普く請し勤労すること) のところで、若い僧たちと一緒に精を出した。 (かたじけなく、一日不作一日不食のあとをのこすといふは、 百丈禅師、すでに年老臘高なり、なほ普請作務のところに、壮齢とおなじく励力す。)      僧たちはこれを嘆き、ほかの人もこれを気の毒に思ったが、師はやめなかった。 (衆これをいたむ、人これをあはれむ、師やまざるなり。)                            やむをえず作務のとき、作務の道具を隠して師に与えなかったところ、 師はその日一日食事をとらなかった...