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諸祖が言った「無限の手眼の観音」を参究するとき、諸仏は観音の三昧を成就する『第十八観音』18-6-4a(正法眼蔵)

  〔『正法眼蔵』原文〕  いはんや雲巌の遍と道吾の通と、道得尽、道未尽にはあらざるなり。 雲巌の遍と道吾の通と比量の論にあらずといへども、 おのおの許多手眼は恁麼の道取あるべし。  しかあれば、釈迦老子の道取する観音はわづかに千手眼なり、十二面なり、 三十三身、八万四千なり。雲巌道吾の観音は「許多手眼」なり。 しかあれども、多少の道にはあらず。 雲巌道吾の許多手眼の観音を参学するとき、 一切諸仏は観音の三昧を成 ジョウ 八九成 ジョウ するなり。   正法眼蔵観音第十八   爾時 ニイジ 仁治三年壬寅 ジンイン 四月二十六日示 〔『聞書抄』を組込んだ『正法眼蔵』現代的再解釈〕 いわんや、 雲巖は「遍身是れ手眼」と言い、道吾は「通身是れ手眼」と言えば、通はやはり親しく、遍は少し疎遠なように思われる。 しかし、雲巌の遍と道吾の通は、どちらも手眼の上の遍と通であるから、 勝劣はないけれども、それぞれ無限の手眼をこのように言うのである。         そうであるから、釈迦老師が説かれた観音はわずか千手千眼であり、 十二面であり、三十三身であり、八万四千である。 一方、雲巌と道吾の観音は、「無限の手眼」である。 そうであるが、これは 多い少ないを言うのではない 。 雲吾と道吾が言った「無限の手眼の観音」を参究するとき、 一切の諸仏は観音の三昧を八九成 (十成を忌む) に成就するのである。 〔諸祖が説いた「 無限の手眼の観音」 を、諸仏が参究するという言葉に 驚くかもしれないが、諸仏と諸祖の差別が無い道理も理解できるのである。〕   正法眼蔵観音第十八                            時に、仁治三年壬寅 ミズノエトラ(1242年) 四月二十六日に説いた。 諸祖が言った「無限の手眼の観音」を参究するとき、諸仏は観音の三昧を成就する『第十八観音』18-6-4b(聞書抄)                             合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  
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諸祖が言った「無限の手眼の観音」を参究するとき、諸仏は観音の三昧を成就する『第十八観音』18-6-4b(聞書抄)

  〔『抄』原文〕 「雲巌の遍与道吾通、道得尽道未尽にはあらざるなり、雲巖遍与道吾通、 比量の論にはあらずといへども、各々 オノオノ 許多手眼は恁麼の道取あるべし。」   是は、「雲巖」は「遍身是手眼」と云ひ、「道吾」は「通身是手眼」 とあれば、「通」は猶したしく、「遍」は今すこしうときやうに覚ゆ。 但「雲巌」「道吾」の「遍」「通」の詞、共に「手眼」の上の「遍」「通」なれば、 なじかは勝劣あるべきなれども、 おのおの「許多手眼」は如此云はるべしとなり。 「しかあれば、釈迦老子の道取する観音はわづかに千手眼なり、 十二面なり、 三十三身、八万四千なり。雲巌道悟の観音は許多手眼なり。 しかあれども、多少の道にはあらず。」   是は「釈迦老師」の「観音」は数量にかゝはり、 「雲巖道吾の観音は許多手眼」とあれば、 猶仏言は不足に、祖言はかさみたる様に聞ゆ。 努々不可有其儀。争さる儀あるべき。 仏言の理がひゞきて今の道理あるゆへにこそ、今の祖言もいでくる上は、 勿論仏言の理ならでは、争今の「雲巖道吾」も此理をばあらはさるべき。 只、一旦詞のきこゆる所を如此いはるゝなり。 随、多少の道にあらずと被決上は勿論事なり。 仏言の「千手眼」も「三十三身」「八万四千」も皆「許多手眼」と可心得なり。 「雲巌道悟の許多手眼の観音を参学するとき、 一切諸仏は観音の三昧を成八九成するなり。」   此詞又逆にきこゆ。 仏言を参学してこそ、一切の仏祖も「観音の三昧を成八九成」すべきに、 今詞は被驚ぬべし。 但仏祖の皮肉、はじめて可驚にあらず。 如此談ずれば、弥法の親切なる道理もあらはるゝなり。 仏祖無差別の義も聞ゆるなり。 〔『抄』私訳〕    「雲巌の遍与道吾通、道得尽道未尽にはあらざるなり、雲巖遍与道吾通、 比量の論にはあらずといへども、各々 オノオノ 許多手眼は恁麼の道取あるべし」とある。   これは、 雲巖は「遍身是れ手眼」と言い、道吾は「通身是れ手眼」 と言えば、通はやはり親しく、遍は少し疎遠なように思われる。 しかし、雲巌の遍と道吾の通の言葉は、どちらも手眼の上の遍と通であるから、勝劣はないけれども、それぞれ許多 (無限の) 手眼をこのように言うのである 。 「しかあれば、釈迦老子の道取する観音はわづかに千手眼なり、十二面なり、 三十三身、八万四千なり。雲巌道悟の観音は許多手眼な...

ただ手と眼そのものを通身と言う『第十八観音』18-6-3a(正法眼蔵)

  『正法眼蔵』原文〕   道吾いはく、「通身是手眼 ツウシンゼシュゲン 」。   いはゆる道は、手眼たがひに手眼として通身なりといふにあらず、 手眼の通身を通身是手眼といふなり。   しかあれば、身 シン はこれ手眼なりといふにはあらず。 用許多手眼は、用手用眼の許多なるには、 手眼かならず通身是手眼なるなり。 「用許多身心作麼 ソモ 」と問取せんには、 「通身是作麼」なる道得もあるべし。 〔『聞書抄』を組込んだ『正法眼蔵』読解〕  道吾は言った、「通身是れ手眼」。  この言葉は、身を置いて、その上に手と眼がびっしり取り付けられている と言うのではない。 ただ手と眼そのものを通身と言い、別の物ではないのである。 〔身を置いて、その上に手と眼が取り付けられていると考えるのは、 凡夫の見方であり、仏法ではない。〕  そうであるから、身は手と眼であると言うのではない。 「用手用眼 (手を用い、眼を用いること) 」は、 「全手全眼 (全てが手、全てが眼) 」と言うようなことである。 〔仏々 聻 ニイ(仏そのもの) なり、性々聻 (性そのもの) なりと言うほどのことである。 通身と言えば、どうしても身を置いて、その上に手と眼を備えていると 解するであろうところを退ける為に、このように繰り返し釈されるのである。〕 手と眼が身心である道理を表わすために、「たくさんの身心を用いて何をする」 と問われたら、「通身是れ何」という言い方もあろう。 ただ手と眼そのものを通身と言う『第十八観音』18-6-3b(聞書抄)                             合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  

ただ手と眼そのものを通身と言う『第十八観音』18-6-3b(聞書抄)

〔『抄』原文〕  「道吾いはく、通身是手眼。 いはゆる道は、手眼たがひに手眼として 通身なりといふにあらず、手眼の通身を通身是手眼といふなり。」   是は、「身」をば置て、其上に「手眼」のひしと取付たるを云にはあらず。 只「手眼」の当体を「通身」と云なり、別物にあらず。 「身」をば置て、其上に「手眼」の取付たると心得ば、 可同凡見非仏法。 「しかあれば、身はこれ手眼なりといふにはあらず。用許多手眼は、 用手用眼の許多なるには、手眼かならず通身是手眼なるなり。」  「用手用眼」は「全手全眼」と云はむが如し。 仏々 聻なり、性々聻なりと云ひし程の事なり。 「通身」と云へば、いかにも「身」を置て、其うへに「手眼」を具足したるやうに被心得ぬべき所を為謝、如此返々被釈なり。 「用許多身心作麼と問取せんには、通身是作麼なる道得もあるべし。」   是は、所詮「身」に「手眼」の取付たる様に聞ゆ。 又人も如此思つけぬべきを、只「身」と云物はあるまじ。 「手眼」を「通身」と談ずる時に、「手眼」の「通身」なるべし。 然者こゝに「身心」とて別の「身」の被引出むずる心地にてはなし。 「手眼」の「身心」なる理をあらはさむ料に「用許多身心作麼と問取せんには、通身是作麼なる道得もあるべし」とは、相搆「手眼」の外に別に「身」と云事を思付させじとて、如此被釈なり。 只とかく詞は多やうなれども、以「手眼」「身」と談ずるは、 「手眼」外、別身」なき理をいくたびもあらはさむ料なりと可心得。 〔『抄』和訳〕  「道吾いはく、通身是手眼。 いはゆる道は、手眼たがひに手眼として通身なりといふにあらず、手眼の通身を通身是手眼といふなり」とある。   これは、「身」を置いて、その上に「手と眼」がびっしり取り付けられていることを言うのではない。 ただ「手と眼」そのものを「通身」と言い、別の物ではないのである。 「身」を置いて、その上に「手と眼」が取り付けられていると考えるのは、 凡夫の見方と同じであり、仏法ではないのである。 「しかあれば、身はこれ手眼なりといふにはあらず。用許多手眼は、 用手用眼の許多なるには、手眼かならず通身是手眼なるなり」とある。  「用手用眼 (手を用い眼を用いること) 」は「全手全眼 (全てが手全てが眼) 」と言うようなことである。 仏々 聻 ニイ(仏そのもの) なり、性々聻なりと言うほどのこ...

仏性とミミズもいずれにも留まらないものである『第十八観音』18-6-3a(正法眼蔵)

  〔『正法眼蔵』原文〕   雲巌道の「某甲祇如是 ボウコウシニョゼ 、師兄作麼生 スヒンソモサン 」は、 道吾のいふ道得八九成の道を道取せしむるがゆゑに、 「祇如是」と道取するなり。 これ不留朕迹 フリュウチンシャク なりといへども、 すなはち臂長衫袖短 ヒチョウサンシュウタン 《臂長くして衫の袖短し》 なり。 わが適来 テキライ の道を道未尽ながらさしおくを、 「某甲祇如是」といふにはあらず。 〔『正法眼蔵』読解ーー 『聞書抄』を手掛かりに 〕  道吾の「八九成に言い得たり」という言葉を 「それがしもこのように解したが、 貴公はどうか」 と雲巖が言ったのは、 道吾に「八九成に言い得たり」と言わせたから、 「それがしもこのように解した」と言ったのである。 〔それがしとは雲巖のことだと解してはいけない。 師兄(貴公)を自己の外のものだと解してはいけない。〕 これは雲巌なのか道吾なのか、いずれにも留まらない( 不留朕迹 )けれども、 別の言い方をすれば、臂は長くて袖は短い、つまり、 ただ一つのものであるがしばらく二つに言われる道理から 、 しばらく雲巌と道吾を呼び出されたのである。 〔 不留朕迹(いずれにも留まらない)は古い言葉であり、 仏性とミミズも 不留朕迹であり、どんな二つの言葉もあてはまるのである。 臂長衫袖短 《臂長くして衫の袖短し》とは、ただ一つのものであるが、 しばらく二つに言われることもある道理を言うのである。 〕 自分の先程からの言葉を十分に言い尽くせないままにしておくことを、 「自分の考えはこのようであるが、 人はどう解しているか」 と言ったのではないのである  仏性とミミズもいずれにも留まらないものである『第十八観音』18-6-3b(聞書抄)                              合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村