『正法眼蔵』原文〕 道吾いはく、「通身是手眼 ツウシンゼシュゲン 」。 いはゆる道は、手眼たがひに手眼として通身なりといふにあらず、 手眼の通身を通身是手眼といふなり。 しかあれば、身 シン はこれ手眼なりといふにはあらず。 用許多手眼は、用手用眼の許多なるには、 手眼かならず通身是手眼なるなり。 「用許多身心作麼 ソモ 」と問取せんには、 「通身是作麼」なる道得もあるべし。 〔『聞書抄』を組込んだ『正法眼蔵』読解〕 道吾は言った、「通身是れ手眼」。 この言葉は、身を置いて、その上に手と眼がびっしり取り付けられている と言うのではない。 ただ手と眼そのものを通身と言い、別の物ではないのである。 〔身を置いて、その上に手と眼が取り付けられていると考えるのは、 凡夫の見方であり、仏法ではない。〕 そうであるから、身は手と眼であると言うのではない。 「用手用眼 (手を用い、眼を用いること) 」は、 「全手全眼 (全てが手、全てが眼) 」と言うようなことである。 〔仏々 聻 ニイ(仏そのもの) なり、性々聻 (性そのもの) なりと言うほどのことである。 通身と言えば、どうしても身を置いて、その上に手と眼を備えていると 解するであろうところを退ける為に、このように繰り返し釈されるのである。〕 手と眼が身心である道理を表わすために、「たくさんの身心を用いて何をする」 と問われたら、「通身是れ何」という言い方もあろう。 ただ手と眼そのものを通身と言う『第十八観音』18-6-3b(聞書抄) 合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村
〔『抄』原文〕 「道吾いはく、通身是手眼。 いはゆる道は、手眼たがひに手眼として 通身なりといふにあらず、手眼の通身を通身是手眼といふなり。」 是は、「身」をば置て、其上に「手眼」のひしと取付たるを云にはあらず。 只「手眼」の当体を「通身」と云なり、別物にあらず。 「身」をば置て、其上に「手眼」の取付たると心得ば、 可同凡見非仏法。 「しかあれば、身はこれ手眼なりといふにはあらず。用許多手眼は、 用手用眼の許多なるには、手眼かならず通身是手眼なるなり。」 「用手用眼」は「全手全眼」と云はむが如し。 仏々 聻なり、性々聻なりと云ひし程の事なり。 「通身」と云へば、いかにも「身」を置て、其うへに「手眼」を具足したるやうに被心得ぬべき所を為謝、如此返々被釈なり。 「用許多身心作麼と問取せんには、通身是作麼なる道得もあるべし。」 是は、所詮「身」に「手眼」の取付たる様に聞ゆ。 又人も如此思つけぬべきを、只「身」と云物はあるまじ。 「手眼」を「通身」と談ずる時に、「手眼」の「通身」なるべし。 然者こゝに「身心」とて別の「身」の被引出むずる心地にてはなし。 「手眼」の「身心」なる理をあらはさむ料に「用許多身心作麼と問取せんには、通身是作麼なる道得もあるべし」とは、相搆「手眼」の外に別に「身」と云事を思付させじとて、如此被釈なり。 只とかく詞は多やうなれども、以「手眼」「身」と談ずるは、 「手眼」外、別身」なき理をいくたびもあらはさむ料なりと可心得。 〔『抄』和訳〕 「道吾いはく、通身是手眼。 いはゆる道は、手眼たがひに手眼として通身なりといふにあらず、手眼の通身を通身是手眼といふなり」とある。 これは、「身」を置いて、その上に「手と眼」がびっしり取り付けられていることを言うのではない。 ただ「手と眼」そのものを「通身」と言い、別の物ではないのである。 「身」を置いて、その上に「手と眼」が取り付けられていると考えるのは、 凡夫の見方と同じであり、仏法ではないのである。 「しかあれば、身はこれ手眼なりといふにはあらず。用許多手眼は、 用手用眼の許多なるには、手眼かならず通身是手眼なるなり」とある。 「用手用眼 (手を用い眼を用いること) 」は「全手全眼 (全てが手全てが眼) 」と言うようなことである。 仏々 聻 ニイ(仏そのもの) なり、性々聻なりと言うほどのこ...