〔『正法眼蔵』原文〕 のちに杭州 コウシュウ 塩官斉安国師 エンカンサイアン コクシ の会にいたりて、 書記に充 ジュウ するに、黄檗 オウバク 師、ときに塩官の首座 シュソ に充す。 ゆゑに黄檗と連単なり。 黄檗、ときに仏殿にいたりて礼仏 ライブツ するに、書記いたりてとふ、 「不著仏求 フヂャクブツグ 、不著法求、不著僧求、長老用礼何為 ヨウライオイ 《仏に著 ツ いて求めず、法に著いて求めず、僧に著いて求めず、長老礼を用いて何 ナニ にかせん》 」。 かくのごとく問著 モンジャク するに、黄檗便掌して、沙弥書記にむかひて道 ドウ す、「不著仏求 フヂャクブツグ 、不著法求、不著僧求。常礼如是事 ジョウライニョゼジ 《仏に著いて求めず、法に著いて求めず、僧に著いて求めず、常に如是の事を礼す》 」。 かくのごとく道 ドウ しをはりて、又掌 ショウ すること一掌す。 書記いはく、「太麁生 タイソセイ なり」。 黄檗いはく、「遮裏是什麽所在 シャリシシモショザイ 、更説什麽麁細 コウセツシモソサイ 《遮裏は是れ什麽 イカ なる所在 トコロ なればか、更に什麽 ナニ の麁細 ソサイ をか説く》 」。 また書記を掌すること一掌す。 書記ちなみに休去 キュウコ す。 武宗 ブソウ ののち、書記つひに還俗 ゲンゾク して即位す。 武宗の廃仏法 ハイブッポウ を廃して、宣宗すなはち仏法を中興す。 宣宗は即位在位のあひだ、つねに坐禅をこのむ。未即位のとき、父王のくにをはなれて、遠地 オンチ の渓澗 ケイカン に遊方 ユホウ せしとき、純一に辨道す。 即位ののち、昼夜に坐禅すといふ。 まことに、父王 フオウ すでに崩御す、兄帝また晏駕 アンガ す、 をひのために打殺 タセツ せらる、あはれむべき窮子 グウジ なるがごとし。 しかあれども、励志レイシうつらず辨道功夫す。 奇代 キタイ の勝躅 ショウチョク なり、天真の行持なるべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕 後に杭州の塩官斉安国師の門下に入って、書記 (記録を司る役僧) に充てられたが、黄檗禅師は、そのとき塩官の首座 (修行僧の第一座) で...
〔『正法眼蔵』原文〕 穆宗は長慶四年晏駕 アンガ あり。 穆宗に三子あり、 一は敬宗 ケイソウ 、二は文宗 ブンソウ 、三は武宗 ブソウ なり。 敬宗父位をつぎて三年に崩ず。 文宗継位 ケイイ するに一年といふに、内臣謀而 ダイシン ボウニ 、これを易 エキ す。 武宗即位するに、宣宗いまだ即位せずして、をひのくににあり。 武宗つねに宣宗をよぶに癡叔 チシュク といふ。 武宗は会昌 カイショウ の天子なり、仏法を廃せし人なり。 武宗あるとき宣宗をめして、昔日 セキジツ ちゝのくらゐにのぼりしことを罰して、一頓打殺 イットンタセツ して、後華園 コウカエン のなかにおきて、不浄 フジョウ を灌 カン するに復生 フクセイ す。 つひに父王の邦 クニ をはなれて、ひそかに香厳 キョウゲン の閑禅師の会 エ に参じて、 剃頭テイヅして沙弥 シャミ となりぬ。 しかあれども、いまだ不具戒 フグカイ なり。 智閑禅師をともとして遊方 ユホウ するに、廬山 ロザン にいたる。 ちなみに智閑みづから瀑布 バクフ を題していはく、 穿崖透石不辞労、 《崖 ガケ を穿 ウガ ち石を透 トオ して労を辞せず、》 遠地方知出処高。 《 遠地 エンチ 方 マサ に知りぬ出処の高きことを。》 この両句をもて、沙弥を釣他 チョウタ して、これいかなる人ぞとみんとするなり。 沙弥これを続していはく、 渓澗豈能留得住、 《渓澗 ケイカン 豈 アニ 能 ヨ く留 トド め得て住 トド めんや、 終帰大海作波濤。 終 ツイ に大海に帰 キ して波濤 ハトウ をなす》 この両句をみて、沙弥はこれつねの人にあらずとしりぬ。 〔『正法眼蔵』私訳〕 穆宗は長慶四年 (824年) に崩御した。 穆宗に三人の子があり、長男は敬宗、次男は文宗、三男は武宗である。 (穆宗は長慶四年晏駕あり。穆宗に三子あり、一は敬宗、二は文宗、三は武宗なり。) 敬宗は父の位を継いで三年で崩じた。文宗がその位を継いでまだ一年というのに、近臣が謀って退位させた。 (敬宗父位をつぎて三年に崩ず。文宗継位するに一年といふに、内臣謀而、これを易す。) 武...