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一日の行持は諸仏の種子であり、諸仏の行持である『正法眼蔵第十六行持』16-1-4a

〔『正法眼蔵』原文〕 しかあればすなはち、一日の行持、 これ諸仏の種子 シュウジ なり、諸仏の行持なり。 この行持に諸仏見成せられ、行持せらるゝを、行持せざるは、 諸仏をいとひ、諸仏を供養せず、行持をいとひ、 諸仏と同生同死せず、同学同参せざるなり。 いまの花開葉落 ケカイ ヨウラク 、これ行持の現成なり。 磨鏡破鏡 マキョウ ハキョウ 、それ行持にあらざるなし。 このゆゑに、行持をさしおかんと擬 ギ するは、行持をのがれんとする邪心をかくさんがために、行持をさしおくも行持なるによりて、行持におもむかんとするは、なほこれ行持をこころざすににたれども、真父の家郷 カキョウ に宝財をなげすてて、さらに他国 跉 跰 レイヘイ の窮子 グウジ となる。 跉 跰のときの風水、たとひ身命 シンミョウ を喪失 ソウシツ せしめず といふとも、真父の宝財なげすつべきにあらず。 真父の法財なほ失誤 シツゴ するなり。 このゆゑに、行持はしばらくも懈惓 ケゲン なき法なり。  〔『正法眼蔵』私訳〕 そうであるから、 一日の行持は諸仏の種子であり、諸仏の行持なのである。 (しかあればすなはち、一日の行持、これ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり。)                       この行持によって諸仏が現成させられ、行持させられるのに、 行持しないのは、諸仏を厭い、諸仏を供養せず、行持を厭い、 諸仏と共に生死せず、諸仏と共に修行しないのである。 (この行持に諸仏見成せられ、行持せらるるを、行持せざるは、諸仏をいとひ、 諸仏を供養せず、行持をいとひ、諸仏と同生同死せず 、 同学同参せざるなり。)                                       今の花が開くのも葉が落ちるのも、行持の現成である。 (いまの花開葉落、これ行持の現成なり。) 鏡を磨くのも鏡が破れるのも、行持でないものはない。 (磨鏡破鏡、それ行持にあらざるなし。)        このために、行持をつとめまいとするのは、行持を逃れようとする邪心を隠すために、行持をつとめないことも一つの行持だと言って、行持に向かおうとするのは、やはりこれは行持を志しているようであるが、真の父である長者 (釈迦牟尼仏) の故郷に財宝を投げ捨てて、さらに他国をあてもなく彷徨 サマヨ い困窮した子となるような...
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一日の行持は諸仏の種子であり、諸仏の行持である『正法眼蔵第十六行持』16-1-4b

  〔『聞書』私訳〕                             /「他国玲跰」とは、つまり、酔っていても衣の裏に宝珠があったように、そのままにしておくことも「行持」と言うのである。「真父の宝財なほ失誤するなり」とは、世間で思うような、失い誤ることではない。 「真父」の珠は、衣の裏に懸かっているのである。 「他国玲跰」の時刻は、三乗 ( 声聞乗、縁覚乗、菩薩乗 ) の教えを学んでいた時間である。             〔『抄』私訳〕 「いまの花開葉落、これ行持の現成なり。磨鏡破鏡 それ行持にあらざるなし」とある。 つまり、「行持」でないものは一つもないところをこのように言うのである。      「このゆゑに、行持をさしおかんと擬するは、行持をのがれんとする邪心をかくさんがために、行持をさしおくも行持なるによりて、行持におもむかんとするは、なほこれ行持をこゝろざすににたれども、真父の家郷に宝財をなげすてゝ、さらに他国玲跰の窮子となる (以下略) 」とある。                                  これは、いかなることも「行持」であるからには、ただ何もせずにじっとしているのも「行持」であるという間違った心を、多くの人が起こすのを、それは邪心であると戒められるのである。何もせずにじっとしているのも「行持」であるという考え (凡夫成仏を唱えた本覚法門の考え) を、しばらく、「なほこれ行持を心ざすににたれども」と言うのである。 「他国玲跰」の時節も、確かに行持の外ではないけれど、この時節は「真父の法財」をまだ得ていないのであり、今の喩えにもっとも相応しいのである。                       合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                     ↓               ↓       にほんブログ村

行持の功徳は、時に顕れず隠れる。そのために見聞覚知しないのである『正法眼蔵第十六行持』16-1-3a

  〔『正法眼蔵』原文〕 その行持の功徳、ときにかくれず。 かるがゆゑに発心修行す。 その功徳、ときにあらはれず、かるがゆゑに見聞覚知せず。 あらはれざれども、かくれずと参学すべし。 隠顕存没 オンケン ゾンモツ に染汚 ゼンナ せられざるがゆゑに。 われを見成する行持、いまの当穏 トウオン に、 これいかなる縁起の諸法ありて行持すると不会 フエ なるは、 行持の会取 エシュ 、さらに新条の特地にあらざるによりてなり。 縁起は行持なり、行持は縁起せざるがゆゑにと、功夫参学を審細にすべし。 かの行持を見成する行持は、すなはちこれわれらがいまの行持なり。 行持のいまは、自己の本有元住 ホンヌ ゲンジュウ にあらず、 行持のいまは、自己に去来出入 コライシュツニュウ するにあらず。 いまといふ道は、行持よりさきにあるにはあらず、 行持現成するをいまといふ。    〔『正法眼蔵』私訳〕 その行持の功徳は、時に隠れず顕れる。 そのために発心し修行 するのである 。 その行持の功徳は、時に顕れず隠れる。 そのために見聞覚知しないのである。 (その行持の功徳、ときにかくれず。かるがゆゑに発心修行す。 その功徳、ときにあらはれず。かるがゆゑに見聞覚知せず。)  行持の功徳は顕れなくても、隠れることはないと参学すべきである。 (あらはれざれども、かくれずと参学すべし。)   行持の功徳は、隠れたり顕れたり在ったりなかったりすることに、 染め汚されないから、我を現成する行持が、あるときは顕れあるときは隠れるときに、これがどのような縁によって行持 するのか分からない のは、行持によって知られるものが、決して新しい特別な境地ではないからである。 (隠顕存没に染汚せられざるがゆゑに、われを見成する行持、いまの当穏に、これいかなる縁起の諸法ありて行持すると不会なるは、行持の会取、さらに新条の特地にあらざるによりてなり。)                          縁によって起こるのは俗情の行持である、諸仏の行持は縁によって起こるのではないからと、努力し参禅学道を詳しく細やかにすべきである。 (縁起は行持なり、行持は縁起せざるがゆゑにと、功夫参学を審細にすべし。)   不染汚 フゼンナ(いかなるものにも染め汚されない) の行持を現成する行持は、 すなわち我々の今の行持で...

行持の功徳は、時に顕れず隠れる。そのために見聞覚知しないのである『正法眼蔵第十六行持』16-1-3b

  〔『聞書』私訳〕 /「発心修行す。 その功徳ときにあらはれず、 かるがゆゑに見聞覺知せず」と言う。 「発心修行」は許して、又「見聞覺知せず」と言う。 「発心」の言葉にも取捨があり、 「見聞」の言葉にも取捨があるというのである 。                     /「いかなる縁起の諸法ありて行持すると不会なるは、行持の会取、さらに新条の特地にあらざるによりてなり」とある。                            この「会」は、「新条」ではないと言う。 古いとか、新しいとかいうのは、吾我 (自分) に対してのことである。  /「縁起は行持なり、行持は縁起せざるがゆゑに」とは、「縁起」と「行持」が親切であるということである。                                   今の「行持」のあり様を、衆生がいて仏道を「行持」するのだとばかり心得るのは審細ではない。衆生は「行持」に「行持」させられると心得るべきである。だから、先師の御言葉に、「この行持の功徳、われを保任し、他を保任す。その宗旨は、わが行持、すなはち十方の匝地漫天、みなその功徳をかうむる。他もしらずわれもしらずといへども、しかあるなり。このゆゑに、諸仏諸祖の行持によりてわれらが行持見成し」とあるのである。        /「縁起」とあれば、縁が起こることによって「行持」するのだと言ってはいけない。「行持」こそが「縁起」である。縁は照であり、縁に対せずして照らすの照と心得るべきである。 〔『抄』私訳〕 「その行持の功徳ときにかくれず、かるがゆゑに発心修行す。その功徳ときにあらはれず、 かるがゆくに見聞覚知せず。あらはれざれども、かくれずと参学すべし。隠顕存没に染汚せられざるがゆくに。われを見成する行時、いまの当隠に、これいかなる縁起の諸法ありて行持すると不会なるは、行持の会取、さらに新条の特地にあらざるによりてなり」とある。 この「発心修行」も、「菩提涅槃」を結果に置いて言う「発心修行」ではないから、 「隠顕存没」にも関係なく、「見聞覺知」する人もいないのである。                                                             「縁起は行持なり、行持は縁起せざるがゆゑにと、 功夫参学を審細にすべし」とある。...