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雲巌:遍身是れ手眼 『第十八観音』18-5-4a(正法眼蔵)

  〔『正法眼蔵』原文〕   雲巌道の「遍身是手眼」の出現せるは、「夜間背手摸枕子」を講誦 コウジュ するに、「遍身これ手眼なり」と道取せると参学する観音のみおほし。 この観音たとひ観音なりとも、未道得なる観音なり。 雲巌の「遍身是手眼」といふは、「手眼是身遍」といふにあらず。 遍はたとひ遍界なりとも、身手眼の正当恁麼は、遍の所遍なるべからず。 身手眼にたとひ遍の功徳ありとも、攙奪行市 サンダツギョウシ の手眼にあらざるべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕  雲巌が言う「遍身是れ手眼」が出現したのは、「夜間に手を後ろにして枕を探り求める」の言葉を読み唱えながら、「全身が手眼である」と言っていると考える観音 (仏道修行者) ばかり多くいる。 この観音はたとえ観音であっても、未だ仏法の道理を説き得ていない観音である。雲巌が「遍身是れ手眼」と言うのは、「手眼是れ身遍 (手眼が身に遍満している) 」という意味ではない。 遍はたとえ世界全体に遍満することであるとしても、身と手と眼と、 そのままである時は、遍によって遍満されるものではないのである。 身と手と眼にたとえ遍満する功徳があるとしても、市場を支配し意のままに動かすように無理に全体の真実を手だ眼だというのではないのである (遍身是手眼とは、遍満する手眼と遍満される法界があって、その法界を無理やり奪ってきて、手眼世界にしたのではないのである) 。 雲巌:遍身是れ手眼 『第十八観音』18-5-4b(聞書抄)                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  
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雲巌:遍身是れ手眼 『第十八観音』18-5-4b(聞書抄)

  〔『抄』原文〕 「雲巌道の遍身是手眼の出現せるは、夜間背手摸枕子を講誦するに、遍身これ手眼なりと道取せると参学する観音のみおほし。この観音たとひ観音なりとも、未道得なる観音なり。」   是は、「遍身是手眼の出現せる」と云へば、「観音」の御身は一体にて、 「千の手」「千の眼」がひしと遍満して御身に取付たるやうに心得なり。 「雲巖道」の「観音」爾にはあらざるなり。 この「雲巌道の遍身是手眼」又「夜間背手摸枕子」の詞を、世人「講誦」しながら、「遍身これ手眼なり」と尋常に人の思たるように「道取せると参学する観音のみおほし」と被嫌。 ゆへに「未道得なる観音なり」とはさけらるゝなり。 「雲巌道の遍身是手眼といふは、手眼是身遍といふにあらず。遍はたとひ遍界なりとも、身手眼の正当恁麼は、遍の所遍なるべからず。身手眼にたとひ遍の功徳ありとも、攙奪 サンダツ《おしかいなり》 行市 《イチノ》アンシ の手眼にあらざるべし。」   是は、「雲巌」の「遍身是手眼」の「遍はたとひ遍界なりとも、身手眼の正当恁麼は、遍の所遍なるべからず」。 所詮、以「手眼」「遍」とつかふべし。 雲霧の空に「遍」したるやうに不可心得。 「手眼」の上に「遍」と云詞を暫おくべきなり。 「攙奪行市の手眼にあら」ずとは、今打任て人の心得たる「遍」ぞ「攙奪行市の手眼」とは云はるべき。 所詮、「雲巌」道の「遍身是手眼」の如く可心得なり。 〔『抄』私訳〕 「雲巌道の「遍身是手眼」の出現せるは、「夜間背手摸枕子」を講誦 コウショウ するに、「遍身これ手眼なり」と道取せると参学する観音のみおほし。この観音たとひ観音なりとも、未道得なる観音なり」とある。   これは、「遍身是手眼の出現せる (全身が千手千眼である観音が出現した) 」と言えば、「観音」 の身は一つで、「千の手」「千の眼」がびっしりと遍満して身に取りついているように心得るが、「雲巖道」の「観音」はそうではないのである。 この「雲巌道の (雲巖が言う) 遍身是手眼」や「夜間背手摸枕子」の言葉を、世間の人が読み唱えながら、「遍身これ手眼なり」と普通に人が思っているように「道取せると参学する観音のみおほし」と嫌われるのである。 だから「未道得なる (まだ言い得ていない) 観音なり」といって避けられるのである。 「雲巌道の遍身是手」といふは、手眼是身遍といふにあらず...

眼も理解した、手も理解したということもあろう 『第十八観音』18-5-3a(正法眼蔵)

〔『正法眼蔵』原文〕   道吾道の「 你 作麼生会 ニソモサンエ 」は、いはゆる「我会也」 たとひ我会也なるを罣礙するにあらざれども、 道吾に「 你 作麼生会」の道取あり。 すでにこれ我会 ガエ 你 会 ニエ なり、眼会手会 ゲンエシュエ なからんや。 現成の会なるか、未現成の会なるか。 「我会也」の会を我 ガ なりとすとも、 「 你 作麼生会」に「 你」 あることを功夫ならしむべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕  道吾が言う「 你 作麼生会 (汝はどう理解したか) 」は、 いわゆる「我会也 (我れは理解した) 」はたとえ「我会也」を妨げないとしても、 道吾に「 你 作麼生会」という言葉があるのである。 すでにこれは、「我会 你 会 (我れも理解した、汝も理 解した ) 」ということであり、 「眼会 手 会 (眼も理解した、手も理解した) 」ということもあろう。 また「現成」の理解であるのか、「未現成」の理解であるのか。 〔といっても、現れているか現れていないかということではなく、 「手眼」の上でしばらく「現成」「未現成」の言葉を仮に作ったのであり、 ただこれも共に「手眼」なのである。〕 「我会也」の会を我であるとしても、 「 你 作麼生会」の会が「 汝 」であることを、 工夫参究しなければならない。 眼も理解した、手も理解したということもあろう 『第十八観音』18-5-3b(聞書抄)                     合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  

眼も理解した、手も理解したということもあろう 『第十八観音』18-5-3b(聞書抄)

  〔『抄』原文〕 「道吾道の 你 作麼生会は、いはゆる我会也、たとひ我会也なるを罣礙するにあらざれども、道吾に 你 作麼生会の道取あり。」   是は、「我会也」は「我会也」にて、「我会也」の道理の外にあらざれども、又しばらく「道吾に 你 作麼生会の道取」などかなからむと云心なり。仏性と云ふ道理許にて、蚯蚓と云「道取」などかなからむ云はむ程の心なるべし。 「すでにこれ我会 ガエ 你 会 ニエ なり、眼会手会 ゲンエシュエ なからんや。現成の会なるか、未現成の会なるか。」   是は、「雲巖」の「我会也」と「道吾」の「 你 作麼生会」との二を取合て、「我会 你 会」とは云なり。此道理なるべくば、「我」も「手眼」、「 你 」も「手眼」、「会」も「手眼」ならば、「眼会 手 会」と云詞もありぬべしと被釈なり。 又「現成」「未現成」とて現不現にはあらず、「手眼」の上に「現前」「未現前」の詞をしばらくつくるなり。 只是も共に「手眼」なるべし。 「我会也の会を我 ガ なりとすとも、 你 作麼生会に 你 あることを功夫ならしむべし。」   「我」を置て物を「会す」と云へば、猶能所各別あるやうに聞ゆ。「会」を「我」なりと云へば、能所ははなるゝなり。 「 你 作麼生会」も如前「会」を「我」と云つるが如く「会」を「 你 」と云事を「功夫」すべしと云なり。 〔『抄』訳文〕 「道吾道の 你 作麼生会は、いはゆる我会也、たとひ我会也なるを罣礙するにあらざれども、道吾に 你 作麼生会の道取あり」とある。   これは、「我れ会せり (我れは理解した) 」は「我れ会せり」であり、 「我れ会せり」の道理の外にはないのであるが、またしばらく「道吾に 你 作麼生会 (汝はどう理解したか) の道取」がどうしてないことがあろうかという意である。 仏性という道理ばかりで、蚯蚓 (みみず) という言葉がどうしてないことがあろうかというほどの意である。 「すでにこれ我会 ガエ 你 会 ニエ なり、眼会手会 ゲンエシュエ なからんや。現成の会なるか、 未現成の会なるか」とある。   これは、「雲巖」の「我れ会せり」と「道吾」の「 你 作麼生会」の二つを合わせて、「我会 你 会 (我れも理解した、汝も理 解した ) 」と言うのである。 この道理であれば、「我」も「手眼」、「 你 」も「手眼」、「会」も「...