〔『抄』原文〕 「許多手眼は、あきらかに雲巌・道吾同参なり。いまは用作麼を道吾に問取するなり。」 「許多手眼」の道は、「雲巌・道吾同参なり」とは、共に此詞をば「雲巌道取し、道吾証明す」とて許 ユルス v 之。今は「用作麼」の詞を「雲巌」の「道吾に問取する」事を云なり。 最初に「雲巌」の「大悲菩薩、用許多手眼作麼」と云し詞の「作麼」を云なり。 「この問取を、経師論師ならびに十聖三賢等の問取にひとしめざるべし。」 此詞は、只打任て思付たるやうに「大悲菩薩」の「許多の手眼」を用ては何料 レウ ぞと問た らむには、「経師論師ならびに十聖三賢等の問取にひとしめざるべし」とは、争云べき。 いかなる我等も問取しつべき問取なり。この詞にて先やうあるらむとは心得ぬべし、普通 の問取とは不可心得。 「この問取は、道取を挙来せり、手眼を挙来せり。いま用許多手眼作麼と道取するに、この功業 クゴウ をちからとして成仏する古仏新仏あるべし。」 是は「用作麼」の詞を如先云問取と不可心得。「作麼」の詞一切に可渡、「作麼」の詞がやがて「道取」を「挙来」し「手眼を挙来」するなり。 此「用許多手眼作麼と道取するに、この功業をちからとして成仏」し「古仏新仏」となる云なり。 「作麼」の詞、法性に も仏性にも三昧だらににも、諸法にもあたるべし。即不中道理なり。 「使許 シコ 多手眼作麼とも道取しつべし、作什麼 ソシモ とも道取し、動什麼とも道取し、道什麼とも道取ありぬべし。」 是は、「用作麼」と云つる用の詞を取替て、必用の詞ならずとも、「使許多手眼作麼」とも「作什麼」とも「動什麼」とも「道什麼」とも云べしとなり。此義可渡万事なり。 〔『抄』私訳〕 〕 「許多手眼は、あきらかに雲巌・道吾同参なり。いまは用作麼を道吾に問取するなり」とある。 「許多手眼」の言葉は、「雲巌・道吾同参なり」とは、共にこの言葉を「雲巌が言い、道吾が証明する」といって、これを認めるのである。 今は「用作麼」の言葉を「雲巌」が「道吾に問取する」ことを言うのである。 最初に「雲巌」が「大悲菩薩、用許多手眼作麼」と言った言葉の「作麼」を言うのである。 「この問取を、経師論師ならびに十聖三賢等の問取にひとしめざるべし」とある。 この言葉は、ただ一般に理解するように「大悲菩薩」が「許多の手眼」を用いるのは何のため...
〔『正法眼蔵』原文〕 いはゆる雲巌道の「大悲菩薩用許手多眼」は、 許多 アマタ の道、たゞ八万四千手眼のみにあらず、 いはんや十二および三十二三の数般 スハン のみならんや。 許多はいくそばくといふなり。 如許多の道なり、種般かぎらず。 種般すでにかぎらずは、無辺際量にもかぎるべからざるなり。 用許多のかず、その宗旨かくのごとく参学すべし。 すでに無量無辺の辺量を超越せるなり。 いま雲巌道の許多手眼の道を拈来するに、 道吾さらに道不著といはず、宗旨あるべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕 雲巌が言う「大悲菩薩用許多手眼」 (大悲菩薩は無量の手眼を用いる) の許多の言葉は、 単に八万四千の手や眼だけではない、まして十二面や三十二相 (仏が具えている32種類の身体的特徴) 、三十三身 ( 相手に応じて変身する33種類の姿 ) の数だけではない。 「許多」とは数多くという意味である。数が多く種類を限らないのである。 種類を限らないから、無限という量にも限らないのである。 「用許多手眼」の数のそのおおもとの意味をこのように参学すべきである。 すでに無量無辺の領域を超越しているのである。 今雲巌が言う「用許多手眼作麼」の言葉を取り上げて、 道吾が決して「道 イ い足りない」と言わないのには、深い意味があるのである。 大悲菩薩は無量の手や眼を用いる『第十八観音』18-2-2b(聞書抄) 合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村