〔抄原文〕 「恁麼人なるがゆゑに、六祖も発明せり。つひにすなはち黄梅山に参じて 《傍注:六祖は十一歳にて》 大満禅師を拝するに、行堂に投下 トウカ せしむ。 《傍注:父におくる六祖の父は流人なりけり》 昼夜に米を碓 ツク こと、わづかに八箇月をふるほどに、あるとき夜ふかく更たけて、大満みづからひそかに碓房 タイボウ にいりて六祖にとふ、「米白也未 ベイハクヤミ 」と。六祖いはく、「白也未有篩在 ハクヤミウシザイ 」と。大満つゑして臼をうつこと三下するに、六祖箕 ミ にいれる米をみたび簸 ヒ る。このときを師資の道 ドウ あひかなふといふ。みづからもしらず、他も不会なりといへども、伝法伝衣 、 まさしく恁麼の正当時節なり。」 是は、五祖与六祖問答を被明なり。 法性ぞ、真如ぞなむと云へば、仏法と覚ゆ、今問答なむとは無風情、世間・世情の無何そゞろ事を口に任て云たる様に聞ゆ。 されば、祖師の仏法は、無何いたづら事、児がワウ、めのとがワウ、雀のシウシウ、カラスのカウカウなむと云程の事ぞなむと究竟、長老共云とかや。 此説ぞ、堅固の徒事なる。 おのれが理にくらからむからに、仏法をやぶるべきにあらず。 罪業の至り可恐々々。 此問答能々可了見事なり。 抑祖師の仏法にいたづらなる詞、又無何そゞろ事相交なむや。 先此一事を能々心得居事なり。 仏祖のもちいる米白也未の詞、いかにと可心得ぞ。 定子細あるらむと心を付て可参学なり。 法性、真如、三昧、陀羅尼と云はむに聊も不可有勝劣。 法性の草子にも著衣、喫飯、言談祇対、六根運用、尽是法性とありき。 今の米白也未の米も真如・仏性をさしてや被仰つらむおぼつかなし。 六祖の白也未有篩在の詞も、会仏法の上に不会仏法の理あり、 即心是仏の道理が非心非仏と云はるゝ理をもや具足すらむ。 いかさまにも、祖師の仏法を無何詞ぞとていたづらに閣 サシオク 事、 返々倉卒の至 イタリ なり。 不見正師之所致なり。可恥々々、可恐々々。 三たびひる姿、諸法をあらわす義にてもやあるらむ。 五祖与六祖あはひ凡慮難測事なり。 実此義、自も不知、他も不会なれども、伝法伝衣の時節すでにこゝにきわまりぬ。可貴々々。 〔抄私訳〕 「恁麼人なるがゆゑに、六祖も発明せり。 つひにすなはち黄梅山に参じて 《傍注:六祖は十一歳にて》 大満禅師を拝するに、 行堂に投下 トウカ せしむ...
恁麼⑥ 〔『正法眼蔵』原文〕 われにあらず、遍界かくるゝところなし。 たれにあらず、万里 バンリ 一条鉄なり。 たとひ恁麼して抽枝 チュウシ なりとも、 「十方仏土中、唯有一乗法」なり。 たとひ恁麼して葉落すとも、 「是法住法位 ゼホウジュウホウイ 、世間相常住 セケンソウジョウジュウ 」なり。 「既是恁麼事 キゼインモジ 」なるによりて、 有智と無智と、日面 ニチメン と月面 ガチメン となり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 自分以外の誰でもないからこそ、 万里の彼方まで一本の鉄のように真理は貫かれているのである。 たとえこのように真理が新しい枝を出すとしても、 それは「十方の仏の国土の中には、ただ一つの真実の教えしかない」ということである。 たとえこのように真理が葉を落とすとしても、 それは「この法は法位に住し、世間の相常住なり (この仏の教えは、真如という普遍不変の法の位に安住しており、一見無常に見えるこの世の現象も、実はそのままの姿で真理に照らされており、永遠である) 」ということである。 既にかくの如きありようであるから、 「有智」と「無智」は、日面の仏と月面の仏のように、 ただ同じ真理の異なる面として現れるのである。 合掌 有智と無智は同じ真実の異なる面として現れるのである『第十七恁麼』17-4-6b(聞書抄) ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村