〔『正法眼蔵』原文〕 たとへば、尽十方界を百千万力 リキ に拈来するあらんも、 拈来せざるにはすぐるべし。 しかあるを、一力に拈来せんは、よのつねの力量なるべからず。 いま八九成のこころ、かくのごとし。 しかあるを、仏祖の「祇道得八九成」の道 ドウ をきゝては、 道得十成なるべきに、道得いたらずして八九成といふと会取 エシュ す。 仏法もしかくのごとくならば、今日にいたるべからず。 いはゆるの八九成は、百千といはんがごとし、 許多といはんがごとく参学すべきなり。 すでに八九と道取す、はかりしりぬ、 八九にかぎるべからずといふなり。 仏祖の道話、かくのごとく参学するなり。 〔『正法眼蔵』読解ー『聞書抄』を手掛りに〕 たとえば、十方世界全てを百人や千人や万人の力で ようやく持ち上げることができたとしても、持ち上げないよりは優れている。 そうであるが、 百人や千人あるいは十人や二十人でようやく持ち上げられるようなものを、 一人の力で持ち上げるのは、 まさに尋常の力量を超えている。 今の八九成の意味もこれと同じである。 ところが、仏祖〔道吾〕の「ただ八九成を言い得た」という言葉を聞いて、 十分に言い得るべきなのに、言葉が至らなくて八九成と言っていると解してしまう。 〔これは八九成を不足だとする偏った見方である。〕 仏法がもしそのようなものであるなら、 今日まで至ることはなかったであろう。 ここで言う八九成は、百や千と言うようなことであり、 たくさんというようなことであると学ばなければならない。 すでに八九成と言ったのであるから、知るがよい、 八や九の数に限られるものではないと言うのである。 仏祖が示す言葉は、このように参学するのである。 一人の力で持ち上げるのは、尋常の力量を超えている『第十八観音』18-6-2b(聞書抄) 合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村
〔『抄』原文〕 「たとへば、尽十方界を百千万力に拈来するあらんも、拈来せざるにはすぐるべし。しかあるを、一力に拈来せんは、よのつねの力量なるべからず。いま八九成のこころ、かくのごとし。 「百千」人乃至十二十人して持べからむ物を、一人してもちあげむ「力量」、実尋常の「力量」に超過すべし。 「八九成」の道も是程の事なりと云なり。 「しかあるを、仏祖の祇道得 シドウトク 八九成の道をききては、道得十成なるべきに、道得いたらずして八九成といふと会取す。仏法もしかくのごとくならば、今日にいたるべからず。」 如文。「八九成」の詞を不足なりと打任て心得たる僻見を被嫌なり。 「いはゆるの八九成は、百千といはんがごとし、許多といはんがごとく参学すべきなり。」 是又如文。此「八九成は百千と云はむが如し、許多といはんがごとし」とあり、始には数量にかゝはるべからずとあり、ここには「百千」乃至「許多」と云はむが如く可参学なりと云へば、参差したるやうに聞ゆ。 但始の心地は、「百千万」は多く「八九成」のすくなき心地を謝せむとて、「不可拘数量」とは云なり。 今は「許多」の道理の上は、「百千万」とも「許多」とも云はむ、さらに又其失あるべからざるなり。 「すでに八九成と道取す、はかりしりぬ、八九にかぎるべからずといふなり。」 是は、「八」とも「九」とも云はゞ、 一に治定 ヂャウ しぬる心地もありぬべし。 「八九」とうけぬる上は、先数量にとゞまらざる詞とはしりぬべし。 常の詞にも、明日、明後日なむと云ふは、 一定其日と定めたる詞にはあらず。 所詮、ひしと定まりたる心地にはあらざるなり。 〔『抄』訳文〕 「たとへば、尽十方界を百千万力に拈来するあらんも、拈来せざるにはすぐるべし。しかあるを、一力に拈来せんは、よのつねの力量なるべからず。いま八九成のこころ、かくのごとし」とある。 「百人千人」あるいは十人や二十人でようやく持ちあげられるようなものを、たった一人で持ち上げる「力量」は、 まさに尋常の「力量」を超えている。 「八九成 (八九割の出来) 」の言葉もこれほどのことであると言うのである。 「しかあるを、仏祖の祇道得 シドウトク 八九成の道をききては、道得十成なるべきに、道得いたらずして八九成といふと会取す。仏法もしかくのごとくならば、今日にいたるべからず」とある。 ...