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「無限の手や眼」と雲巌が言い、道吾が証明した 『第十八観音』18-3b(聞書抄)

  〔『抄』原文〕 「許多手眼は、あきらかに雲巌・道吾同参なり。いまは用作麼を道吾に問取するなり。」   「許多手眼」の道は、「雲巌・道吾同参なり」とは、共に此詞をば「雲巌道取し、道吾証明す」とて許 ユルス v 之。今は「用作麼」の詞を「雲巌」の「道吾に問取する」事を云なり。 最初に「雲巌」の「大悲菩薩、用許多手眼作麼」と云し詞の「作麼」を云なり。 「この問取を、経師論師ならびに十聖三賢等の問取にひとしめざるべし。」  此詞は、只打任て思付たるやうに「大悲菩薩」の「許多の手眼」を用ては何料 レウ ぞと問た らむには、「経師論師ならびに十聖三賢等の問取にひとしめざるべし」とは、争云べき。 いかなる我等も問取しつべき問取なり。この詞にて先やうあるらむとは心得ぬべし、普通 の問取とは不可心得。 「この問取は、道取を挙来せり、手眼を挙来せり。いま用許多手眼作麼と道取するに、この功業 クゴウ をちからとして成仏する古仏新仏あるべし。」   是は「用作麼」の詞を如先云問取と不可心得。「作麼」の詞一切に可渡、「作麼」の詞がやがて「道取」を「挙来」し「手眼を挙来」するなり。 此「用許多手眼作麼と道取するに、この功業をちからとして成仏」し「古仏新仏」となる云なり。 「作麼」の詞、法性に も仏性にも三昧だらににも、諸法にもあたるべし。即不中道理なり。 「使許 シコ 多手眼作麼とも道取しつべし、作什麼 ソシモ とも道取し、動什麼とも道取し、道什麼とも道取ありぬべし。」   是は、「用作麼」と云つる用の詞を取替て、必用の詞ならずとも、「使許多手眼作麼」とも「作什麼」とも「動什麼」とも「道什麼」とも云べしとなり。此義可渡万事なり。 〔『抄』私訳〕 〕 「許多手眼は、あきらかに雲巌・道吾同参なり。いまは用作麼を道吾に問取するなり」とある。   「許多手眼」の言葉は、「雲巌・道吾同参なり」とは、共にこの言葉を「雲巌が言い、道吾が証明する」といって、これを認めるのである。 今は「用作麼」の言葉を「雲巌」が「道吾に問取する」ことを言うのである。 最初に「雲巌」が「大悲菩薩、用許多手眼作麼」と言った言葉の「作麼」を言うのである。 「この問取を、経師論師ならびに十聖三賢等の問取にひとしめざるべし」とある。   この言葉は、ただ一般に理解するように「大悲菩薩」が「許多の手眼」を用いるのは何のため...
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大悲菩薩は無量の手や眼を用いる『第十八観音』18-2-2a(正法眼蔵)

〔『正法眼蔵』原文〕   いはゆる雲巌道の「大悲菩薩用許手多眼」は、 許多 アマタ の道、たゞ八万四千手眼のみにあらず、 いはんや十二および三十二三の数般 スハン のみならんや。 許多はいくそばくといふなり。 如許多の道なり、種般かぎらず。 種般すでにかぎらずは、無辺際量にもかぎるべからざるなり。 用許多のかず、その宗旨かくのごとく参学すべし。 すでに無量無辺の辺量を超越せるなり。 いま雲巌道の許多手眼の道を拈来するに、 道吾さらに道不著といはず、宗旨あるべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕 雲巌が言う「大悲菩薩用許多手眼」 (大悲菩薩は無量の手眼を用いる) の許多の言葉は、 単に八万四千の手や眼だけではない、まして十二面や三十二相 (仏が具えている32種類の身体的特徴) 、三十三身 ( 相手に応じて変身する33種類の姿 ) の数だけではない。 「許多」とは数多くという意味である。数が多く種類を限らないのである。 種類を限らないから、無限という量にも限らないのである。 「用許多手眼」の数のそのおおもとの意味をこのように参学すべきである。 すでに無量無辺の領域を超越しているのである。 今雲巌が言う「用許多手眼作麼」の言葉を取り上げて、 道吾が決して「道 イ い足りない」と言わないのには、深い意味があるのである。 大悲菩薩は無量の手や眼を用いる『第十八観音』18-2-2b(聞書抄)                             合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  

大悲菩薩は無量の手や眼を用いる『第十八観音』18-2-2b(聞書抄)

〔『抄』原文〕 「 いはゆる雲巌道の大悲菩薩用許多手眼は、許多の道、ただ八万四千手眼のみにあらず、いはんや十二および三十二三の数般のみならんや。許多は、いくそばくといふなり。如許多の道なり、種般かぎらず。種般すでにかぎらずは、無辺際量にもかぎるべからざるなり。用許多のかず、その宗旨かくのごとく参学すべし。」 此「用許多手眼」の「数般」いくらと限べき際なき所 を、 「用許多手眼」とはあけらるゝなり。能々可心得事なり。 「雲巌道の許多手眼の道を拈来するに、道吾さらに道不著といはず、宗旨あるべし。」  是は、「雲巌」の「許多手眼」の詞、「道吾」さらにきらはずと云心なり。 「薬山」下にて「雲巌」「道吾」四十年之間同法とは云ながら 、相互無隔心法を談ぜし人なり。 共に 「雲巌」の「用許多手眼」の詞をば、「道吾」「 道不著といはず 」、「道吾」証明すと云なり。 〔『抄』私訳〕 「 いはゆる雲巌道の大悲菩薩用許多手眼は、許多の道、ただ八万四千手眼のみにあらず、いはんや十二および三十二三の数般のみならんや。許多は、いくそばくといふなり。如許多の道なり、種般かぎらず。種般すでにかぎらずは、無辺際量にもかぎるべからざるなり。用許多のかず、その宗旨かくのごとく参学すべし」とある。  この「 用許多手眼 」の「 種般 」がいくらと限るべき際がないところを、「 用許多手眼 」と挙げられるのである。よくよく心得るべきことである。 「雲巌道の許多手眼の道を拈来するに、道吾さらに道不著といはず、 宗旨あるべし」とある。  これは「雲巌」の「許多手眼」の言葉を、「道吾」は決して斥けないという意味である。 「薬山」のもとで「雲巌」と「道吾」は四十年間同じ法を修行してきた とはいえ、互いに心に隔てなく仏法を談じ合ってきた人である。 ともに雲巌の「許多手眼」の言葉を、「道吾」は「 道 イ い足りない」 と言わないで、「道吾」はそれを証明したと言うのである。 〔『聞書』原文〕 /十一面観音常儀なり。十二面観音本「観音」の一面を具足して「十二面」なり。「三十二三」身あり、子細如面。 面ぞ身ぞにつきては、「数般 スハン 」と云詞あり。是は別義なし、「数」をあげらるゝなり。又「種般」と云詞あり、是は「数」をあげずしなじなありとなり。 /「遍身」と云は、此遍も能遍所遍を作らば、有際限。 我が不覚不知ればとて、遍を世...

観音を自己のものとする家門がある『第十八観音』18-2a(正法眼蔵)

第二段 〔『正法眼蔵』原文〕   しかあるに、雲巌道の大悲菩薩、 用許多手眼作麼の道を挙拈して、 参究すべきなり。 観音を保任せしむる家門あり、観音を未夢見なる家門あり。 雲巌に観音あり、道吾と同参せり。 たゞ一両の観音のみにあらず、百千の観音、おなじく雲巌に同参す。 観音を真箇に観音ならしむるは、ただ雲巌会のみなり。 所以はいかん。 雲巌道の観音と、余仏道の観音と、道得道不得なり。 余仏道の観音はただ十二面なり、雲巌しかあらず。 余仏道の観音はわづかに千手眼なり、雲巌しかあらず。 余仏道の観音はしばらく八万四千手眼なり、雲巌しかあらず。 なにをもつてかしかありとしる。 〔『正法眼蔵』私訳〕  そうであるから、雲巌が道 イ う「大悲菩薩は、たくさんの手眼を用いて何をするのか」という言葉を取り上げて、参究しなければならない。 観音を自己のものとする家門があり、 観音をいまだ夢にすら見たことのない家門がある。 雲巌に観音があり、道吾と共に修行する。 ただ一人二人の観音だけではなく、百千 (無量) の観音が、 同じく雲巌と共に修行する。 観音を真に観音ならしめるのは、ただ雲巌の門下だけである。 それはどういうわけか。 雲巌は観音を言い得ており、他の僧は観音を言い得ていないからである。 他の僧が言う観音は十二面だけであるが、雲巌はそうではない。 他の僧が言う観音はわずかに千の手と眼であるが、雲巌はそうではない。 他の僧が言う観音はしばらく八万四千の手と眼であるが、雲巌はそうではない。 どういうわけでそうだと分かるのか。 観音を自己のものとする家門がある『第十八観音』18-2b(聞書抄)                           合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  

観音を自己のものとする家門がある『第十八観音』18-2b(聞書抄)

  〔『抄』原文〕 「観音を保任せしむる家門あり、観音を未夢見なる家門あり。雲巌に観音あり、道吾と同参せり。たゞ一両の観音〔のみにあらず、百千の観音、おなじく雲巌に同参す。観音〕を真箇に観音ならしむるは、ただ雲巌会のみなり。」                                  是は「観音を保任せしむる家門あり」とは、今の「雲巖」「道吾」の事なり。「観音未夢見なる家門有」とは、祖門に所談にあらざる所をさすなり。 「雲巌に観音あり」とは、今の「用許多手眼作麼」の詞歟。 此「雲巖」「道吾」の「一両の観音のみにあらず」、此 「雲巖」「道吾」の「観音」には、「百千の観音」皆「同参する」なりと云なり。「雲巌 会のみなり」とは讃嘆詞歟。 「所以はいかん。雲巌道の観音と、余仏道の観音と、道得道不得なり。余仏道の観音はただ十二面なり、雲巌しかあらず。余仏道の観音はわづかに千手眼なり、雲巌しかあらず。余仏道の観音はしばらく八万四千手眼なり、雲巌しかあらず。なにをもつてかしかありとしる。」   是は、「雲巌道の観音」は「道得」と云ひ、「余仏道」は「道不得」とあり、勝劣があるように聞こえる。 其故は、「雲巌道の観音」は「用許多手眼」とあり、「余仏道の観音」は、 或「十二面」「千手眼」「八万四千手眼」なむとある所を、しばらく如此被挙なり。  さればとて、釈尊所説の「観音」を劣なりと云べきにあらず。 仏言何違此道理 。 更今人の思習はしたる所を、暫如此云なり。 〔『抄』私訳〕 〕 「観音を保任せしむる家門あり、観音を未夢見なる家門あり。雲巌に観音あり、道吾と同参せり。たゞ一両の観音のみにあらず、百千の観音、おなじく雲巌に同参す。観音を真箇に観音ならしむるは、ただ雲巌会のみなり」とある。                                  これは「観音を保任せしむる家門あり」とは、今の「雲巖」「道吾」のことである。「観音未夢見なる家門あり」とは、祖師の教えで談ずるところでない所を指すのである。 「雲巌に観音あり」とは、今の「用許多手眼作麼」の言葉である。 この「雲巖」と「道吾」の「一両の観音のみにあらず」、この「雲巖」と「道吾」の「観音」には、「百千の観音」がみな「同参する」というのである。 「雲巌会のみなり」とは、讃嘆の言葉である。 「所以はいかん。雲巌道...