スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

ただ手と眼そのものを通身と言う『第十八観音』18-6-3a(正法眼蔵)

  『正法眼蔵』原文〕   道吾いはく、「通身是手眼 ツウシンゼシュゲン 」。   いはゆる道は、手眼たがひに手眼として通身なりといふにあらず、 手眼の通身を通身是手眼といふなり。   しかあれば、身 シン はこれ手眼なりといふにはあらず。 用許多手眼は、用手用眼の許多なるには、 手眼かならず通身是手眼なるなり。 「用許多身心作麼 ソモ 」と問取せんには、 「通身是作麼」なる道得もあるべし。 〔『聞書抄』を組込んだ『正法眼蔵』読解〕  道吾は言った、「通身是れ手眼」。  この言葉は、身を置いて、その上に手と眼がびっしり取り付けられている と言うのではない。 ただ手と眼そのものを通身と言い、別の物ではないのである。 〔身を置いて、その上に手と眼が取り付けられていると考えるのは、 凡夫の見方であり、仏法ではない。〕  そうであるから、身は手と眼であると言うのではない。 「用手用眼 (手を用い、眼を用いること) 」は、 「全手全眼 (全てが手、全てが眼) 」と言うようなことである。 〔仏々 聻 ニイ(仏そのもの) なり、性々聻 (性そのもの) なりと言うほどのことである。 通身と言えば、どうしても身を置いて、その上に手と眼を備えていると 解するであろうところを退ける為に、このように繰り返し釈されるのである。〕 手と眼が身心である道理を表わすために、「たくさんの身心を用いて何をする」 と問われたら、「通身是れ何」という言い方もあろう。 ただ手と眼そのものを通身と言う『第十八観音』18-6-3b(聞書抄)                             合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  
最近の投稿

ただ手と眼そのものを通身と言う『第十八観音』18-6-3b(聞書抄)

〔『抄』原文〕  「道吾いはく、通身是手眼。 いはゆる道は、手眼たがひに手眼として 通身なりといふにあらず、手眼の通身を通身是手眼といふなり。」   是は、「身」をば置て、其上に「手眼」のひしと取付たるを云にはあらず。 只「手眼」の当体を「通身」と云なり、別物にあらず。 「身」をば置て、其上に「手眼」の取付たると心得ば、 可同凡見非仏法。 「しかあれば、身はこれ手眼なりといふにはあらず。用許多手眼は、 用手用眼の許多なるには、手眼かならず通身是手眼なるなり。」  「用手用眼」は「全手全眼」と云はむが如し。 仏々 聻なり、性々聻なりと云ひし程の事なり。 「通身」と云へば、いかにも「身」を置て、其うへに「手眼」を具足したるやうに被心得ぬべき所を為謝、如此返々被釈なり。 「用許多身心作麼と問取せんには、通身是作麼なる道得もあるべし。」   是は、所詮「身」に「手眼」の取付たる様に聞ゆ。 又人も如此思つけぬべきを、只「身」と云物はあるまじ。 「手眼」を「通身」と談ずる時に、「手眼」の「通身」なるべし。 然者こゝに「身心」とて別の「身」の被引出むずる心地にてはなし。 「手眼」の「身心」なる理をあらはさむ料に「用許多身心作麼と問取せんには、通身是作麼なる道得もあるべし」とは、相搆「手眼」の外に別に「身」と云事を思付させじとて、如此被釈なり。 只とかく詞は多やうなれども、以「手眼」「身」と談ずるは、 「手眼」外、別身」なき理をいくたびもあらはさむ料なりと可心得。 〔『抄』和訳〕  「道吾いはく、通身是手眼。 いはゆる道は、手眼たがひに手眼として通身なりといふにあらず、手眼の通身を通身是手眼といふなり」とある。   これは、「身」を置いて、その上に「手と眼」がびっしり取り付けられていることを言うのではない。 ただ「手と眼」そのものを「通身」と言い、別の物ではないのである。 「身」を置いて、その上に「手と眼」が取り付けられていると考えるのは、 凡夫の見方と同じであり、仏法ではないのである。 「しかあれば、身はこれ手眼なりといふにはあらず。用許多手眼は、 用手用眼の許多なるには、手眼かならず通身是手眼なるなり」とある。  「用手用眼 (手を用い眼を用いること) 」は「全手全眼 (全てが手全てが眼) 」と言うようなことである。 仏々 聻 ニイ(仏そのもの) なり、性々聻なりと言うほどのこ...

仏性とミミズもいずれにも留まらないものである『第十八観音』18-6-3a(正法眼蔵)

  〔『正法眼蔵』原文〕   雲巌道の「某甲祇如是 ボウコウシニョゼ 、師兄作麼生 スヒンソモサン 」は、 道吾のいふ道得八九成の道を道取せしむるがゆゑに、 「祇如是」と道取するなり。 これ不留朕迹 フリュウチンシャク なりといへども、 すなはち臂長衫袖短 ヒチョウサンシュウタン 《臂長くして衫の袖短し》 なり。 わが適来 テキライ の道を道未尽ながらさしおくを、 「某甲祇如是」といふにはあらず。 〔『正法眼蔵』読解ーー 『聞書抄』を手掛かりに 〕  道吾の「八九成に言い得たり」という言葉を 「それがしもこのように解したが、 貴公はどうか」 と雲巖が言ったのは、 道吾に「八九成に言い得たり」と言わせたから、 「それがしもこのように解した」と言ったのである。 〔それがしとは雲巖のことだと解してはいけない。 師兄(貴公)を自己の外のものだと解してはいけない。〕 これは雲巌なのか道吾なのか、いずれにも留まらない( 不留朕迹 )けれども、 別の言い方をすれば、臂は長くて袖は短い、つまり、 ただ一つのものであるがしばらく二つに言われる道理から 、 しばらく雲巌と道吾を呼び出されたのである。 〔 不留朕迹(いずれにも留まらない)は古い言葉であり、 仏性とミミズも 不留朕迹であり、どんな二つの言葉もあてはまるのである。 臂長衫袖短 《臂長くして衫の袖短し》とは、ただ一つのものであるが、 しばらく二つに言われることもある道理を言うのである。 〕 自分の先程からの言葉を十分に言い尽くせないままにしておくことを、 「自分の考えはこのようであるが、 人はどう解しているか」 と言ったのではないのである  仏性とミミズもいずれにも留まらないものである『第十八観音』18-6-3b(聞書抄)                              合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  

仏性とミミズもいずれにも留まらないものである『第十八観音』18-6-3b(聞書抄)

  〔『抄』原文〕 「雲巌道の某甲祇如是、師兄作麼生は、道吾のいふ道得八九成の道を道取せしむるがゆゑに、祇 タダ 如是と道取するなり。これ不留朕迹 フリュウチンシャク なりといへども、 すなはち臂長衫袖短 ヒヂナガクシテサンノソデミジカキ なり。」    是は、「雲巌道の某甲祇如是」は「道吾」の「道得八九成の道」 を我も如此心得たりと云なり。 人の言葉を非不審。 「不留朕迹」とは、「雲巖」なるべきか、「道吾」なるべきか、 彼にも是にもとゞまらぬ所を「不留朕迹」と云なり。 是は古き詞なり。 仏性与蚯蚓も「不留朕迹」にあたるべし。 何詞も「不留朕迹」にあたるべし。 「臂長衫袖短」とは只一物なれども、 又しばらく二と云はるゝ事もある道理にいふなり。 たとへば無差別ことはりなれども、 暫「雲巖」与「道吾」よびいださるゝ程の事なり。 此心地を「臂長衫袖短」とは云なり。 「わが適来 シライ の道を道未尽ながらさしおくを、某甲祇如是といふにはあらず。」   如文。 所詮「雲巖」わが所存如此、人はいかに心得たるぞと云にはあらぬなり。 〔『抄』訳文〕 「雲巌道の某甲祇如是、師兄作麼生は、道吾のいふ道得八九成の道を道取せしむるがゆゑに、祇如是と道取するなり。これ不留朕迹なりといへども、すなはち臂長衫袖短 ヒヂナガクシテサンノソデミジカシ なり」とある。   これは、「雲巌道の某甲祇如是」とは「道吾」の「道得八九成の道 (八九成に言い得たりという言葉) 」を我もこのように解したと言うのである。 人の言葉を疑問に思ったのではないのである。 「不留朕迹 (跡を留めない) 」とは、「雲巌」なのか「道吾」なのか、 いずれにも留まらないところを「不留朕迹」と言うのである。 これは古い言葉であり、仏性と蚯蚓 (ミミズ) も「不留朕迹」にあたる。 どんな言葉もあたるのである。 「臂長衫袖短 (ひじは長く袖は短い) 」とは、ただ一つの物であるが、 またしばらく二つに言われることもある道理を言うのである。 たとえば、差別の無い道理 であるが、 しばらく「雲巌」と「道吾」を呼び出されたほどのことである。 この意味合いを「臂長衫袖短」と言うのである。 「わが適来 シライ の道を道未尽ながらさしおくを、某甲祇如是といふにはあらず」 とある。    文の通りである。つまるところ、雲巌が自...

一人の力で持ち上げるのは、尋常の力量を超えている『第十八観音』18-6-2a(正法眼蔵)

〔『正法眼蔵』原文〕 たとへば、尽十方界を百千万力 リキ に拈来するあらんも、 拈来せざるにはすぐるべし。 しかあるを、一力に拈来せんは、よのつねの力量なるべからず。 いま八九成のこころ、かくのごとし。 しかあるを、仏祖の「祇道得八九成」の道 ドウ をきゝては、 道得十成なるべきに、道得いたらずして八九成といふと会取 エシュ す。 仏法もしかくのごとくならば、今日にいたるべからず。 いはゆるの八九成は、百千といはんがごとし、 許多といはんがごとく参学すべきなり。 すでに八九と道取す、はかりしりぬ、 八九にかぎるべからずといふなり。 仏祖の道話、かくのごとく参学するなり。 〔『正法眼蔵』読解ー『聞書抄』を手掛りに〕 たとえば、十方世界全てを百人や千人や万人の力で ようやく持ち上げることができたとしても、持ち上げないよりは優れている。 そうであるが、 百人や千人あるいは十人や二十人でようやく持ち上げられるようなものを、 一人の力で持ち上げるのは、 まさに尋常の力量を超えている。 今の八九成の意味もこれと同じである。 ところが、仏祖〔道吾〕の「ただ八九成を言い得た」という言葉を聞いて、 十分に言い得るべきなのに、言葉が至らなくて八九成と言っていると解してしまう。 〔これは八九成を不足だとする偏った見方である。〕 仏法がもしそのようなものであるなら、 今日まで至ることはなかったであろう。 ここで言う八九成は、百や千と言うようなことであり、 たくさんというようなことであると学ばなければならない。 すでに八九成と言ったのであるから、知るがよい、 八や九の数に限られるものではないと言うのである。 仏祖が示す言葉は、このように参学するのである。 一人の力で持ち上げるのは、尋常の力量を超えている『第十八観音』18-6-2b(聞書抄)                              合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村