〔『正法眼蔵』原文〕 師は南天竺の刹利種 セツリシュ なり、大国の皇子 オウジ なり。 大国の王宮 オウグウ 、その法ひさしく慣熟せり。 小国の風俗は、大国の帝者に為見 イケン のはぢつべきあれども、 初祖、うごかしむるこゝろあらず。 くにをすてず、人をすてず。 ときに菩提流支 ボダイルシ の 訕謗 センボウ を救 キュウ せず、にくまず。 光統律師 コウズリッシ が邪心をうらむるにたらず、きくにおよばず。 かくのごとくの功徳おほしといへども、東地の人物、たゞ尋常の三蔵 および経論師のごとくにおもふは至愚なり。小人なるゆゑなり。 あるひはおもふ、「禅宗とて一途 イチズ の法門を開演するが、 自余の論師等の所云 ショウン も、初祖の正法もおなじかるべき」とおもふ。 これは仏法を濫穢 ランエ せしむる小畜なり。 〔「抄」私訳〕 「菩提流支」と「光統律師」はともに教者である。 初祖を嫉 ソネ み憎んだ人である。 〔『正法眼蔵』私訳〕 達磨大師は、南インドの王族階級 (クシャトリア) であり、 大国の皇子である。 (師は南天竺の刹利種なり、大国の皇子なり。) 大国の王宮では、その法が久しく習熟していた。 (大国の王宮、その法ひさしく慣熟せり。) 小国の風俗は、大国の帝王にお目にかかる儀礼が整っておらず 恥ずべきところもあったが、大師は心を動かさなかった。 (小国の風俗は、大国の帝者に為見のはぢつべきあれども、 初祖うごかしむるこゝろあらず。) この国を捨てず、この国の人を捨てなかった。 (くにをすてず、人をすてず。) 時に菩提流支 (北インドから洛陽に来た三蔵学者) の誹謗を受けても、 相手にせず憎まなかった。 (ときに菩提流支の 誹 謗を救せず、にくまず。) また光統律師 (魏の僧) の邪心 (大師を嫉妬して毒殺を図った) を 恨むことなく、問題にもしなかった。 (光統律師が邪心をうらむるにたらず、きくにおよばず。) このように功徳が多かったが、中国の人たちが、 大師をもっぱら普通の三蔵法師や経典・論典の講師のように思ったのは、 実に愚かなことであった。小人であったからであ...
〔『正法眼蔵』原文〕 帝、不領悟。師、知機不契 《帝、領悟せず。師、機の不契なるを知る》 。 ゆゑにこの十月十九日、ひそかに江北にゆく。 そのとし十一月二十三日、洛陽にいたりぬ。 嵩山 スウザン 少林寺に寓止 グウシ して、面壁而坐 メンペキニザ 、終日黙然 モクネン なり。 しかあれども、魏主 ギシュ も不肖にしてしらず、はぢつべき理もしらず。 〔『聞書』私訳〕 /梁の武帝と初祖の問答は、草子に明らかである。 /「来時好道、去如来時」 (来る時は好き道、去るも来る時の如し) という言葉がある。 これは、舎那多尊者が、阿育大王の請に依って唱道 (法門を演説すること) を勤めた時、ただこの一句だけを言って座より降りたが、諸人は理解できず、ただ大王だけが独り随喜した、とある。 この意味は、六道の中の好い道 (天上道・人間道) より生れて来て今大王となり、善いことを行えば、この世を去るときも善であろうというのである。「如実の道に乗じて、来たって正覚を成ず」の意味である。 「造寺」もただ世間の家のように思い、「写経」も文字のように理解しては、たとえば仏寺を建立する果は誠に小果である。廚庫・山門を光明ほどに理解して造堂・造塔するなら、その果は実相である。 師、答えて曰く、「廓然無聖」というのは、この「無聖」は、「浄智妙円、体自空寂」の「聖諦第一義」というときは、聖とも凡ともあげることはできない。故に「無聖」と言う。 「対朕者誰」と言うのは、師を聖と思うためか。「第一義」の上で、師を聖と言うことはできない。故に「不識」と言う。「帝不領悟機不契」である。 〔『抄』私訳〕 梁の武帝との問答の時の、初祖の「不識」という言葉は、「不会仏法」というほどの語義である。 〔『正法眼蔵』私訳〕 武帝は、大師が何を言っているのかわからなかった。 (帝、領悟せず。) 大師は、武帝が法を聞いて悟る器でないことを知った。 (師、機の不契なるを知る。) 故に師はこの十月十九日に密かに揚子江の北に渡り、 その年の十一月二十三日に、洛陽に到着した。 (ゆゑにこの十月十九日、ひそかに江北にゆく。 そのとし十一月二十三日、洛陽にいたりぬ。) 嵩山の少林寺に仮住まいして、一日中黙々と壁に向かい坐禅した。 (嵩山少林寺に寓止して、面壁而坐、終...