〔『正法眼蔵』原文〕 のちに仰山 キョウザン きたり侍奉 ジブ す、 仰山、もとは百丈先師のところにして、 問十答百 モンジュウトウヒャク の鶖子 シュウシ なりといへども、 潙山に参侍して、さらに看牛三年の功夫となる。 近来は断絶し、見聞 ケンモン することなき行持なり、 三年の看牛、よく道得を人にもとめざらしむ。 〔『正法眼蔵』私訳〕 後に潙山禅師のもとに仰山慧寂が来て仕えた。 仰山は、以前は亡き師百丈禅師の所で、 十問われれば百答える舎利弗 シャリホツ のような知恵者であったが、 潙山禅師に仕え、さらに看牛すなわち正法眼蔵涅槃妙心を看る、 つまり坐禅弁道に精進すること三年であった。 (のちに仰山きたり侍奉す、仰山、もとは百丈先師のところにして、 問十答百の鶖子なりといへども、 潙山に参侍して、さらに看牛三年の功夫となる。) 近頃では絶えて見聞することがない行持であり、 三年のあいだ脇目も振らず坐禅弁道に精進した。 その坐禅弁道の精進がそのまま仏道を語りぬいているから、 人に坐禅のありがたいことを言わせる必要はないのである。 (近来は断絶し、見聞することなき行持なり、三年の看牛、よく道得を人にもとめざらしむ。) 合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村
〔『正法眼蔵』原文〕 潙山のそのかみの行持、しづかにおもひやるべきなり。 おもひやるといふは、わがいま潙山にすめらんがごとくおもふべし。 深夜のあめの声、こけをうがつのみならんや、 巌石を穿却 センキャク するちからもあるべし。 冬天のゆきの夜は、禽獸もまれなるべし、 いはんや人煙 ジンエン のわれをしるあらんや。 命をかろくし法をおもくする行持にあらずは、しかあるべからざる活計なり。 薙草 チソウ すみやかならず、土木いとなまず。 ただ行持修練し、辨道功夫あるのみなり。 あはれむべし、正法伝持の嫡祖 チャクソ 、いくばくか山中の嶮岨 ケンソ にわづらふ。 潙山をつたへきくには、池あり、水あり、こほりかさなり、きりかさなるらん。 人物 ニンモツ の堪忍すべき幽棲 ユウセイ にあらざれども、仏道と玄奥 ゲンオウ と、 化 ケ 、成ずることあらたなり。 かくのごとく行持しきたれりし道得を見聞す、身をやすくしてきくべきにあらざれども、行持の勤勞すべき報謝をしらざれば、たやすくきくといふとも、こころあらん晩学、いかでかそのかみの潙山を、 目前のいまのごとくおもひやりてあはれまざらん。 〔『正法眼蔵』私訳〕 潙山の当時の行持を、静かに思いやるべきである。 思いやるとは、自分が今潙山に住んでいるように思うことである。 (潙山のそのかみの行持、しづかにおもひやるべきなり、おもひやるといふは、 わがいま潙山にすめらんがごとくおもふべし。) 深夜の雨の音は、苔を穿つだけでなく、巌石をえぐる力もあり、 冬天の雪の夜は、鳥や獣も姿を見せないほどの厳しい寒さである。 まして煙立つ人里に自分を知る者はいないであろう。 (深夜のあめの声、こけをうがつのみならんや、巖石を穿却するちからもあるべし、 冬天のゆきの夜は、禽獸もまれなるべし、いはんや人煙のわれをしるあらんや。) 命を軽くし法を重んじる行持でなければ、そのような修行生活はつとまるものではなく、土地を切り開くための草刈りを急がず、土木を営むこともなく、 ただ行持を修練し、坐禅弁道をつとめるのみである。 (命をかろくし法をおもくする行持にあらずば、しかあるべからざる活計なり、 薙草すみやかならず、土木いとなまず、ただ行持修練し、辨道功夫あるのみなり。) お気の毒なことである、正法を受け伝え護持する祖師は、どれほど山中の険しさに苦労さ...