〔抄原文〕 雲居山弘覚大師は、洞山の嫡子なり。釈迦牟尼仏より三十九世の法孫なり、 洞山宗の嫡祖なり。 五家ヲ立ル事、然ル可カラズ之由、先々事旧了。今、洞山宗ト云事、必シモ 立宗ノ分ニラズ。只、其人ヲ賞翫スル時モ、宗ト云詞ヲ付ル事之有リ歟。今 ノ詞其義ニアタルベキ歟。 〔注:最初の文頭が上がっている文は蒐書大成に引用された『正法眼蔵』原文、その下の文頭が二字下がっている文は『抄』本文です(『蒐書大成』と同じ体裁)。 一 般読者の便宜のため、句読点・濁点を付け、旧漢字を新漢字にし、カナ使いを修正し、レ点と一二点付きの箇所を読み下しにして記載しました。〕 雲居山弘覚大師、一日示衆云、欲得恁麼事、須是恁麼人、既是恁麼人、何愁恁麼事。 「恁麼」ト云事、古キ経教等ニハ此詞イト見エズ歟、新渡書籍等ニ此詞見歟、所詮、カクノ如シト云詞ナリ。直趣無上菩提シバラク是ヲ「恁麼」ト云トアレバ、今ハ無上菩提ヲ以テ「恁麼」ト名ズ歟。然者、今ノ示衆ノ詞ハ、「欲得無上菩提、須是無上菩提ナリ、既是無上菩提ナリ、何愁無上菩提」ト云道理ナリ、尤其謂有リ。 〔抄私訳〕 「雲居山弘覚大師は、洞山の嫡子なり。釈迦牟尼仏より三十九世の法孫なり、 洞山宗の嫡祖なり」とある。 五家七宗を立てることが適切でないことは以前に述べた通りである。今、「洞 山宗」と言うのは、必ずしも宗派を立てる意味ではない。ただその人を賞翫 (尊重) する際、「宗」という言葉を用いることがあり、今の言葉はその意味に 当たる。 「雲居山弘覚大師、一日示衆云、欲得恁麼事、須是恁麼人、既是恁麼人、何愁恁麼事 。」 「恁麼」という言葉は、古い時代の経典などにはまったく見られず、新しく渡 ってきた禅籍等にこの言葉が見られる、結局は「かくの如し」という言葉で ある。「直趣無上菩 提、しばらくこれを恁麼といふ」と言うから、ここは、 「無上菩提」を「恁麼」と名付けるのである。そうであるなら、今、大衆に示 した言葉は、「無上菩提を得んとおもはば、すべからくこれ無上菩提なるべ し。すでにこれ無上菩提なり、なんぞ無上菩提を愁へん」という道理であ り、まことに深い意味があるのである。 〔聞書原文〕 /洞山宗ノ嫡祖ナリト云ハ、宗ト云ヘバ五家ノ内洞山宗ト聞ユ、然ニアラズ。 都...
〔『正法眼蔵』原文〕 しづかにおもふべし、 一生いくばくにあらず、 仏祖の語句、たとひ三々両々なりとも、 道得 ドウトク せんは仏祖を道得せるならん。 ゆゑはいかん、仏祖は身心如一 シンジンニョイツ なるがゆゑに、 一句両句、みな仏祖のあたたかなる身心なり。 かの身心きたりてわが身心を道得す。 正当道取時、これ道得きたりてわが身心を道取するなり。 此生道取累生身 シショウドウシュルイショウシン なるべし、かるがゆゑに、 ほとけとなり、祖となるに、仏をこゑ祖をこゆるなり。 三々両々の行持の句それかくのごとし、いたづらなる声色 ショウシキ の名利に 馳騁 チテイ することなかれ、馳騁せざれば仏祖単伝の行持なるべし。 すすむらくは大隱小隱一箇半箇なりとも、万事万縁 バンジバンエン をなげすてて、 行持を仏祖に行持すべし。 正法眼蔵仏祖行持第十六 仁治三年壬寅四月五日書于観音導利興聖宝林寺 〔『正法眼蔵』私訳〕 [行持の上下全巻で、これまで仏祖方三十四人をあげられたが、それを総括される。] 静かに思うてみよ、この生はいくらも続くものでない、 仏祖の言葉をたとえ一句でも、その真意に徹して行じぬくことが出来れば、 仏祖の在りように徹して行じぬいたことになる。 (しづかにおもふべし、一生いくばくにあらず、仏祖の語句、たとひ三三両両なりとも、 道得せんは仏祖を道得せるならん。) 何故ならば、仏祖は身心一如であるから、 一句二句がみな仏祖の暖かい身心なのである。 (ゆゑはいかん、仏祖は身心如一なるがゆゑに、一句両句、みな仏祖のあたたかなる身心なり。) その仏祖の身心 (一句) が来てわれらの身心を行じぬく。 (かの身心きたりてわが身心を道得す。) 正にその時、 仏祖の一句がわれらの身心を行じぬくのである。 (正当道取時、これ道得きたりて、わが身心を道取するなり、) この生のこの身心が行ずるところに三世ぶっ通しの仏祖の身心を行じぬくのである。 (此生道取累生身なるべし、) そうであるから、われらの身心が行ずるところに仏となり祖師となるので、 仏を越え祖師を越えるのである。 (かるがゆゑに、ほとけとなり祖となるに、仏をこゑ祖をこゆるなり。) 〔「諸仏の行持によりてわれらの行持見成し、われらの大道通達するなり、われらが行持に...