〔『正法眼蔵』原文〕 衲子 ノッス を教訓するにいはく、 「参禅学道は、第一有道心 ウドウシン 、これ学道のはじめなり。 いま二百年来、祖師道すたれたり、かなしむべし、 いはんや一句を道得せる皮袋 ヒタイ すくなし。 某甲 ソレガシ そのかみ径山 キンザン に掛錫 カシャク するに、 光仏照 コウブッショウ そのときの粥飯頭 シュクハントウ なりき、上堂していはく、 『仏法禅道、かならずしも他人の言句 ゴンク をもとむべからず、ただ各自理会 リエ 」。 かくのごとくいひて、僧堂裏都不管 トフカン なりき、雲水 ウンスイ 兄弟也 ヒンデイマタ 都不管 トフカン なり、祇管与官客相見追尋 シカンヨカンキャクショウケンツイジン〈 祇管に官客と相見追尋〉 するのみなり。 仏照ことに仏法の機関をしらず、ひとへに貪名愛利のみなり。 仏法もし各自理会ならば、いかでか尋師訪道の老古錐 ロウコスイ あらん。 真箇是光仏照不曾参禅也 シンコゼコウブツショウフゾウサンゼンナリ〈 真箇是れ光仏照、曾て参禅せざるなり〉 。 いま諸方長老無道心なる、ただ光仏照箇児子也 コジシナリ 。 仏法那得他手裏有 ナトクタシュリウ[〈 仏法那 イズクン ぞ他 カレ が手裏に有ることを得ん〉。 可惜 カシャク 可惜〈 惜しむべし惜しむべし〉 。」 かくのごとくいふに、仏照児孫おほくきくものあれど、うらみず。 〔『正法眼蔵』私訳〕 禅僧を教えるのに常に言った、「坐禅をつとめ仏道を修行するには、第一に道心 (菩提心:さとりを得ようという志) があること、これが仏道修行に入る出発点である。 (衲子を教訓するにいはく、参禅学道は第一有道心、これ学道のはじめなり。) この二百年来、祖師の道は廃れてしまい、悲しいことである。 (いま二百来年、祖師道すたれたり、かなしむべし。) まして真実の一句を言いぬいた人は少ない。 (いはんや一句を道得せる皮袋すくなし。) わたしが昔径山 キンザン に安居したとき、徳光仏照 (大慧宗杲 ダイエソウコウ の弟子) が住職であった。 (某甲...
〔『正法眼蔵』原文〕 あるがいはく、衆生利益 リヤク のために、貪名愛利 トンミョウアイリ すといふ。おほきなる邪説なり、附仏法 フブッポウ の外道 ゲドウ なり、謗正法 ボウショウボウ の魔黨 マトウ なり。なんぢいふがごとくならば、不貪名利 フトンミョウリ の仏祖は、利生 リショウ なきか。わらふべしわらふべし。 又不貪の利生あり、いかん、又そこばくの利生あることを学せず、利生にあらざるを利生と称する魔類なるべし、なんぢに利益せられん衆生は、墮獄 ダゴク の種類なるべし、一生のくらきことをかなしむべし、愚蒙 グモウ を利生に称することなかれ。 しかあれば師号を恩賜 オンシ すとも、上表辞謝する、古来の勝躅 ショウチョク なり、晩学の参究なるべし。まのあたり先師をみる、これ人にあふなり。 先師は十九歳 ジュウクサイ より離郷尋師 リキョウジンシ 、弁道功夫すること、六十五載にいたりてなほ不退不転なり。帝者 テイシャ に親近 シンゴン せず、帝者にみえず。丞相 ジョウショウ と親厚ならず、官員と親厚ならず。紫衣師号を表辞するのみにあらず、一生 イッショウ まだらなる袈裟 ケサ を搭 タッ せず、よのつねに上堂入室 ジョウドウニュッシツ 、みなくろき袈裟裰子 トッス をもちゐる。 〔『正法眼蔵』私訳〕 ある者が言う、「衆生利益 リヤク のために、〔名声を得た方が衆生を利しやすいので、〕名利を貪り愛するのである」と。それは大変間違った言い分であり、仏法につきまとっている外道 (仏法でない思想を持つ者) であり、正法を謗 ソシ る魔の類 タグイ である。 (あるがいはく、衆生利益のために、貪名愛利すといふ。おほきなる邪説なり、附仏法の外道なり、謗正法の魔黨なり。) お前の言う通りなら、名利を貪らない仏祖は衆生を利益することはないのか、まったく笑うべきことである。 (なんぢいふがごとくならば、不貪名利の仏祖は利生なきか。わらふべしわらふべし。) また、名利を貪らない衆生利益があるが、それをどう思うか。またそのほかにもたくさん衆生利益の道があることを学ばないで、衆生利益でないものを衆生済度と言うのは魔の類である。お前に利益される衆生は、地獄に堕ちる類であり、一生のあいだ無明のままであることを悲しむべきである。衆生済度を口...