〔『抄』原文〕 「しるべし、手眼はたとひあひ罣礙せずとも、用作麼は恁麼用なり、用恁麼なり。」 打任は身に「眼」も「手」も具足するものなり。 仍此「手眼」は「用」はなにの要ぞと不審したる様に思ならはしぬべし。 而今所談の心地は「手眼」の外に又物不交。 「手眼」の独立の上は「用作麼」と云詞が不審とはならず、 只「手眼」の功徳荘厳にて、暫「用作麼」と云はるゝなり。 ゆへに可「用」「用」にならざるゆへに、「用作麼は恁麼用なり、 用恁麼なり」とは云なり。 「恁麼道得するがごときは、徧手眼は不曽蔵なりとも、徧手眼と道得する期をまつべからず。」 「徧手眼」なるゆへに「不曽蔵なりとも、徧手眼と道得する期をまつべからず」とは、「徧手眼」の外に「道得」すべき人あるべからざる道理なり。仍、如此云はるゝなり。 「不曽蔵の那手眼ありとも、這手眼ありとも、自己にはあらず、山海にはあらず、日面月面にあらず、即心是仏にあらざるなり。」 是は、「不曽蔵の那手眼」「這手眼」共に只以「手眼」「那」とも「這」とも談なり。 「手眼」の時節には、「自己」とも「山海」とも「日面月面」「即心是仏」とも不可云、只「手眼」なりと云なり。 〔『抄』私訳〕 「しるべし、手眼はたとひあひ罣礙せずとも、用作麼は恁麼用なり、用恁麼なり」とある。 一般には身に「眼」も「手」も備わっているものであるから、この「手眼」は何に用いる必要があるのかと疑問を起こしたように思うであろう。 しかし今談ずるところの意味合いは、「手眼」の外に何も交わるものがないというのである。 「手眼」が独立している上は、「用作麼」という言葉が疑問とはならず、ただ「手眼」の功徳が荘厳であるので、しばらく「用作麼」と言われるのである。 だから「用」いるべき「用」にならないので、「用作麼は恁麼用なり、用恁麼なり」と言うのである。 「恁麼道得するがごときは、徧手眼は不曽蔵なりとも、徧手眼と道得する期をまつべからず」とある。 「徧手眼 (すべて手と眼) 」であるから、「不曽蔵 (何ものも隠すことがない) なりとも、徧手眼と道得する期をまつべからず」とは、「徧手眼」の外に「道得」できる (仏法の道理を説き尽くすことができる) 人はいない道理である。従ってこのように言われるのである。 「不曽蔵の那手眼ありとも、這手眼ありとも、自己にはあらず、山海にはあら...
第四段② 〔『正法眼蔵』原文〕 いまいふ「如人」の人 ニン は、ひとへに譬喩の言 ゴン なるべきか。 又この人は平常の人にして、平常の人なるべからざるか。 もし仏道の平常人なりと学して、譬喩のみにあらずは、 「摸枕子」に学すべきところあり。 「枕子」も、咨問すべき何形段 ガギョウダン あり。 「夜間」も、人天 ニンデン 昼夜の夜間のみなるべからず。 しるべし、道取するは「取得枕子 シュトクチンス 」にあらず、 「牽挽 ケンメン 枕子」にあらず、「推出枕子」にあらず。 「夜間背手摸枕子」と道取する道吾の道底 ドウテイ を検点せんとするに、 眼の夜間をうる、見るべし、すごさゞれ。 手のまくらをさぐる、いまだ剤限 サイゲン を著手せず。 「背手」の機要なるべくは、背眼 ハイゲン すべき機要のあるか。 夜眼をあきらむべし。 手眼世界なるべきか、人手眼のあるか、ひとり手眼のみ飛霹靂 ヒヘキレキ するか、 頭正尾正 ズシンビシン なる手眼の一条両条なるか。 もしかくのごとくの道理を検点すれば、「用許多手眼」はたとひありとも、 たれかこれ大悲菩薩、たゞ手眼菩薩のみきこゆるがごとし。 〔『正法眼蔵』私訳〕 今言う「人の夜間に手を背にして枕子を摸するが如し」というその人は、 まったく比喩の言葉なのか。 それとも、この人は普通の人に見えて、普通の人でないのか。 もし仏道の平常人であると学んで、比喩だけでないとするなら、 摸枕子 (枕を探り求めること) に学ぶべきところがある。 「枕子」も、諮問すべき何としかいいようのない形がある 〔、つまり「枕子」は尽十方世界である〕。 「夜間」も、人間界や天上界での昼夜の 夜間だけではない。 知るといい、ここで言うのは、「枕を取る」というのではない、 「枕を引く」というのではない、「枕を推し出す」というのではない。 「夜間に手を背にして枕子を摸する」と言う道吾の言葉の奥底を点検しようとする 際に、眼が夜間を得るのを、見るべきであり、やり過ごしてはならない。 手が枕を探り求めるといっても、手も枕もまったく際限がない。 「手を後ろにすること」が肝心要のはたらきであれば、眼を後ろにする肝心要 のはたらきもある (手が尽十方世界であれば、眼も尽十方世界である) 。 夜間の無辺際の眼のことを明らかにすべきである。 手眼を環境世界といい...