〔『正法眼蔵』原文〕 その行持の功徳、ときにかくれず。 かるがゆゑに発心修行す。 その功徳、ときにあらはれず、かるがゆゑに見聞覚知せず。 あらはれざれども、かくれずと参学すべし。 隠顕存没 オンケン ゾンモツ に染汚 ゼンナ せられざるがゆゑに。 われを見成する行持、いまの当穏 トウオン に、 これいかなる縁起の諸法ありて行持すると不会 フエ なるは、 行持の会取 エシュ 、さらに新条の特地にあらざるによりてなり。 縁起は行持なり、行持は縁起せざるがゆゑにと、功夫参学を審細にすべし。 かの行持を見成する行持は、すなはちこれわれらがいまの行持なり。 行持のいまは、自己の本有元住 ホンヌ ゲンジュウ にあらず、 行持のいまは、自己に去来出入 コライシュツニュウ するにあらず。 いまといふ道は、行持よりさきにあるにはあらず、 行持現成するをいまといふ。 〔『正法眼蔵』私訳〕 その行持の功徳は、時に隠れず顕れる。 そのために発心し修行 するのである 。 その行持の功徳は、時に顕れず隠れる。 そのために見聞覚知しないのである。 (その行持の功徳、ときにかくれず。かるがゆゑに発心修行す。 その功徳、ときにあらはれず。かるがゆゑに見聞覚知せず。) 行持の功徳は顕れなくても、隠れることはないと参学すべきである。 (あらはれざれども、かくれずと参学すべし。) 行持の功徳は、隠れたり顕れたり在ったりなかったりすることに、 染め汚されないから、我を現成する行持が、あるときは顕れあるときは隠れるときに、これがどのような縁によって行持 するのか分からない のは、行持によって知られるものが、決して新しい特別な境地ではないからである。 (隠顕存没に染汚せられざるがゆゑに、われを見成する行持、いまの当穏に、これいかなる縁起の諸法ありて行持すると不会なるは、行持の会取、さらに新条の特地にあらざるによりてなり。) 縁によって起こるのは俗情の行持である、諸仏の行持は縁によって起こるのではないからと、努力し参禅学道を詳しく細やかにすべきである。 (縁起は行持なり、行持は縁起せざるがゆゑにと、功夫参学を審細にすべし。) 不染汚 フゼンナ(いかなるものにも染め汚されない) の行持を現成する行持は、 すなわち我々の今の行持で...
〔『聞書』私訳〕 /「発心修行す。 その功徳ときにあらはれず、 かるがゆゑに見聞覺知せず」と言う。 「発心修行」は許して、又「見聞覺知せず」と言う。 「発心」の言葉にも取捨があり、 「見聞」の言葉にも取捨があるというのである 。 /「いかなる縁起の諸法ありて行持すると不会なるは、行持の会取、さらに新条の特地にあらざるによりてなり」とある。 この「会」は、「新条」ではないと言う。 古いとか、新しいとかいうのは、吾我 (自分) に対してのことである。 /「縁起は行持なり、行持は縁起せざるがゆゑに」とは、「縁起」と「行持」が親切であるということである。 今の「行持」のあり様を、衆生がいて仏道を「行持」するのだとばかり心得るのは審細ではない。衆生は「行持」に「行持」させられると心得るべきである。だから、先師の御言葉に、「この行持の功徳、われを保任し、他を保任す。その宗旨は、わが行持、すなはち十方の匝地漫天、みなその功徳をかうむる。他もしらずわれもしらずといへども、しかあるなり。このゆゑに、諸仏諸祖の行持によりてわれらが行持見成し」とあるのである。 /「縁起」とあれば、縁が起こることによって「行持」するのだと言ってはいけない。「行持」こそが「縁起」である。縁は照であり、縁に対せずして照らすの照と心得るべきである。 〔『抄』私訳〕 「その行持の功徳ときにかくれず、かるがゆゑに発心修行す。その功徳ときにあらはれず、 かるがゆくに見聞覚知せず。あらはれざれども、かくれずと参学すべし。隠顕存没に染汚せられざるがゆくに。われを見成する行時、いまの当隠に、これいかなる縁起の諸法ありて行持すると不会なるは、行持の会取、さらに新条の特地にあらざるによりてなり」とある。 この「発心修行」も、「菩提涅槃」を結果に置いて言う「発心修行」ではないから、 「隠顕存没」にも関係なく、「見聞覺知」する人もいないのである。 「縁起は行持なり、行持は縁起せざるがゆゑにと、 功夫参学を審細にすべし」とある。...