スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

一日生きただけで十分にこの坐禅を会得した者には及ばない『第十六行持』16-17-1

〔『正法眼蔵』原文〕                        古来の仏祖いひきたれることあり、 いはゆる「若人生百歳、不会諸仏機、未若生一日、而。能決了之 《若 モ し人、生きて百歳あらんも、諸仏の機を会 エ せずは、未だ生きて一日にして、 能く之 コレ を決了せんには若 シ かじ》 」。                                   これは一仏二仏のいふところにあらず、諸仏の道取しきたれるところなり。 諸仏の行取しきたれるところなり。 百千万劫の回生回死 カイショウカイシ のなかに、行持ある一日は、髻中 ケイチュウ の明珠なり、 同生同死 ドウショウ ドウシ の古鏡なり、よろこぶべき一日なり、行持力みづからよろこばるゝなり。 行持のちからいまだいたらず、仏祖の骨髄うけざるがごときは、 仏祖の身心ををしまず、仏祖の面目をよろこばざるなり。 仏祖の面目骨髄、これ不去 フコ なり、如去 ニョコ なり、如来 ニョライ なり、 不来 フライ なりといへども、かならず一日の行持に稟受 ボンジュ するなり。 しかあれば、一日はおもかるべきなり。いたづらに百歳いけらんは、 うらむべき日月なり、かなしむべき形骸 ケイガイ なり。 たとひ百歳の日月は声色 ショウシキ の奴婢 ヌビ と馳走 チソウ すとも、 そのなか一日の行持を行取せば、一生の百歳を行取するのみにあらず、 百歳の他生 タショウ をも度取 ドシュ すべきなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕                        昔から仏祖が言ってきたことがある、 それは、「たとえ百年生きた人でも、諸仏の要機 (かなめの働き) である坐禅を会得できないのなら、一日生きただけで十分にこの坐禅を会得した者には及ばない」ということである。 (古来の仏祖いひきたれることあり。いはゆる、「若し人、生きて百歳あらんも、 諸仏の機を会せずは、未だ生きて一日にして、能く之を決了せんには若じ」。) これは一人や二人の仏祖が言われたことではなく、三世の諸仏がみな言われてきたことであり、三世の諸仏がみな行じられてきたことである。 (これは一仏二仏のいうところにあらず、 諸仏の道取しきたれるところ、 諸仏の行取しきたれるところなり。) 未来永劫に生死が回 メグ るなかで、行持がある一日は、髻 モトドリ...
最近の投稿

洞山悟本大師「行じ得ないところを説き、説き得ないところを行ずる」『第十六行持』16-16a 

  〔『正法眼蔵』原文〕                                              洞山悟本大師 トウザン ゴホン ダイシ 道 イハク 、 「説取 セッシュ 行不得底 ギョウ フトクテイ 、行取 ギョウシュ 説不得底 セツ フトクテイ 《行不得底を説取し、説不得底を行取す》 」。  これ高祖の道 ドウ なり。その宗旨は、行は説に通ずるみちをあきらめ、説の行に通ずるみちあり。しかあれば、終日とくところに終日おこなふなり。その宗旨は、行不得底を行取し、説不得底を説取するなり。  雲居山弘覚大師 ウンゴザン コウガク ダイシ 、この道を七通八達 シッツウハッタツ するにいはく、「説時無行路 セツジムギョウロ 、行時無説路 ギョウジムセツロ 」。  この道得は、行説 ギョウセツ なきにあらず、その説時は、一生不離叢林なり。その行時は、洗頭到雪峰前 セントウトウ セッポウゼン なり。説時無行路、行時無説路、 さしおくべからず、みだらざるべし。                                             〔『正法眼蔵』私訳〕                                            洞山悟本大師は言う、 「行じ得ないところを説き、説き得ないところを行ずる」。 (洞山悟本大師道、「説取行不得底、行取説不得底 《行不得底を説取し、説不得底を行取す》 」。)            これは洞山高祖 トウザンコウソ の言葉である。 (これ高祖の道なり。)                 その宗旨は、 行は説に通じる道を明らかにし、説が行に通じる道があるというのである。 (その宗旨は、行は説に通ずるみちをあきらめ、説の行に通ずるみちあり。) そうであるから、一日中説くところに一日中行ずることがあるのである。 (しかあれば、終日とくところに終日おこなうなり。) その宗旨は、 行じ得ないところを行じ、説き得ないところを説くというのである。 (その宗旨は、行不得底を行取し、説不得底を説取するなり。)                     雲居山弘覚大師は、この洞山の言葉を自由自在にして言う、 「説く時は行ずることがない、行ずる時は説くことがない」と。 (雲居山弘覚...

洞山悟本大師「行じ得ないところを説き、説き得ないところを行ずる」『第十六行持』16-16b

  〔『聞書』私訳〕                                               /「洞山悟本大師道」には「説取行不得底、行取説不得底 《行不得底を説取し、説不得底を行取す》 」とある。 《傍注:行不得底の説取であるから説不得底であり、 説不得底の行取であるから行不得底である。》                                                     この「不得」は「得」である。たとえば会・不会と使うようなことである。 また、過去心を説くときも、現在心を説くときも、未来心を説くときも、 みな不可得と説くようなのことである。                                     /「雲居山弘覚大師」の「道」には、「説時無行路、行時無説路」とある。諸法のとき実相の言葉はなく、実相のときは諸法の言葉はない。 諸法は諸法であると説くようなことである。                                        /「説」「行」の道理を大慈寰中 カンチュウ 禅師が始めて言うのではない。この理によって寰中は言うことができるいうような意味である。だから、「いまの道得は、寰中の自為道 ジイドウ にあらず」というのである。そうではあるが。また言うには言うところを返して「寰中の自為道なり」と言うのである。                〔『抄』私訳〕                                                洞山悟本大師の段、文の通りである。                        「説取行不得底、行取説不得底 《行不得底を説取し、説不得底を行取す》 」とある。       これは「説」と「行」を各別に説かれるのである。「説」のときは「行」は隠れ、「行」のときは「説」は隠れる。「一方を証するときは一方はくらし」の道理である。しかし、前に説いたことと違いはないのである。   「雲居山弘覚大師」の段、文の通りである。                     これもまた、「説」と「行」の理解の仕方は、前と違わない。つまり、「一生不離叢林」「洗頭到雪峰前」をもって「行持」と言うのである。         ...