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長慶:坐禅で坐蒲ザフ二十枚を破った『第十六行持下』16下-13a

 長慶の慧稜 エリョウ 和尚は、雪峰下の尊宿なり。 雪峰と玄沙とに往来して、参学すること僅 キン 二十九年なり。 その年月に蒲団 フトン 二十枚を坐破す。 いまの人の坐禅を愛するあるは、長慶をあげて慕古 モコ の勝躅 ショウチョク とす。 したふはおほし、およぶすくなし。 しかあるに、三十年の功夫むなしからず、 あるとき涼簾 リョウレン を巻起 ケンキ せしちなみに、忽然 コツネン として大悟 ダイゴ す。  三十来年かつて郷土にかへらず、親族にむかはず、 上下肩 ジョウゲケン と談笑せず、専一に功夫す。 師の行持は三十年なり。疑滞を疑滞とせること三十年、 さしおかざる利機といふべし、大根といふべし。 励志 レイシ の堅固なる、伝聞するは或従経巻 ワクジュウキョウカン なり。 ねがふべきをねがひ、はづべきをはぢとせん、長慶に相逢 ソウボウ すべきなり。 実を論ずれば、ただ道心なく、操行 ソウギョウ つたなきによりて、 いたづらに名利 ミョウリ には繋縛 ケバク せらるるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕   長慶の慧稜和尚は、雪峰門下の優れた有徳の僧である。 (長慶の慧稜和尚は、雪峰下の尊宿なり。 雪峰と玄沙の両師に法を尋ね、参禅学道することはほぼ二十九年であった。 (雪峰と玄沙とに往来して、参学すること僅二十九年なり。)( その長年月の坐禅で坐蒲 ザフ 二十枚を破った。 (その年月に蒲団二十枚を坐破す。) 今日、坐禅を愛する人があれば、 長慶の行持を挙げて慕うべき優れた先例とするのである。 (いまの人の坐禅を愛するあるは、長慶をあげて慕古の勝躅とす。) 慕う者は多いが、及ぶ者は少ない。 (したふはおほし、およぶすくなし。) このようであったから、三十年の坐禅弁道は無駄ではなく、 ある時僧堂の出入り口のすだれを巻き上げた時に、  忽然と 大悟したのである。 (しかあるに、三十年の功夫むなしからず、あるとき涼簾を巻起せしちなみに、忽然として大悟す。) 三十年間一度も故郷に帰らず、親族のところに赴かず、 僧堂の両隣の僧と談笑せず、ひたすら坐禅弁道に励んだ。 (三十来年かつて郷土にかへらず、親族にむかはず、上下肩と談笑せず、専一に功夫す。) 師の行持は三十年である。 (師の行持は三十年なり。)   疑問を疑問とすること三十年、その間行持を捨ておかなかった優れた...
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長慶:坐禅で坐蒲二十枚を破った『第十六行持下』16下-13b

  〔抄私訳〕 「長慶の 慧稜 和尚」の段、文の通り。 雪峰の門下である。 参学二十九年の間に「 蒲団二十枚を坐破す 」というのはこの和尚のことである。「坐禅」人がもっとも「 慕古」すべき「勝躅」である。 「涼簾を巻起せしちなみに、忽然として大悟す。三十来年かつて郷土にかへらず、親族にむかはず、上下肩と談笑せず、専一に功夫す」。 〔聞書私訳〕 /「長慶 慧稜 和尚」。 /「 疑滞を疑滞とせること三十年、さしおかず 」というのは、 「 疑滞」のあいだが「三十年 」である。うちおかざる行持である。                              合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村

玄沙:達磨は中国に来ず、二祖はインドに往かず『第十六行持下』16下-12-2a

  〔『正法眼蔵』原文〕  異日雪峰召曰、「備頭陀何不徧参去」。  《異日雪峰召 ヨ んで曰く、「備頭陀何ぞ徧参去 ヘンザンコ せざる」》  師曰く、「達磨不来東土、二祖不往西天」。  雪峰然之 ネンシス 。  つひに象骨 ゾウコツ 山にのぼるにおよんで、 すなはち師と同力締構 ドウリキテイコウ するに、玄徒臻萃 シンスイ せり。 師の入室咨決 ニッシツシケツ するに、晨昏 ジンコン にかはることなし。 諸方の玄学のなかに所未決あるは、かならず師にしたがひて請益 シンエキ するに、雪峰和尚いはく、備頭陀にとふべし。 師まさに仁にあたりて不讓にしてこれをつとむ。 拔群の行持にあらずよりは、恁麼の行履 アンリ あるべからず。 終日宴坐の行持、まれなる行持なり。 いたづらに声色 ショウシキ に馳騁 シテイ することはおほしといへども、 終日の宴坐はつとむる人まれなるなり。 いま晩学としては、のこりの光陰のすくなきことをおそりて、 終日宴坐、これをつとむべきなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕  また別の日に、〔玄沙が行脚に出ようと雪峰山を下ったとき、つまずいて生爪を剥がし、痛いッと叫ぶと同時に、「この痛みはどこから来る」のか、と悟った。そこでもう行脚に出る必要はないと悟り、雪峰山に戻ったときに、〕 雪峰が玄沙を呼んで言った、「備頭陀、なぜ行脚に行かないのか」。 (異日雪峰召んで曰く、「備頭陀何ぞ徧参せざる」。)  玄沙は言った「達磨は中国に来ず、二祖はインドに往かず」。  (師曰く、達磨不来東土、二祖不往西天。)    雪峰はこれをよしと認めた。  (雪峰然之。)  雪峰が、象骨山 (雪峰山) に住することになって、玄沙師と力を合わせて修行の道場を作り上げると、雲水たちがたくさん集まってきた。 (つひに象骨山にのぼるにおよんで、すなはち師と同力締構するに、玄徒臻萃せり。) その時も玄沙が雪峰の室に入って法の決択 ケッチャク( 道理を正しくえらびとる ) を尋ねるのは、朝夕に変わることはなかった。 (師の入室咨決するに、晨昏にかはることなし。) 諸方から集まってきた修行僧の中に決択がつかない者は、必ず師に教えを乞うのであるが、雪峰和尚は「備頭陀に尋ねなさい」と言った。 (諸方の玄学のなかに所未決あるは、かならず師にしたがひて請益するに、  雪峰和尚いはく、「備頭陀に...

玄沙:達磨は中国に来ず、二祖はインドに往かず『第十六行持下』16下-12-2b

  〔抄私訳〕 「福州玄砂宗一大師」の段、文の通りである。 「 法名は師備」。  雪峰と玄砂の問答で、委しくはこの草子に見える。  「師答、『 終に敢て人を誑かさず』 」とある。 これは、ただいたづらに、たぶらかすべきをたぶらかさないというのではない。 悪口なかれなどと『仏性』の巻にあったほどの道理である。 人を置いて、これをたぶらかさないというのではない。 又、「雪峰召んで曰く、「備頭陀何ぞ徧参去せざる」。 師曰く、「 達磨不来東土、 二祖不往西天」とある。 達磨は、実際シナに来られたので、今の答えは当たっていないと思われる。 二祖がインドに往かなかったことは、実に根拠があると思われるけれども、 祖師の皮肉骨髄はみなこの道理なのである。初めて聞くといって驚くべきではない。                              合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村

雪峰は玄沙の苦行を見て、頭陀と呼んで尊敬した『第十六行持下』16下-12-1

〔『正法眼蔵』原文〕  福州玄沙宗一 ゲンシャシュウイチ 大師、法名師備、福州閩県人也 ミンケンノヒトナリ 。 姓謝氏 セイハシャナリ 。 幼年より垂釣 シチョウ をこのむ。 小艇 ショウテイ を南台江にうかめて、もろもろの漁者になれきたる。 唐の咸通のはじめ、年甫 ネンポ 三十なり。 たちまちに出塵をねがふ。 すなはち釣舟をすてて、芙蓉山霊訓 レイクン 禅師に投じて落髪す。 豫章 ヨショウ 開元寺道玄律師に具足戒をうく。  布衲芒履、食纔接気、常終日宴坐。衆皆異之。 与雪峰義存、本法門昆仲、 而親近若師資。雪峰以其苦行、呼爲頭陀。  《布衲芒履 フノウモウリ なり、食 ジキ は纔 ワづ かに気を接す、常に終日宴坐す。   衆皆之を異なりとす、雪峰義存と、本 モト 法門の昆仲なり、而して親近 シンゴン すること   師資の若 ゴト し。雪峰其の苦行を以て、呼んで頭陀 ズダ と為す。》  一日雪峰問曰、「阿那箇是備頭陀」。  《一日、雪峰問ふて曰く、「阿那箇 アナコ か是れ備頭陀 ビズダ 」》  師対曰、「終不敢誑於人」。  《師対へて曰く、「終に敢て人を誑 タブラ かさず」》 〔『正法眼蔵』私訳〕  福州の玄沙宗一大師は、法名を師備と言い、福州閩県の人である。  (福州玄沙宗一大師、法名師備、福州閩県人也。) 俗姓は謝である。幼い頃から釣りを好んだ。 小舟を南台江に浮かべて、多くの漁夫に慣れ親しんで来た。 (姓謝氏。幼年より垂釣をこのむ。小艇を南台江にうかめて、もろもろの漁者になれきたる。) 唐の咸通五年、三十歳になって、にわかに出家を願った。 (唐の咸通のはじめ、年甫三十なり。たちまちに出塵をねがふ。) すぐに釣舟を捨て、芙蓉山の霊訓禅師に投じて髪を落とした。 (すなはち釣舟をすてて、芙蓉山霊訓禅師に投じて落髪す。) 予章開元寺の道玄律師について出家の具足戒を受けた。 (豫章開元寺道玄律師に具足戒をうく。) 粗末な木綿の衣を身に着けわら草履を履き、 食はやっと命を保つほどであり、 いつも終日坐禅した。 (布衲芒履なり、食は纔かに気を接す、常に終日宴坐す。) 修行僧たちはみな玄沙を稀に見る求道者と認めていた。 (衆皆之を異なりとす。) 雪峰義存とは、もと霊訓に参じた法兄弟であり、 その親しみ方は師弟のようであった。 (雪峰義存と、本法門の昆中なり...