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釈迦牟尼仏『正法眼蔵第十六行持』16-2-1a

〔『正法眼蔵』原文〕  慈父大師釈迦牟尼仏 シャカムニブツ 、十九歳の仏寿より、深山 シンザン に行持して、 三十歳の仏寿にいたりて、大地有情同時成道の行持あり。 八旬 ハチジュン の仏寿にいたるまで、なほ山林に行持し、精藍 ショウラン に行持す。 王宮 オウグウ にかへらず、国利を領せず。 布僧伽梨 フソウギャリ を衣持 エジ し、在世に一経 イッキョウ するに互換 ゴカン せず、 一盂 イチウ 在世に互換せず。 一時一日も独処することなし。 人天の閑供養 カンクヨウ を辞せ ず、外道の訕謗 センボウ を忍辱 ニンニク す。 おほよそ一化 イッケ は行持なり。浄衣乞食 ジョウエ コツジキ の仏儀、 しかしながら行持にあらずといふことなし。           〔『正法眼蔵』私訳〕                                            慈父であり偉大な師である釈迦牟尼仏は、十九歳の出家の時から、 深山で行持し、三十歳の仏寿に至って、大地有情同時成道 (大地と有情と同時に成道す) の行持があった。 (慈父大師釈迦牟尼仏、十九歳の仏寿より、深山に行持して、三十歳の仏寿にいたりて、大地有情同時成道の行持あり。) そして八十歳に至るまで、なお山林で行持され、精舎で行持された。 (八旬の仏寿にいたるまで、なほ山林に行持し、精藍に行持す。)                                        (いつも大衆と一緒におられた。) 王宮に帰らず、国王となって国を治めることもなかった。 (王宮にかへらず、国利を領せず。) 木綿のお袈裟をかけ、一生の間それを換えることなく、一つの応量器を一生の間換えることがなく、 一時一日たりとも、一人で過ごすことはなかった。 (布僧伽梨を衣持、在世に一経するに互換せず、一盂在世に互換せず、一時一日も独処することなし。)              人間界や天上界の 福報のためにする 供養を辞退せず、 外道の誹謗を耐え忍ばれた。 すべて御一代の教化は、行持の日々であった。 (おほよそ一化は行持なり。) お袈裟を身に着け食を乞う仏の行いは、 すべて全く行持でないものはなかったのである。 (人天の閑供養を辞せず、外道の訕謗を忍辱す。)浄衣乞食の仏儀、 しかしながら行持にあらずといふこ...
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釈迦牟尼仏『正法眼蔵第十六行持』16-2-1b

  〔『聞書』私訳〕                                               /「慈父大師釈迦牟尼仏」の段。 /「大地有情同時成道の行持あり」とは、「行持」は「成道」以前の時刻と思われ、「十九歳」以後、「三十歳」で「成道」する以前の行持を、「成道の行持」と言うことは、教行証を三つに立てない由来である。                           /「一時一日も独処することなし」とは、仏道では、「独処」して林間の寂静なところに居るべきと言うのと、今の義は大変矛盾していると思われる。 ただ、仏の本意は一切衆生を教化し済度しようと思われ、 一切衆生を教化してみな仏道に入らしめんということであるから、「成道」したなら一時たりとも「独処」するはずがないのである。 仏が「独処」する時があれば、衆生のための頼りとはならないのである。「独処」は縁覚 (独覚) 乗の用いる義である。                                       /「閑供養を辞せず」と言う、                           供養を辞退せず好むのは、近頃の僧に似ているが 、無益な供養を辞退しないのは貪らないという意味である。                                   〔『抄』私訳〕                                                「慈父大師釈迦牟尼仏」の段。 文の通りである。仏は「一時一日も独処することなし。 人天の閑供養を辞せず、外道の訕謗を忍辱す」。これは衆生教化を第一とするからである。                      合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                     ↓               ↓       にほんブログ村

一日の行持は諸仏の種子であり、諸仏の行持である『正法眼蔵第十六行持』16-1-4a

〔『正法眼蔵』原文〕 しかあればすなはち、一日の行持、 これ諸仏の種子 シュウジ なり、諸仏の行持なり。 この行持に諸仏見成せられ、行持せらるゝを、行持せざるは、 諸仏をいとひ、諸仏を供養せず、行持をいとひ、 諸仏と同生同死せず、同学同参せざるなり。 いまの花開葉落 ケカイ ヨウラク 、これ行持の現成なり。 磨鏡破鏡 マキョウ ハキョウ 、それ行持にあらざるなし。 このゆゑに、行持をさしおかんと擬 ギ するは、行持をのがれんとする邪心をかくさんがために、行持をさしおくも行持なるによりて、行持におもむかんとするは、なほこれ行持をこころざすににたれども、真父の家郷 カキョウ に宝財をなげすてて、さらに他国 跉 跰 レイヘイ の窮子 グウジ となる。 跉 跰のときの風水、たとひ身命 シンミョウ を喪失 ソウシツ せしめず といふとも、真父の宝財なげすつべきにあらず。 真父の法財なほ失誤 シツゴ するなり。 このゆゑに、行持はしばらくも懈惓 ケゲン なき法なり。  〔『正法眼蔵』私訳〕 そうであるから、 一日の行持は諸仏の種子であり、諸仏の行持なのである。 (しかあればすなはち、一日の行持、これ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり。)                       この行持によって諸仏が現成させられ、行持させられるのに、 行持しないのは、諸仏を厭い、諸仏を供養せず、行持を厭い、 諸仏と共に生死せず、諸仏と共に修行しないのである。 (この行持に諸仏見成せられ、行持せらるるを、行持せざるは、諸仏をいとひ、 諸仏を供養せず、行持をいとひ、諸仏と同生同死せず 、 同学同参せざるなり。)                                       今の花が開くのも葉が落ちるのも、行持の現成である。 (いまの花開葉落、これ行持の現成なり。) 鏡を磨くのも鏡が破れるのも、行持でないものはない。 (磨鏡破鏡、それ行持にあらざるなし。)        このために、行持をつとめまいとするのは、行持を逃れようとする邪心を隠すために、行持をつとめないことも一つの行持だと言って、行持に向かおうとするのは、やはりこれは行持を志しているようであるが、真の父である長者 (釈迦牟尼仏) の故郷に財宝を投げ捨てて、さらに他国をあてもなく彷徨 サマヨ い困窮した子となるような...

一日の行持は諸仏の種子であり、諸仏の行持である『正法眼蔵第十六行持』16-1-4b

  〔『聞書』私訳〕                             /「他国玲跰」とは、つまり、酔っていても衣の裏に宝珠があったように、そのままにしておくことも「行持」と言うのである。「真父の宝財なほ失誤するなり」とは、世間で思うような、失い誤ることではない。 「真父」の珠は、衣の裏に懸かっているのである。 「他国玲跰」の時刻は、三乗 ( 声聞乗、縁覚乗、菩薩乗 ) の教えを学んでいた時間である。             〔『抄』私訳〕 「いまの花開葉落、これ行持の現成なり。磨鏡破鏡 それ行持にあらざるなし」とある。 つまり、「行持」でないものは一つもないところをこのように言うのである。      「このゆゑに、行持をさしおかんと擬するは、行持をのがれんとする邪心をかくさんがために、行持をさしおくも行持なるによりて、行持におもむかんとするは、なほこれ行持をこゝろざすににたれども、真父の家郷に宝財をなげすてゝ、さらに他国玲跰の窮子となる (以下略) 」とある。                                  これは、いかなることも「行持」であるからには、ただ何もせずにじっとしているのも「行持」であるという間違った心を、多くの人が起こすのを、それは邪心であると戒められるのである。何もせずにじっとしているのも「行持」であるという考え (凡夫成仏を唱えた本覚法門の考え) を、しばらく、「なほこれ行持を心ざすににたれども」と言うのである。 「他国玲跰」の時節も、確かに行持の外ではないけれど、この時節は「真父の法財」をまだ得ていないのであり、今の喩えにもっとも相応しいのである。                       合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                     ↓               ↓       にほんブログ村