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大鑑慧能禅師(六祖):是れ什麼物ナニモノが恁麼来『第十七恁麼』完17-6a(正法眼蔵)

〔『正法眼蔵』原文〕                                                           曹谿山 ソウケイザン 大鑑禅師、ちなみに南嶽大慧禅師にしめすにいはく、 「是什麼物恁麼来 シシモブツインモライ 」。  この道は、恁麼はこれ不疑なり、不会 フエ なるがゆゑに、是什麼物 シシモブツ なるがゆゑに、万物 バンモツ まことにかならず什麼物なると参究すべし。 一物まことにかならず什麼物なると参究すべし。 什麼物は疑著 ギジャク にはあらざるなり、恁麼来なり。  正法眼蔵恁麼第十七    爾時 ニイジ 仁治三年壬寅 ミズノエトラ 三月二十日在于観音導利興聖悪林寺示衆    寛元元年癸卯 ミズノトウ 四月十四日書寫之侍者寮 懐弉 エジョウ 〔『正法眼蔵』私訳〕  曹谿山大鑑慧能禅師 (六祖) が、ある時南嶽懐譲 ナンガクエジョウ 禅師に示して言われた、「是れ什麼物 ナニモノ か 恁麼来」。  この言葉は、恁麼 (かくの如き今の様子) は疑う余地がないということである、 それは理解できるようなものではないからである。 これは何物であるから、 万物は実に必ず何物 (什麼物) であると深く学ぶべきである。 一つ一つの物は本当に必ず何物 (什麼物) であると深く学ぶべきである。 何物 (什麼物) は疑いを差し挟めるものではなく、それは恁麼来、つまり〔今こうやっていると、今の様子がこういう風に〕かくの如く現れ来ているのである。  正法眼蔵第十七 恁麼の巻    その時、1242年3月21日に、観音導利興聖宝林寺で大衆に示した。    1243年4月14日に、これを書写した。侍者 懐弉 (永平二祖)                                 合掌 大鑑慧能禅師(六祖):是れ什麼物が恁麼来『第十七恁麼』完17-6b(聞書抄) ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  
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大鑑慧能禅師(六祖):是れ什麼物が恁麼来『第十七恁麼』完17-6b(聞書抄)

  〔抄原文〕 「曹谿山大鑑禅師、ちなみに南嶽大慧禅師にしめすにいはく、是什麼物恁麼来。この道は、恁麼はこれ不疑なり、不会 フエ なるがゆゑに、是什麼物なるがゆゑに、万物まことにかならず什麼物なると参究すべし。」 是は六祖与南嶽問答詞なり。 此是什麼物恁麼来の詞、恁麼の草子の潤色 ジュンショク に尤被引出、たよりありぬべし。 此六祖の御詞の是什麼物恁麼来を不審の詞とのみ思習はしたり、爾に非。 只法の道理を被示なり。 一切の諸法只是什麼物恁麼来の道理の外不可有るなり。 故恁麼はこれ不疑なり、不会なりとはあるなり。 万法の理、是什麼物なるゆゑに、万物まことに必ず是什麼物なると参究とはあるなり。 〔抄私訳〕 「曹谿山大鑑禅師、ちなみに南嶽大慧禅師にしめすにいはく、「是什麼物恁麼来」。この道は、恁麼はこれ不疑なり、不会なるがゆゑに、是什麼物なるがゆゑに、万物まことにかならず什麼物なると参究すべし」とある。   これは「六祖」と「南嶽」の問答の言葉である。 この「是れ什麼物か恁麼来」という言葉は、『恁麼』の巻の潤色に特に引用され、 重要な拠り所となっている。 この「六祖」のお言葉の「是れ什麼物か恁麼来」を不可解な言葉とのみ思いがちだが、そうではない。 ただ仏法の道理を示しているのである。 一切のものはただ「是れ什麼物か恁麼来」の道理の外には存在しないから、 「恁麼はこれ不疑なり、不会なり」とあるのである。 あらゆるものの理は、「是什麼物なるがゆゑに、万物まことにかならず什麼物なると参究すべし」とあるのである。 〔聞書原文〕 /六祖段。 是什麼物恁麼来、 この道は恁麼これ不疑なり、不会なるがゆゑにとあるときに、恁麼来と不審したるにてなし。 かみに恁麼して抽枝 チュウシ なりとも、十方仏土中唯有一乗法なり。 たとひ恁麼して葉落すとも、是法住法位世間相常住なりとあり。 顕然の道理なり。 是什麼物とあらむ次の詞には説似一物即不中と可有かと覚れど、是什麼物なるがゆゑに、万物まことに必ず什麼物なると可参究。 一物まことに必什麼物とあれば、尤什麼物は疑著にはあらざる、恁麼来なりと云御詞、そのいわれのがれがたし。 〔聞書私訳〕 /「六祖」の段。 「是什麼物恁麼来。この道は恁麼これ不疑なり、不会なるがゆゑ」にとあるときに、恁麼来と不審したるにてなし。かみに恁麼して抽枝 チュウシ なり...

恁麼も不恁麼もすべて不得である『第十七恁麼』17-5-2a(正法眼蔵)

〔『正法眼蔵』原文〕  大師いはく、 「恁麼也不得 インモマタフトク 、不恁麼也不得、恁麼不恁麼総不得、汝作麼生 《恁麼も不得、不恁麼も不得なり、恁麼不恁麼総 ソウ に不得なり、汝作麼生 ソモサン 》」。  これすなはち大師の薬山のためにする道なり。 まことにそれ「恁麼不恁麼、総不得」なるゆゑに、 恁麼不得なり、不恁麼不得なり。 恁麼は恁麼をいふなり。 有限の道用 ドウヨウ にあらず、無限の道用にあらず、 恁麼は不得に参学すべし、不得は恁麼に問取 モンシュ すべし。 這箇 シャコ の恁麼および不得、ひとへに仏量のみにかゝはれるにあらざるなり、 会不得なり、悟不得なり。 〔『正法眼蔵』私訳〕  大師は言った、 「恁麼 インモ(かくの如くある今の様子) もまた不得 フトク(すでにあり、これから得るというものではない) であり、 不恁麼 フインモ(かくの如くある今の様子でないこと) もまた不得である。 恁麼も不恁麼もすべて不得である。 そなたはさあどうだ」。  これこそまさに大師が薬山のために示した教えである。 実に「恁麼も不恁麼もすべて不得」であるから、 恁麼も不得であり、不恁麼も不得である。 恁麼は恁麼そのものを指すのである。 それは有限の働きでもなく、無限の働きでもない。 だから、恁麼は不得に深く学ぶべきであり、 不得は恁麼に問うべきなのである。 この恁麼と不得は、むやみに仏で量れば量れるというものではない、 理解も不得であり、悟も不得 (すでにあり、これから得るというものではない) なのである。                           合掌 恁麼も不恁麼もすべて不得である『第十七恁麼』17-5-2b(聞書抄) ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  

恁麼も不恁麼もすべて不得である『第十七恁麼』17-5-2b(聞書抄)

  〔抄原文〕 「大師いはく、「恁麼也不得、不恁麼也不得、恁麼不恁麼総不得、汝作麼生 《恁麼も不得、不恁麼も不得なり、恁麼不恁麼総に不得なり。汝作麼生》」。 これすなはち大師の薬山のためにする道なり。 まことにそれ「恁麼不恁麼総不得」なるゆゑに、恁麼不得なり、不恁麼不得なり。」   この詞は難心得。何とあるべしとも不聞。但この詞は一向以不得道理法を被述歟。凡仏法の道理得不得にかゝはるべからざるゆゑに。或時は以得道理を仏法を説き、或時は以不得理法を示す。今は不得の道理にて大師薬山に被示なり。恁麼の道理尤不得なるべし。汝作麼生の詞又不得の道理に不可違歟。尽諸法皆不得の道理なるべし。 「恁麼は恁麼をいふなり。有限 ウゲン の道用にあらず、無限の道用にあらず、 恁麼は不得に参学 すべし、不得は恁麼に問取すべし。」   何事を指して恁麼と云べきにあらず。はじめに無上菩提暫是を恁麼と云とあれば、無上菩 提を恁麼として云も、猶能所あるやうに聞る所を、恁麼は恁麼を云とあれば、総まじる物なく恁麼の全体なる道理聞るなり。此上は有限無限の沙汰に不可及。恁麼と不得のあはひ親切なる道理が恁麼は不得に参学すべし、不得は恁麼に問取すべしとはあるなり。此恁麼に 参学すべしとある参学の姿恁麼なるなり。 「這箇恁麼および不得、ひとへに仏量のみにかゝはれるにあらざるなり、 会不得なり、悟不得なり。」   此恁麼と不得とのあはひ仏量にかゝはれず、会不得悟不得なりとは、此道理が仏量にかゝはらず、又恁麼と不得と許にかぎるべからず。会不得も悟不得もあるべし。万物無尽に不得 の道理に不得あるべしと云心地なり。 〔抄私訳〕  「大師は言った、「恁麼も不得、不恁麼も不得なり、恁麼も不恁麼も総に不得なり。汝作麼生」。 これこそまさに大師が薬山のために示した言葉である。 実に大師が言う通り「恁麼も不恁麼も総に不得」であるから、 「恁麼も不得」であり、「不恁麼も不得」なのである」とある。  この言葉は理解しがたい。どうあるべきかも分からない。 ただこの言葉は、ひたすら「不得」という道理の法 (教え) を述べているのである。 およそ仏法の道理は、「得」「不得」に関わらないからである。 ある時は「得」の道理で仏法を説き、ある時は「不得」の理法を示す。 今は「不得」の道理で「大師」が「薬山」に示しているのである。 「恁...