〔『正法眼蔵』原文〕 道吾道の「 你 作麼生会 ニソモサンエ 」は、いはゆる「我会也」 たとひ我会也なるを罣礙するにあらざれども、 道吾に「 你 作麼生会」の道取あり。 すでにこれ我会 ガエ 你 会 ニエ なり、眼会手会 ゲンエシュエ なからんや。 現成の会なるか、未現成の会なるか。 「我会也」の会を我 ガ なりとすとも、 「 你 作麼生会」に「 你」 あることを功夫ならしむべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕 道吾が言う「 你 作麼生会 (汝はどう理解したか) 」は、 いわゆる「我会也 (我れは理解した) 」はたとえ「我会也」を妨げないとしても、 道吾に「 你 作麼生会」という言葉があるのである。 すでにこれは、「我会 你 会 (我れも理解した、汝も理 解した ) 」ということであり、 「眼会 手 会 (眼も理解した、手も理解した) 」ということもあろう。 また「現成」の理解であるのか、「未現成」の理解であるのか。 〔といっても、現れているか現れていないかということではなく、 「手眼」の上でしばらく「現成」「未現成」の言葉を仮に作ったのであり、 ただこれも共に「手眼」なのである。〕 「我会也」の会を我であるとしても、 「 你 作麼生会」の会が「 汝 」であることを、 工夫参究しなければならない。 眼も理解した、手も理解したということもあろう 『第十八観音』18-5-3b(聞書抄) 合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村
〔『抄』原文〕 「道吾道の 你 作麼生会は、いはゆる我会也、たとひ我会也なるを罣礙するにあらざれども、道吾に 你 作麼生会の道取あり。」 是は、「我会也」は「我会也」にて、「我会也」の道理の外にあらざれども、又しばらく「道吾に 你 作麼生会の道取」などかなからむと云心なり。仏性と云ふ道理許にて、蚯蚓と云「道取」などかなからむ云はむ程の心なるべし。 「すでにこれ我会 ガエ 你 会 ニエ なり、眼会手会 ゲンエシュエ なからんや。現成の会なるか、未現成の会なるか。」 是は、「雲巖」の「我会也」と「道吾」の「 你 作麼生会」との二を取合て、「我会 你 会」とは云なり。此道理なるべくば、「我」も「手眼」、「 你 」も「手眼」、「会」も「手眼」ならば、「眼会 手 会」と云詞もありぬべしと被釈なり。 又「現成」「未現成」とて現不現にはあらず、「手眼」の上に「現前」「未現前」の詞をしばらくつくるなり。 只是も共に「手眼」なるべし。 「我会也の会を我 ガ なりとすとも、 你 作麼生会に 你 あることを功夫ならしむべし。」 「我」を置て物を「会す」と云へば、猶能所各別あるやうに聞ゆ。「会」を「我」なりと云へば、能所ははなるゝなり。 「 你 作麼生会」も如前「会」を「我」と云つるが如く「会」を「 你 」と云事を「功夫」すべしと云なり。 〔『抄』訳文〕 「道吾道の 你 作麼生会は、いはゆる我会也、たとひ我会也なるを罣礙するにあらざれども、道吾に 你 作麼生会の道取あり」とある。 これは、「我れ会せり (我れは理解した) 」は「我れ会せり」であり、 「我れ会せり」の道理の外にはないのであるが、またしばらく「道吾に 你 作麼生会 (汝はどう理解したか) の道取」がどうしてないことがあろうかという意である。 仏性という道理ばかりで、蚯蚓 (みみず) という言葉がどうしてないことがあろうかというほどの意である。 「すでにこれ我会 ガエ 你 会 ニエ なり、眼会手会 ゲンエシュエ なからんや。現成の会なるか、 未現成の会なるか」とある。 これは、「雲巖」の「我れ会せり」と「道吾」の「 你 作麼生会」の二つを合わせて、「我会 你 会 (我れも理解した、汝も理 解した ) 」と言うのである。 この道理であれば、「我」も「手眼」、「 你 」も「手眼」、「会」も「...