〔『正法眼蔵』原文〕 しかあればすなはち、一日の行持、 これ諸仏の種子 シュウジ なり、諸仏の行持なり。 この行持に諸仏見成せられ、行持せらるゝを、行持せざるは、 諸仏をいとひ、諸仏を供養せず、行持をいとひ、 諸仏と同生同死せず、同学同参せざるなり。 いまの花開葉落 ケカイ ヨウラク 、これ行持の現成なり。 磨鏡破鏡 マキョウ ハキョウ 、それ行持にあらざるなし。 このゆゑに、行持をさしおかんと擬 ギ するは、行持をのがれんとする邪心をかくさんがために、行持をさしおくも行持なるによりて、行持におもむかんとするは、なほこれ行持をこころざすににたれども、真父の家郷 カキョウ に宝財をなげすてて、さらに他国 跉 跰 レイヘイ の窮子 グウジ となる。 跉 跰のときの風水、たとひ身命 シンミョウ を喪失 ソウシツ せしめず といふとも、真父の宝財なげすつべきにあらず。 真父の法財なほ失誤 シツゴ するなり。 このゆゑに、行持はしばらくも懈惓 ケゲン なき法なり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 そうであるから、 一日の行持は諸仏の種子であり、諸仏の行持なのである。 (しかあればすなはち、一日の行持、これ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり。) この行持によって諸仏が現成させられ、行持させられるのに、 行持しないのは、諸仏を厭い、諸仏を供養せず、行持を厭い、 諸仏と共に生死せず、諸仏と共に修行しないのである。 (この行持に諸仏見成せられ、行持せらるるを、行持せざるは、諸仏をいとひ、 諸仏を供養せず、行持をいとひ、諸仏と同生同死せず 、 同学同参せざるなり。) 今の花が開くのも葉が落ちるのも、行持の現成である。 (いまの花開葉落、これ行持の現成なり。) 鏡を磨くのも鏡が破れるのも、行持でないものはない。 (磨鏡破鏡、それ行持にあらざるなし。) このために、行持をつとめまいとするのは、行持を逃れようとする邪心を隠すために、行持をつとめないことも一つの行持だと言って、行持に向かおうとするのは、やはりこれは行持を志しているようであるが、真の父である長者 (釈迦牟尼仏) の故郷に財宝を投げ捨てて、さらに他国をあてもなく彷徨 サマヨ い困窮した子となるような...
〔『聞書』私訳〕 /「他国玲跰」とは、つまり、酔っていても衣の裏に宝珠があったように、そのままにしておくことも「行持」と言うのである。「真父の宝財なほ失誤するなり」とは、世間で思うような、失い誤ることではない。 「真父」の珠は、衣の裏に懸かっているのである。 「他国玲跰」の時刻は、三乗 ( 声聞乗、縁覚乗、菩薩乗 ) の教えを学んでいた時間である。 〔『抄』私訳〕 「いまの花開葉落、これ行持の現成なり。磨鏡破鏡 それ行持にあらざるなし」とある。 つまり、「行持」でないものは一つもないところをこのように言うのである。 「このゆゑに、行持をさしおかんと擬するは、行持をのがれんとする邪心をかくさんがために、行持をさしおくも行持なるによりて、行持におもむかんとするは、なほこれ行持をこゝろざすににたれども、真父の家郷に宝財をなげすてゝ、さらに他国玲跰の窮子となる (以下略) 」とある。 これは、いかなることも「行持」であるからには、ただ何もせずにじっとしているのも「行持」であるという間違った心を、多くの人が起こすのを、それは邪心であると戒められるのである。何もせずにじっとしているのも「行持」であるという考え (凡夫成仏を唱えた本覚法門の考え) を、しばらく、「なほこれ行持を心ざすににたれども」と言うのである。 「他国玲跰」の時節も、確かに行持の外ではないけれど、この時節は「真父の法財」をまだ得ていないのであり、今の喩えにもっとも相応しいのである。 合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村