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恁麼の人であるから、菩提心が発るのである『第十七恁麼』17-1-3a(正法眼蔵)

  第一段③ 〔『正法眼蔵』原文〕  身すでにわたくしにあらず、 いのちは光陰にうつされて、しばらくもとゞめがたし。 紅顔いづくへかさりにし、たづねんとするに蹤跡 ショウセキ なし。 つらつら観ずるところに、往事のふたゝびおふべからざるおほし。 赤心もとゞまらず、片々として往来す。 たとひまことありといふとも、 吾我 ゴガ のほとりにとゞこほるものにあらず。 恁麼なるに、無端に発心するものあり。 この心おこるより、向来 キョウライ もてあそぶところをなげすてゝ、 所未聞 ショミモン をきかんとねがひ、所未証 ショミショウ を証せんともとむる、 ひとへにわたくしの所為にあらず。 しるべし、恁麼人なるゆゑにしかあるなり。 なにをもつてか恁麼人にてありとしる、 すなはち恁麼事をえんとおもふによりて恁麼人なりとしるなり。 すでに恁麼人の面目あり、いまの恁麼事をうれふべからず。 うれふるもこれ恁麼事なるがゆゑに、うれへにあらざるなり。 〔『正法眼蔵』現代語訳〕  この身はすでに私ではなく、命は時の流れに遷されて、 しばらくも留めておくことはできない。 紅顔はどこへ去ったのであろうか、尋ねてみようとしても跡形がない。 よく観察してみると、過去のことに再び会おうとしても多くは会うことはできない。 これだけは真実であると思っているまことの心も留まることなく、 その時その時で行ったり来たりする。 たとえ真実があるといっても、自分の考え方に停滞するものではない。 このようであるが、いつということもなく発心するものがある。 この心が発ると、これまで弄んできたことを投げ捨てて、まだ聞いたことがない真理を聞こうと願い、まだ悟っていないことを悟ろうと求めるのである。 こうしたことはまったく自分がなすところではないのである。 知らなければならない、恁麼の人であるから、菩提心が発るのである。 何によって、恁麼の人であると分かるのか。 それは、恁麼の事を得ようと思うから、恁麼の人であると分かるのである。 すでに恁麼の人の面目がある、今の恁麼の事を愁える必要はない。 愁えるとしても、恁麼の事であるから、愁いではないのである。 恁麼の人であるから、菩提心が発るのである『第十七恁麼』17-1-3b(抄)                        合掌 ランキングに参加中です。よろしければク...
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恁麼の人であるから、菩提心が発るのである『第十七恁麼』17-1-3b(抄)

  〔『抄』原文〕 「身すでにわたくしにあらず、命は光陰にうつされて、暫もとゞめがたし。」   此詞は、無常を観ずる小乗の詞に似たり。是は、生老病死の姿、我と云べきにあらず。老 も病も死も、皆「私」の進退 シンタイ にあらず、時節に被転もてゆく道理を、凡夫の上、世間の 法猶如此、況仏法の上に我を不可立と云道理を云はむ料なり。能々可心得事なり。 「つらつら観ずる所に、往 ワウ 事の二たびあふへからざる多し。赤心もとゞまらず、片々として往来す。たとひまことありと云ども、吾我のほとりにとゞこほるものにはあらず。」   「片々として往来す」とは、「光陰にうつさる」ゝ事を云歟。「まことありと云ふとも、 吾我の」見にとゞまるべからずと云なり。 「無端に発心するものあり。この心おこるより、向来もてあそぶ所をなげすてゝ、所未聞をきかむとねがひ、所未証を証せむともとむる。ひとゑにわたくしの所為にあらず。しるべし、恁麼人なるゆゑにしかあるなり。」   「無端に発心する物あり」とは、「発心」と云は、いかにも物一を縁として「発心」する なり。此「発心」非縁起。「尽界」を指て「発心」と談ず。全於身彼が「発心する」と  は不云なり。ゆへに、「無端に発心する」とは云はるゝなり。              「此心おこるより、向来もてあそぶ所をなげすつ」とは、仮令三乗の教を説く学者、小乗権門の族、乃至世俗塵労に心をそむる人 、 此如「心」を「なげすてゝ、所未 聞をきかむ、所未証を証せむともとむる」人の事を如此云なり。所詮、法を聞、法を「証せむともとむる」「心」あらむ人は「私の所為にあらず」。是併 シカシナガラ 、宿善開発する「恁麼人なり」と云心なり。尤憑敷 タノモシキ 事なり。已下如文。 〔『抄』現代語訳〕 「身すでにわたくしにあらず、命は光陰にうつされて、暫もとゞめがたし」とある。   この言葉は無常を観じる小乗の言葉のようであるが、これは生老病死する姿を、「我」と言うのではない。生も老も病も死もみな「私」の進退ではなく、時節に転ぜられていく道理を、凡夫の上で、世間の法はやはりこのように言うのである。言うまでもなく、仏法の上では「我」を立ててはならないという道理 (無我を観ぜよ) を言うだけである。よく理解すべきことである。 「つらつら観ずる所に、往 ワウ 事の二たびあふへからざる多し...

無上の悟りに直に趣くことを恁麼インモ(かくの如し)と言う『第十七恁麼』17-1-2a(正法眼蔵)

〔正法眼蔵〕  いはゆるは、「恁麼事をえんとおもはば、すべからくこれ恁麼人なるべし。 すでにこれ恁麼人なり、なんぞ恁麼事をうれへん」。 この宗旨は、直趣無上菩提 ジキシュムジョウボダイ 、しばらくこれを恁麼といふ。 この無上菩提のていたらくは、すなはち尽十方界も無上菩提の少許 ショウコ なり。 さらに菩提の尽界よりもあまるべし。 われらもかの尽十方界の中にあらゆる調度なり。 なにによりてか恁麼あるとしる。 いはゆる身心 シンジン ともに尽界にあらはれて、 われにあらざるゆゑにしかありとしるなり。 〔正法眼蔵訳〕  言うところは、「恁麼 インモ の事を得ようと思うなら、当然恁麼の人であるべきである。 もともとすべての人は恁麼の人である、どうして恁麼の事が得られるかどうか心配することがあろうか。」ということである。 この宗旨は、この直趣無上菩提 (無上の悟りに直に趣くこと) を、 しばらくこれを恁麼 インモ(かくの如し) と言うのである。 この無上菩提のありようは、すなわち尽十方界 (全ての十方の世界) も 無上菩提 (無上の悟り) の少しばかりである。 さらに言えば、菩提 (悟り) は尽十方界よりも大きいのである。 我々もかの尽十方界の中にある調度である。 どうしてこのようであると知ったのか。 いわゆる身心はともに尽十方界に現れて (尽十方界はこの身心に現れて) 、 我のものではないから、そうであると知るのである。 無上の悟りに直に趣くことを恁麼インモ(かくの如し)と言う『第十七恁麼』17-1-1b(聞書抄)                         合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村

無上の悟りに直に趣くことを恁麼インモ(かくの如し)と言う『第十七恁麼』17-1-2b(聞書抄)

  〔抄原文〕 「コノ無上菩提ノ為体ハ、スナハチ尽十方界モ無上菩提ノ少許 コ ナリ。サラニ菩提ノ尽界ヨリモアマルベシ。我等モ彼尽十方界ノ中ニアラユル調度ナリ。ナニゝヨリテカ恁麼アルトシル。」   無上菩提ト尽十方界ト相違法ニ非ズ、尽十方界ヲシバラク無上菩提ト云歟 カ 。少許ナリトハ云ハルゝナリ。尽十方界ヲ無上菩提ト云ヒ、無上菩提ヲ尽十方界ト云ヲ、シバラクアマルトモ不足トモ仕ナリ。今、「我等モ彼尽十方界ノ中ニアラユル調度ナリ」ト云、我等ハ恁麼ノ我等ナリ、吾我ニ非ラザル我、已下文ニ見タリ。 〔抄現代語訳〕 「この無上菩提の為体は、すなはち尽十方界も無上菩提の少許 コ なり。さらに菩提の尽界よりもあまるべし。我等も彼尽十方界の中にあらゆる調度なり。なにゝよりてか恁麼あるとしる。」とある。   「無上菩提」と「尽十方界」は互いに異なるものではない。「尽十方界」をしばらく「無上菩提」と言うのである。そのことを「少許なり」と言われるのである。「尽十方界」を「無上菩提」と言い、「無上菩提」を「尽十方界」と言うことを、しばらく「あまる」とか足りないとか言うのである。今、「われらもかの尽十方界の中にあらゆる調度なり」というのは、「われら」は「恁麼」の「われら」であり、自我の我 ワレ ではないということを以下の文で示される。 〔聞書原文〕 /「欲得恁麼事」云フ「欲得」ハ思慮念度ニハアラズ、「直趣無上菩提」ノ「欲得」ト心得ベシ。「尽十方界」モ「無上菩提ノ少許 〈スコシバカリ〉 ナリ」ト云、「菩提ノ尽界ヨリモアマルベシ」ト云フ。 「我等モカノ尽十方界ノ中ニアラユル調度」ト云フ。「身心共ニ尽界ニアラハレテ、我ニアラザルユヱニ」トアレバ、「身心」「尽界」ナルベシ、「尽界」又「無上菩提」ナルベシ。「少許」ト云ヒ、「調度」ナムト云ヘバ、ソノ物ノ内ニハラマレタル「調度」トモ、「少許」トテ、聊 イササカ ナル物一ヲサスニテハナシ。諸法実相ト云フ実相ハ、真如ナリ、仏性ナリ。十如是ヲアゲテハ、唯仏与仏トスデニアラハル。ハジメ如是性一ヲアグルトキ、十アルベキモノゝ、マヅ一トハ心得マジ。如是性ニモレタル諸法有ル可カラズ、相体力作因縁等ノ九ノコリタリトイフベカラズ。「少許」トイフモ、「調度」トイフモ、タトヘバコレ程ナリ。仏ノ「調度」ハ、法々ノ「少許」ハ仏ナムトイハムガ如シ。 /此「恁麼事」ハ、仏性沙汰ノ...

恁麼事を得んと欲せば、須らく是れ恁麼人なるべし『第十七恁麼』17-1-1a

 『 正法眼蔵第十七恁麼』  第一段①   〔『正法眼蔵』原文〕  雲居山 ウンゴサン 弘覚 グカク 大師は、洞山 トウザン の嫡子 テキシ なり。 釈迦牟尼仏より三十九世の法孫なり、洞山宗の嫡祖 テキソ なり。  一日示衆云、 「欲得恁麼事 インモジ 、須是 シュゼ 恁麼人 インモニン 。既是 キゼ 恁麼人 インモニン 、何愁 ガシュウ 恁麼事」。 〈一日 イチニチ 衆 シュ に示して云く、 「恁麼事 インモジ を得んと欲せば、須く是れ恁麼人なるべし。 既に是れ恁麼人なり、何ぞ恁麼事を愁 ウレ えん」。〉 〔『正法眼蔵』私訳〕    雲居山の弘覚大師 (雲居道膺ウンゴドウヨウ禅師) は、洞山 トウザン の 嗣法の弟子 である。 釈迦牟尼仏から数えて三十九代目の法孫であり、洞山禅の正系 セイケイ の祖師である 。  ある日、大衆に示して言った、 「恁麼の事を得ようと思うなら、 すべからく恁麼の人でなければならない。 もとよりすべての人は恁麼の人である、 恁麼の事が得られるかどうか心配することは要らない」。 〔注:〔 〕内は補足 ( )内は注釈〕 恁麼事を得んと欲せば、須らく是れ恁麼人なるべし 『聞書抄』17-1-1b                         合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村