〔『正法眼蔵』原文〕 雲巌道の「某甲祇如是 ボウコウシニョゼ 、師兄作麼生 スヒンソモサン 」は、 道吾のいふ道得八九成の道を道取せしむるがゆゑに、 「祇如是」と道取するなり。 これ不留朕迹 フリュウチンシャク なりといへども、 すなはち臂長衫袖短 ヒチョウサンシュウタン 《臂長くして衫の袖短し》 なり。 わが適来 テキライ の道を道未尽ながらさしおくを、 「某甲祇如是」といふにはあらず。 〔『正法眼蔵』読解ーー 『聞書抄』を手掛かりに 〕 道吾の「八九成に言い得たり」という言葉を 「それがしもこのように解したが、 貴公はどうか」 と雲巖が言ったのは、 道吾に「八九成に言い得たり」と言わせたから、 「それがしもこのように解した」と言ったのである。 〔それがしとは雲巖のことだと解してはいけない。 師兄(貴公)を自己の外のものだと解してはいけない。〕 これは雲巌なのか道吾なのか、いずれにも留まらない( 不留朕迹 )けれども、 別の言い方をすれば、臂は長くて袖は短い、つまり、 ただ一つのものであるがしばらく二つに言われる道理から 、 しばらく雲巌と道吾を呼び出されたのである。 〔 不留朕迹(いずれにも留まらない)は古い言葉であり、 仏性とミミズも 不留朕迹であり、どんな二つの言葉もあてはまるのである。 臂長衫袖短 《臂長くして衫の袖短し》とは、ただ一つのものであるが、 しばらく二つに言われることもある道理を言うのである。 〕 自分の先程からの言葉を十分に言い尽くせないままにしておくことを、 「自分の考えはこのようであるが、 人はどう解しているか」 と言ったのではないのである 仏性とミミズもいずれにも留まらないものである『第十八観音』18-6-3b(聞書抄) 合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村
〔『抄』原文〕 「雲巌道の某甲祇如是、師兄作麼生は、道吾のいふ道得八九成の道を道取せしむるがゆゑに、祇 タダ 如是と道取するなり。これ不留朕迹 フリュウチンシャク なりといへども、 すなはち臂長衫袖短 ヒヂナガクシテサンノソデミジカキ なり。」 是は、「雲巌道の某甲祇如是」は「道吾」の「道得八九成の道」 を我も如此心得たりと云なり。 人の言葉を非不審。 「不留朕迹」とは、「雲巖」なるべきか、「道吾」なるべきか、 彼にも是にもとゞまらぬ所を「不留朕迹」と云なり。 是は古き詞なり。 仏性与蚯蚓も「不留朕迹」にあたるべし。 何詞も「不留朕迹」にあたるべし。 「臂長衫袖短」とは只一物なれども、 又しばらく二と云はるゝ事もある道理にいふなり。 たとへば無差別ことはりなれども、 暫「雲巖」与「道吾」よびいださるゝ程の事なり。 此心地を「臂長衫袖短」とは云なり。 「わが適来 シライ の道を道未尽ながらさしおくを、某甲祇如是といふにはあらず。」 如文。 所詮「雲巖」わが所存如此、人はいかに心得たるぞと云にはあらぬなり。 〔『抄』訳文〕 「雲巌道の某甲祇如是、師兄作麼生は、道吾のいふ道得八九成の道を道取せしむるがゆゑに、祇如是と道取するなり。これ不留朕迹なりといへども、すなはち臂長衫袖短 ヒヂナガクシテサンノソデミジカシ なり」とある。 これは、「雲巌道の某甲祇如是」とは「道吾」の「道得八九成の道 (八九成に言い得たりという言葉) 」を我もこのように解したと言うのである。 人の言葉を疑問に思ったのではないのである。 「不留朕迹 (跡を留めない) 」とは、「雲巌」なのか「道吾」なのか、 いずれにも留まらないところを「不留朕迹」と言うのである。 これは古い言葉であり、仏性と蚯蚓 (ミミズ) も「不留朕迹」にあたる。 どんな言葉もあたるのである。 「臂長衫袖短 (ひじは長く袖は短い) 」とは、ただ一つの物であるが、 またしばらく二つに言われることもある道理を言うのである。 たとえば、差別の無い道理 であるが、 しばらく「雲巌」と「道吾」を呼び出されたほどのことである。 この意味合いを「臂長衫袖短」と言うのである。 「わが適来 シライ の道を道未尽ながらさしおくを、某甲祇如是といふにはあらず」 とある。 文の通りである。つまるところ、雲巌が自...