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洞山悟本大師「行じ得ないところを説き、説き得ないところを行ずる」『第十六行持』16-16a 

  〔『正法眼蔵』原文〕                                              洞山悟本大師 トウザン ゴホン ダイシ 道 イハク 、 「説取 セッシュ 行不得底 ギョウ フトクテイ 、行取 ギョウシュ 説不得底 セツ フトクテイ 《行不得底を説取し、説不得底を行取す》 」。  これ高祖の道 ドウ なり。その宗旨は、行は説に通ずるみちをあきらめ、説の行に通ずるみちあり。しかあれば、終日とくところに終日おこなふなり。その宗旨は、行不得底を行取し、説不得底を説取するなり。  雲居山弘覚大師 ウンゴザン コウガク ダイシ 、この道を七通八達 シッツウハッタツ するにいはく、「説時無行路 セツジムギョウロ 、行時無説路 ギョウジムセツロ 」。  この道得は、行説 ギョウセツ なきにあらず、その説時は、一生不離叢林なり。その行時は、洗頭到雪峰前 セントウトウ セッポウゼン なり。説時無行路、行時無説路、 さしおくべからず、みだらざるべし。                                             〔『正法眼蔵』私訳〕                                            洞山悟本大師は言う、 「行じ得ないところを説き、説き得ないところを行ずる」。 (洞山悟本大師道、「説取行不得底、行取説不得底 《行不得底を説取し、説不得底を行取す》 」。)            これは洞山高祖 トウザンコウソ の言葉である。 (これ高祖の道なり。)                 その宗旨は、 行は説に通じる道を明らかにし、説が行に通じる道があるというのである。 (その宗旨は、行は説に通ずるみちをあきらめ、説の行に通ずるみちあり。) そうであるから、一日中説くところに一日中行ずることがあるのである。 (しかあれば、終日とくところに終日おこなうなり。) その宗旨は、 行じ得ないところを行じ、説き得ないところを説くというのである。 (その宗旨は、行不得底を行取し、説不得底を説取するなり。)                     雲居山弘覚大師は、この洞山の言葉を自由自在にして言う、 「説く時は行ずることがない、行ずる時は説くことがない」と。 (雲居山弘覚...
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洞山悟本大師「行じ得ないところを説き、説き得ないところを行ずる」『第十六行持』16-16b

  〔『聞書』私訳〕                                               /「洞山悟本大師道」には「説取行不得底、行取説不得底 《行不得底を説取し、説不得底を行取す》 」とある。 《傍注:行不得底の説取であるから説不得底であり、 説不得底の行取であるから行不得底である。》                                                     この「不得」は「得」である。たとえば会・不会と使うようなことである。 また、過去心を説くときも、現在心を説くときも、未来心を説くときも、 みな不可得と説くようなのことである。                                     /「雲居山弘覚大師」の「道」には、「説時無行路、行時無説路」とある。諸法のとき実相の言葉はなく、実相のときは諸法の言葉はない。 諸法は諸法であると説くようなことである。                                        /「説」「行」の道理を大慈寰中 カンチュウ 禅師が始めて言うのではない。この理によって寰中は言うことができるいうような意味である。だから、「いまの道得は、寰中の自為道 ジイドウ にあらず」というのである。そうではあるが。また言うには言うところを返して「寰中の自為道なり」と言うのである。                〔『抄』私訳〕                                                洞山悟本大師の段、文の通りである。                        「説取行不得底、行取説不得底 《行不得底を説取し、説不得底を行取す》 」とある。       これは「説」と「行」を各別に説かれるのである。「説」のときは「行」は隠れ、「行」のときは「説」は隠れる。「一方を証するときは一方はくらし」の道理である。しかし、前に説いたことと違いはないのである。   「雲居山弘覚大師」の段、文の通りである。                     これもまた、「説」と「行」の理解の仕方は、前と違わない。つまり、「一生不離叢林」「洗頭到雪峰前」をもって「行持」と言うのである。         ...

大慈寰中禅師「一丈を説くよりも、一尺を行ずる方がよい」 『第十六行持』16-15a

  〔『正法眼蔵』原文〕                            大慈寰中禅師 ダイジカンチュウ ゼンジ いはく、 「説得 セットク 一丈、不如 フニョ 行取 ギョウシュ 一尺。 説得一尺、不如行取一寸」。 《一丈を説得せんよりは、一尺を行取せんに如 シ かず。 一尺を説得せんよりは、一寸を行取せんに如かず》  これは、時人 ジニン の行持おろそかにして、仏道の通達をわすれたるがごとくなるをいましむるににたりといへども、一丈の説は不是 フセ ゙とにはあらず、一尺の行 ギョウ は一丈説よりも大功 ダイコウ なるといふなり。 なんぞたゞ丈尺の度量のみならん、 はるかに須弥 シュミ と芥子 ケシ との論功もあるべきなり。 須弥に全量あり、芥子に全量あり。 行持の大節 ダイセツ 、これかくのごとし。 いまの道得は、寰中の自為道 ジイドウ にあらず、寰中の自為道なり。   〔『正法眼蔵』私訳〕                     大慈寰中禅師は言う、「一丈を説くよりも、一尺を行ずる方がよい。 一尺を説くよりも、一寸を行ずる方がよい」。 (大慈寰中禅師、いわく、「説得一丈、不如行取一尺。説得一尺、不如行取一寸 《一丈を説得せんよりは、一尺を行取せんに如 シ かず。一尺を説得せんよりは、一寸を行取せんに如かず》 」。) これは、当時の人の行持がおろそかであり仏道に通達することを忘れたかのようであるのを戒めているようであるが、一丈を説くことはいけないというのではない。一尺を行ずることは一丈を説くことよりも大きな功徳であると言うのである。 (これは、時人の行持、おろそかにして仏道の通達をわすれたるがごとくなるをいましむるににたりといへども、一丈の説は不是とにはあらず、一尺の行は一丈の説よりも大功なり、というなり。)                   どうしてただ丈尺の量の比較だけであろうか、 遙かに量が違う須弥山と芥子粒の功徳を論じることもあるべきである。 (なんぞたゞ丈尺の度量のみならん、はるかに須弥と芥子との論功もあるべきなり。) 須弥山には須弥山で全世界を尽くす功徳がある、 芥子粒には芥子粒で全世界を尽くす功徳がある。 (須弥に全量あり、芥子に全量あり。) 行持の大事なところとは、このようなことである。 (行持の大節、これかくの...

大慈寰中禅師「一丈を説くよりも、一尺を行ずる方がよい」 『第十六行持』16-15b

  〔『聞書』私訳〕                             /「一尺を説得せんよりは、一寸を行取せんに如かずせんに如かず。 一尺を説得せんよりは、一寸を行取せんに如かず」。                           「これは、時人の行持おろそかにして、仏道の通達をわすれたるがごとくなるをいましむるににたりといへども、一丈の説は不是とにはあらず、一尺の行は一丈説よりも大功なるといふなり」というのは、「説」は「行」を離れず、「証」は「行」を離れないということである。 皮肉骨髄を四人の得道者にあてるとき、髄を得た者が特に勝っているというわけではない。ただ教行証が同じであるように、皮肉骨髄も同じなのである。 この「説」「行」はまったく同じと理解するところを、教家あるいは世間では、「説」を別のことと見て、行じないことは気を損ない益がないなどというが、そういうことではない。 また、理を説く者は多く、理を行ずる者は少ないなどとも言う。これらは「説」と「行」を各別のものとして立てるのである。そうであるから「証」も「行」も共に功徳があるのである。         /多聞をすすめ、多聞を斥けることがある。『華厳経』に言う、「譬えば、貧窮の人の日夜に他の宝を数え、自らは半銭の分も無きが如し、多聞も亦是の如し」と。これは多聞を斥ける意である。ただ聞くことだけを好んで、仏道のすべてを明らかにしない咎 トガ である。 「もし仏道を求めんと欲せば、常に多聞の人に随うべし、善知識は、これ大因縁、いわゆる化導して見仏をえせしむ」と。これは多聞をとる方である。 「一尺の行は一丈説よりも大功なり」というのは、これも「行」が勝っている意味合いであるが、仏法では仏は殊に勝れていると説くけれども、この仏は劣っていると説くことがないように、「大功なり」と言うのであり、「説」を小功とするのではない。また「丈」「尺」によらないところを、そのまま「大功」と使うわけがあるのである。                                 /三業は、身口意の三業である。ただし、身口意は各別ではないが、自我に対するときは身口意が各別に思われる。無我のときは、尽十方界の一隻眼とも、尽十方界の家常語とも言うときは、身の外に口を残し、口の外に意を置くことがないように、「説」...