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この行持の功徳が、真の自己を保持し、 十方の全地全天を保持するのである『正法眼蔵第十六行持』16-1-2a

  〔『正法眼蔵』原文〕  この行持の功徳 クドク 、われを保任 ホニン し、他を保任す。 その宗旨 シュウシ は、わが行持すなはち十方の帀地漫天 ソウチマンテン 、 みなその功徳をかうむる。 他もしらず、われもしらずといへども、しかあるなり。 このゆゑに、諸仏諸祖の行持によりて、 われらが行持見成 ケンジョウ し、われらが大道通達 ダイドウ ツウダツ するなり。 われらが行持によりて、諸仏の行持見成し、 諸仏の大道通達するなり。 われらが行持によりて、この道環の功徳あり。 これによりて、仏々仏祖々、 仏住し、仏非 ブッヒ し、仏心し、仏成じて断絶せざるなり。 この行持によりて日月星辰 ニチガツ ショウシン あり、 行持によりて大地虚空 ダイチ コクウ あり、 行持によりて依正身心 エショウ シンジン あり、 行持によりて四大五蘊 シダイ ゴウン あり。 行持これ世人の愛処にあらざれども、諸人の実帰なるべし。 過去・現在・未来の諸仏の行持によりて、 過去・現在・未来の諸仏は現成するなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 この行持の功徳が、真の自己を保持し、 十方の全地全天を保持するのである。 (この行持の功徳、われを保任し、他を保任す。)                              その主旨は、我の行持は、即座に十方の全地全天に及び、みなその功徳をこうむる (遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる) のである。 十方の全地全天も知らず、我も知らなくても、そのようにあるのである。 (その宗旨は、わが行持すなはち十方の帀地漫天、みなその功徳をかうむる。 他もしらず、われもしらずといへども、しかあるなり。)                              そのために、諸仏や諸祖の行持によって、我々の行持が現成し、 我々の大道が通達するのである。 我々の行持によって、 諸仏の行持が現成し、諸仏の大道が通達するのである。 (このゆゑに、諸仏諸祖の行持によりて、われらが行持見成し、われらが大道通達するなり。われらが行持によりて、諸仏の行持見成し諸仏の大道通達するなり。)                                    我々の行持によって、この行持が 途切れることなく連続して行われる 功徳がある。これに...
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この行持の功徳が、真の自己を保持し、 十方の全地全天を保持するのである『正法眼蔵第十六行持』16-1-2b

  〔『聞書』訳〕 /「修して証すと云もの因果に堕在す」と言う。 ただ、因を待たない果であるとき (修証すなわち因果同時現成のとき) は、決して因果に堕在しない。大乗の因は諸法実相である、大乗の果も諸法実相であると言う。 又、空華亂墜のように心得るべきである。                         /「この行持の功徳、われを保任し、他を保任す」 という「この行持の功徳」は「自」でもなく「他」でもない。一地に生ずる物、一雨が降り注ぐ道理がこのようであると心得てはならない。 「 かふむる」「功徳」とは天地がそのまま功徳なのであり、大地有情同時成道がこれである。「十方の匝地漫天、みなその功徳をかふむる」と言い、「他もしらず われもしらずといへども、しかあるなり」と言うからである。                                         /「仏非」とは、非心非仏 (心に非ず仏に非ず) の「仏非」である。諸法ごとに、収まらないということはない。「仏住し、仏非し、仏心し、仏成じて断絶せざるなり」と言う外に、仏行とも、仏坐とも、 仏臥とも、仏身とも、仏口・仏鼻・仏足とも言うようなことである。だから、諸法が収まらないということはないのである。                                    /「日月星辰」「大地虚空」は、行持によってあると言うのは、 日頃の考えとは相違するのである。 〔『抄』私訳〕                             「この行持の功徳、われを保任し、他を保任す。その宗旨は、わが行持、すなはち十方の匝地漫天、みなその功徳をかふむる。他もしらずわれもしらずといへども、しかあるなり」とある。 この「われ」は「行持」の「われ」である。              「このゆゑに諸仏諸祖の行によりてわれらが行持見成し、われらが大道通達するなり。われらが行持によりて、諸仏の行持見成し、諸仏の大道通達するなり。われらが行持によりて、この道環の功徳あり」とある。                          これは、「諸仏諸祖」というのも、「われら」というのも、ただ同体であるからこのように入れ違えて釈されるのである。  「諸仏諸祖」「われら」「行持」は、ただ一体であり引き離すことができない...

仏祖の大道は必ず無上菩提の行持がある『正法眼蔵第十六行持』16-1-1a

  〔『正法眼蔵』原文〕                                   仏祖の大道、かならず無上の行持あり。 道環 ドウカン して断絶せず、発心・修行・菩提・涅槃、 しばらくの間隙ケンゲキあらず、行持道環なり。 このゆゑに、みづからの強為 ゴウイ にあらず、他の強為にあらず、 不曾染汚 フゾウゼンナ の行持なり。  〔『正法眼蔵』私訳〕                           仏祖 (仏陀と祖師) の大道は、必ず無上菩提の行持 (仏祖の大道を修行し永久に護持すること) があり、それは 連続して行われ途切れること がない。 (仏祖の大道、かならず無上の行持あり、道環して断絶せず。) 発心 (悟りを求める心をおこす) ・修行・菩提 (悟りの智慧) ・ 涅槃 (煩悩の迷いの火を吹き消した状態) が、 少しの間隙もなく、 連続して行持される のである。 (発心・修行・菩提・涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり。)                                       このために、行持は自分が強いて為すものではなく、 他に強いられて為すものでもない、 いかなるものにも染め汚されることのない行持である。 (このゆゑに、みづからの強為にあらず、他の強為にあらず、 不曾染汚の行持なり。)  仏祖の大道は必ず無上菩提の行持がある『正法眼蔵第十六行持』16-1-1b                    合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                     ↓               ↓       にほんブログ村

仏祖の大道は必ず無上菩提の行持がある『正法眼蔵第十六行持』16-1-1b

〔『聞書』私訳〕                              /「無上の行持あり、道環して断絶せず」とある。 これは、我々にとってどういうことか。「しばらくの間隙あらず、行持道環なり」というのは、仏祖の上においてだけと、他人ごとにと思うのは、どうか。 虚空蔵菩薩が世に出られたときは、山も樹もはっきりと透けて見え、海慧菩薩のときは、世界は海と見え、仏が成道したときは、大地有情同時成道と言われたが、初祖達磨大師が航海して、法を伝え迷情を救う大悲より生じた行持の時刻と、我々の行持を隔ててはいけない。 善悪、苦楽の違いはあっても、必ず虚空蔵菩薩・海慧菩薩の時と同じなのである。これらを聖者の境界に譲って、我々の行持は叶わないと言ってはならない。 得道のときに功徳があるなら、教行のときというのも、証 (悟り) を教え行ずるので同じである。吾我 (自分) を取り上げなければ、証 (悟り) の時である。             /教行 (教えに従って修行する) を「行持」と思うのは世の常である。教は口業 (口の行為) の説、教であればただ言葉で説き示すものと思うなら、この口業は親切ではない。 説得一丈 (一丈を説き得ること) は、行取一尺 (一尺を行ずること) に及ばないと言う。〔しかし、何も説得が行取に劣るわけではない。そこに勝劣高下を設けないのが宗意であるから、〕ただ、説も尽きず、行も尽きない。そこに不染汚 (何ものにも汚染されない) の説・行が成就するのである。 口は説と黙、身は行、意の止観 (瞑想) は念である。口である時節は、大地も虚空もみな口であり、遍く三千大千世界 (宇宙) を覆う広く長い舌である。眼睛を説くときは、ただ眼睛の出没と習う。 口業と言うときは、 頂寧の説法も眼睛の説法も口業と言うのである。 今の「行持」の行は、「行仏」の行に習うべきである。教行証は一体であるからである。                                       /「無上の行持あり」とは、この「無上」は、一切の世界にわたり、「無上」は仏界、最下は地獄界である。従って仏道を無上道とも、無等々とも言うのである。 もっとも、これが下に対する意味合いであれば本意ではない。この「無上」は下に対しない上である。 又、この「無上」には下もないのである。ただ、上がないなら下...