第五段① 南嶽山無際大師 〔『正法眼蔵』原文〕 南嶽山無際 ナンガクサンムサイ 大師、ちなみに薬山とふ、 「三乗十二分教某甲粗知。 嘗聞南方直指人心、見性成仏、実未明了。 伏望和尚、慈悲指示」。 《三乗十二分教は某甲 ソレガシ 粗 ホボ 知る。 嘗て聞く、南方の直指人心、見性成仏、実に未だ明了ならず。 伏して望むらくは和尚、慈悲をもて指示したまはんことを》 これ薬山の問 モン なり。 薬山は本為講者 モトコウシャタリシ なり。 三乗十二分教は通利せりけるなり。 しかあれば仏法さらに昧然 マイネン なきがごとし。 むかしは別宗いまだおこらず、 ただ三乗十二分教をあきらむるを教学の家風とせり。 いまの人おほく鈍致 ドンチ にして、 各々 カクカク の宗旨をたてて仏法を度量する、仏道の法度 ハット にあらず。 〔『正法眼蔵』私訳〕 南嶽山無際大師 (石頭希遷) に、あるとき薬山惟儼 ヤクサンイゲン が尋ねた、 「三乗十二分教 (仏典の総称) は、わたくしは大方理解しております。 しかし、かねてから聞いている南方の六祖の『直指人心、見性成仏 (人の心そのものを直接指し示し、本性を見極めて仏と成る) 』の教えについて、まだ真に明らかにはできておりません。 どうか和尚、慈悲をもってその真髄をお示しください」。 これは薬山の問いである。 薬山はもと経典・論典の講釈師であり、三乗十二分教に精通していたので、 仏法にまったく不明な点はなかったようである。 昔はまだ宗派が別れておらず、ただ三乗十二分教を明らかにすることを教学の家風としていた。 今の人は多く極めて鈍いため、それぞれの宗派を立てて仏法をその観点から推し測ろうとするが、それは仏道の規範ではない。 合掌 六祖の直指人心、見性成仏『第十七恁麼』17-5-1b(聞書抄) ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村
〔抄原文〕 南嶽山無際大師、ちなみに薬山問、「三乗十二分教は某甲 ソレガシ 粗 ホボ 知る。嘗て聞く、南方の直指人心、見性成仏、実に未だ明了ならず。伏して望むらくは和尚、慈悲をもて指示したまはんことを。」 是は、無風情、無際大師に薬山の「三乗十二分教は某甲粗知。南方《六祖の御事なり》直 指人心、見性成仏、未明了。和尚我に指示給へ」と被仰。如文。 「薬山は本は講者なり。三乗十二分教を通達せりけるなり。然者仏法更昧然 マイネン なきが如し。昔は別宗未をこらす十 二分教を明むるを教学の家風とせり。今の人多鈍到にして各々の宗旨を立て、仏法を度 タク 量 する。仏道の法度 ハット にあらず」と云々。 〔抄私訳〕 「南嶽山無際大師、ちなみに薬山問、「三乗十二分教は某甲 ソレガシ 粗 ホボ 知る。 嘗て聞く、南方の直指人心、見性成仏、実に未だ明了ならず。 伏し て望むらくは和尚、慈悲をもて指示したまはんことを」とある。 これは、風情なく、無際大師に薬山が、「三乗十二分教は某甲粗知る。南方《六祖のことである》の直指人心、見性成仏、実に未だ明了ならず。伏して望むらくは和尚、慈悲をもて指示したまはんことを」と言われた。文の通りである。 「薬山は本為講者なり。三乗十二分教は通利せりけるなり。しかあれば仏法さらに昧然なきがごとし。むかしは別宗いまだおこらず、ただ三乗十二分教をあきらむるを教学の家風とせり。いまの人おほく鈍致にして、各々の宗旨をたてて仏法を度量する、仏道の法度にあらず」云々。 〔聞書原文〕 /南嶽山無際大師段。 /此三乗十二分教粗 ホボ 知れりとも云ひ、通利せりなむと云へば、三乗十二分教と今の大道とを無各別と心得合すべしなむと云にてはなし。教の仏法は昧然 マイゼン《くらからず》 なし、大道を指示せよとなり。 〔聞書私訳〕 /南嶽山無際大師の段である。 /この「三乗十二分教」「粗知れり」ともいい、「通利せり」などというからといって、「三乗十二分教」と今の大道を別のものではないと理解を合わすべきだ、 などということではない。「三乗十二分教」の仏法は不明瞭な点はない、 今の大...