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手眼の外には、見ること、行うこと、説くことはない『第十八観音』18-5-5a(正法眼蔵)

〔『正法眼蔵』原文〕 手眼の功徳は、「是」と認ずる見取・行取・説取あらざるべし。 手眼すでに許多といふ、千にあまり、万にあまり、八万四千にあまり、 無量無辺にあまる。 只 タダ 「遍身是手眼」のかくのごとくあるのみにあらず、 度生 ドショウ 説法もかくのごとくなるべし、国土放光もかくのごとくなるべし。 かるがゆゑに、雲巌道は「遍身是手眼」なるべし、 手眼を遍身ならしむるにはあらずと参学すべし。 「遍身是手眼」を使用すといふとも、動容進止せしむといふとも、 動著 ドウチャク することなかれ。 〔『正法眼蔵』を読み解くーーー『聞書抄』を手掛かりに〕 手眼の外には、見ること、行うこと、説くことはない。 手眼はすでに無辺際と言うからには、千を越え、万を越え、八万四千を越え、 無量無辺をも越え、数量には関わらないのである。 ただ「遍身是れ手眼」がこのようであるだけでなく、 衆生を済度し法を説くこともまたこのようであり、 国土が光を放つこともこのようであるのである。 それゆえに、雲巌の言葉は「遍身是れ手眼」であり、 手眼を身に遍満させることではないと学ばなければならない。 「遍身是れ手眼」という言葉を使用するとしても、 一般に解しているように思ってはならないのである。 手眼の外には、見ること、行うこと、説くことはない『第十八観音』18-5-5b(聞書抄)                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  
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手眼の外には、見ること、行うこと、説くことはない『第十八観音』18-5-5b(聞書抄)

  〔『抄』原文〕 「手眼の功徳は、是と認ずる見取・行取・説取あらざるべし。手眼すでに許多といふ、千にあまり、万にあまり、八万四千にあまり、無量無辺にあまる。」   「是と認ずる見取・行取・説取あらざる」なりとは、「手眼」の外には「見取・証取」等あるべからざると云なり。 「手眼すでに許多といふ」うへは、「千」「万」とも、 「八万四千」とも打任たる数量にかゝはるべからざる義なり。 いくらともいへ数量の多少にかゝはる程の義をば、「許多手眼」には不用なり。 「たゞ遍身是手眼のかくのごとくあるのみにあらず、度生説法もかくのごとくなるべし、国土放光もかくのごとくなるべし。かるがゆゑに、雲巌道は遍身是手眼なるべし、手眼を遍身ならしむるにはあらずと参学すべし。」   是は只「手眼」許を如此談ずるにてはなし。 「観音」の対 タイシテ v2 所 ショ 被 ヒ(カフムル) の機に 1 説法度生し給も、「観音」は能化の「菩薩」、所化の衆生のために説法すとは不可心得。 能化所化「観音」なるべし。ゆへに「観音」の「観音」を化すると可心得なり。 此故に「度生説法も如此」と云ふ。 「国土放光も如此」と云心地は、只如「度生説法」可心得となり。 所居「国土」と「観音」と「光」とを各々不心得なり。 以「観音」「放光」と談じ、「放光」の姿を「観音」と談なり。 更不可能所各別。 此道理を以て「雲巌道は遍身是手眼なるべし」とは云なり。 全「雲巖道」の「遍」は「遍身」ならしむるには非なり。 「遍身是手眼」を使用すといふとも、動容進止せしむといふとも、動著することなかれ。」   是は、「遍身是手眼を使用す」とは、此詞は「使用す」とも、打任て心得たる様に不可存と云心地なり。 「動容進止」し「動著することなかれ」とは此心なり。 〔『抄』私訳〕 「手眼の功徳は、是と認ずる見取・行取・説取あらざるべし。手眼すでに許多といふ、千にあまり、万にあまり、八万四千にあまり、無量無辺にあまる」とある。   「是と認ずる見取・行取・説取あらざる」なりとは、「手眼」の外には「見取・行取」等はないと言うのである。 「手眼すでに許多といふ」上は、「千」「万」や 「八万四千」などの一般にいう数量には関わらないという意味である。 いくらであっても数量の多少に関わるようなことでは、「許多手眼」は「用」いないのである。 「たゞ遍身是手眼...

雲巌:遍身是れ手眼 『第十八観音』18-5-4a(正法眼蔵)

  〔『正法眼蔵』原文〕   雲巌道の「遍身是手眼」の出現せるは、「夜間背手摸枕子」を講誦 コウジュ するに、「遍身これ手眼なり」と道取せると参学する観音のみおほし。 この観音たとひ観音なりとも、未道得なる観音なり。 雲巌の「遍身是手眼」といふは、「手眼是身遍」といふにあらず。 遍はたとひ遍界なりとも、身手眼の正当恁麼は、遍の所遍なるべからず。 身手眼にたとひ遍の功徳ありとも、攙奪行市 サンダツギョウシ の手眼にあらざるべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕  雲巌が言う「遍身是れ手眼」が出現したのは、「夜間に手を後ろにして枕を探り求める」の言葉を読み唱えながら、「全身が手眼である」と言っていると考える観音 (仏道修行者) ばかり多くいる。 この観音はたとえ観音であっても、未だ仏法の道理を説き得ていない観音である。雲巌が「遍身是れ手眼」と言うのは、「手眼是れ身遍 (手眼が身に遍満している) 」という意味ではない。 遍はたとえ世界全体に遍満することであるとしても、身と手と眼と、 そのままである時は、遍によって遍満されるものではないのである。 身と手と眼にたとえ遍満する功徳があるとしても、市場を支配し意のままに動かすように無理に全体の真実を手だ眼だというのではないのである (遍身是手眼とは、遍満する手眼と遍満される法界があって、その法界を無理やり奪ってきて、手眼世界にしたのではないのである) 。 雲巌:遍身是れ手眼 『第十八観音』18-5-4b(聞書抄)                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  

雲巌:遍身是れ手眼 『第十八観音』18-5-4b(聞書抄)

  〔『抄』原文〕 「雲巌道の遍身是手眼の出現せるは、夜間背手摸枕子を講誦するに、遍身これ手眼なりと道取せると参学する観音のみおほし。この観音たとひ観音なりとも、未道得なる観音なり。」   是は、「遍身是手眼の出現せる」と云へば、「観音」の御身は一体にて、 「千の手」「千の眼」がひしと遍満して御身に取付たるやうに心得なり。 「雲巖道」の「観音」爾にはあらざるなり。 この「雲巌道の遍身是手眼」又「夜間背手摸枕子」の詞を、世人「講誦」しながら、「遍身これ手眼なり」と尋常に人の思たるように「道取せると参学する観音のみおほし」と被嫌。 ゆへに「未道得なる観音なり」とはさけらるゝなり。 「雲巌道の遍身是手眼といふは、手眼是身遍といふにあらず。遍はたとひ遍界なりとも、身手眼の正当恁麼は、遍の所遍なるべからず。身手眼にたとひ遍の功徳ありとも、攙奪 サンダツ《おしかいなり》 行市 《イチノ》アンシ の手眼にあらざるべし。」   是は、「雲巌」の「遍身是手眼」の「遍はたとひ遍界なりとも、身手眼の正当恁麼は、遍の所遍なるべからず」。 所詮、以「手眼」「遍」とつかふべし。 雲霧の空に「遍」したるやうに不可心得。 「手眼」の上に「遍」と云詞を暫おくべきなり。 「攙奪行市の手眼にあら」ずとは、今打任て人の心得たる「遍」ぞ「攙奪行市の手眼」とは云はるべき。 所詮、「雲巌」道の「遍身是手眼」の如く可心得なり。 〔『抄』私訳〕 「雲巌道の「遍身是手眼」の出現せるは、「夜間背手摸枕子」を講誦 コウショウ するに、「遍身これ手眼なり」と道取せると参学する観音のみおほし。この観音たとひ観音なりとも、未道得なる観音なり」とある。   これは、「遍身是手眼の出現せる (全身が千手千眼である観音が出現した) 」と言えば、「観音」 の身は一つで、「千の手」「千の眼」がびっしりと遍満して身に取りついているように心得るが、「雲巖道」の「観音」はそうではないのである。 この「雲巌道の (雲巖が言う) 遍身是手眼」や「夜間背手摸枕子」の言葉を、世間の人が読み唱えながら、「遍身これ手眼なり」と普通に人が思っているように「道取せると参学する観音のみおほし」と嫌われるのである。 だから「未道得なる (まだ言い得ていない) 観音なり」といって避けられるのである。 「雲巌道の遍身是手」といふは、手眼是身遍といふにあらず...