〔『正法眼蔵』原文〕 すでに決了することをえたらん、又一日をいたづらにせざるべし。 ひとへに道のために行取し、道のために説取すべし。 このゆゑにしりぬ、古来の仏祖いたづらに一日の功夫をつひやさざる儀、 よのつねに観想すべし。遅遅 チチ たる花日 カジツ も、明窓 メイソウ に坐しておもふべし、 蕭蕭 ショウショウタル 雨夜 ウヤ も、白屋 ハクオク に坐してわするゝことなかれ。 光陰なにとしてかわが功夫をぬすむ。 一日をぬすむのみにあらず、多劫 タゴウ 多の功徳をぬすむ。 光陰とわれと、なんの怨家 オンケ ぞ。 うらむべし、わが不修 フシュ のしかあらしむるなるべし。 われ、われとしたしからず、われ、われをうらむるなり。 仏祖も恩愛 オンナイ なきにあらず、 仏祖も諸縁なきにあらず、しかあれどもなげすてきたる。 、 たとひをしむとも、自他の因縁をしまるべきにあらざるがゆゑに、 われもし恩愛をなげすてずは、恩愛かへりてわれをなげすつべき云為 ウンイ あるなり。 恩愛をあはれむべくは、恩愛をあはれむべし。 恩愛をあはれむといふは、恩愛をねげすすつるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 すでに仏祖の要機を会得した者は、 二度と一日を無駄に過ごすようなことはないのである。 (すでに決了することをえたらん、又一日をいたづらにせざるべし。) ひたすら仏道のために行じ、仏道のために説くのである。 (ひとへに道のために行取し、道のために説取すべし。) こういうわけで知った、古来の仏祖は無駄に一日の修行をついやさなかったことに、常に想いを致さなければならない。 (このゆゑにしりぬ、古来の仏祖いたずらに一日の功夫をついやさざる儀、 よのつねに観想すべし。) のどかな春の日も明るい窓辺に坐してこのことを想わなければならない、 物寂しい雨の夜も粗末な家に坐して、忘れることがあってはならない。 (遅遅花日も明窓に坐しておもふべし、蕭蕭、雨夜も白屋に坐して、わするゝことなかれ。) 日月はどうして自分の修行を盗むのか。 (光陰なにとしてかわが功夫をぬすむ。) 一日を盗むだけではない、永劫の功徳を盗んむのである。 (一日をぬすむのみにあらず、多劫の功徳をぬすむ。) 日月と自分と、どういうかたき同士か。 (光陰とわれと、なんの怨家ぞ。) 恨むべきである、自分が坐禅しないことがそうさせるので...
〔『正法眼蔵』原文〕 しづかにおもふべし、驪珠はもとめつべし、尺璧はうることもあらん。 一生百歳のうちの一日は、ひとたびうしなはん、 ふたゝびうることなからん。 いづれの善巧方便 ゼンギョウ ホウベン ありてか、すぎにし一日をふたたびかへしえたる。 紀事 キジ の書にしるさざるところなり。 もしいたづらにすごさざるは、日月を皮袋 ヒタイ に包含 ホウガン して、もらさざるなり。 しかあるを、古聖先賢 コショウ センケン は、日月ををしみ、光陰ををしむこと、 眼睛 ガンゼイ よりもをしむ。国土よりもをしむ。 そのいたづらに蹉過 シャカ するといふは、名利 ミョウリ の浮世 フセイ に濁乱 ジョクラン しゆくなり。 いたづらに蹉過せずといふは、道にありながら、道のためにするなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 静かに思うべきである、竜のあぎとにある明珠は求めることもできよう、 また直径一尺の金剛石は手に入れることもできよう。 (しづかにおもふべし、驪珠はもとめつべし、尺璧はうることもあらん。) しかし、一生の百年のうちの一日は、 一度失ってしまえば、再び手に入れることはできないであろう。 (一生の百歳のうちの一日は、ひとたゝびうしなはん、ふたゝびうることなからん。) どのような巧みな手立てがあって、 過ぎた一日を再び取り返すことができようか。 (いずれの善巧方便ありてか、すぎにし一日をふたゝびかえしえたる。) 歴史の書に記されていないところである。 (紀事の書にしるさざるところなり。) もし一日を無駄に過ごさなければ、 日月を身体に包みこんでとり逃がすことはないのである。 (もしいたずらにすごさざるは、日月を皮袋に包含して、もらさざるなり。) そうであるから、昔の聖人や賢人は、日月を大事にし、時間を大事にすることは、自分の眼玉よりも大事にし、国土よりも大事にしたのである。 (しかあるを、古聖先賢は、日月ををしみ光陰ををしむこと、 眼睛よりもをしむ、国土よりもをしむ。) その日月を無駄に過ごすというのは、 名聞や利養の浮き世に惑わされていくことである。 (そのいたずらに蹉過するといふは、名利の浮世に濁乱しゆくなり。) 月日を無駄に過ごさないとは、 仏道のなかにありながら仏道のために行ずることである。 (いたずらに蹉過せずといふは、道にありながら道...