〔『正法眼蔵』原文〕 四十年のあひだ世財をたくはへず、常住に米穀なし。 あるいは栗子 リッス ・椎子 スイス をひろうて食物 ジキモツ にあつ、 あるいは旋転飯食 センテンボンジキ す。 まことに上古龍象 リュウゾウ の家風なり、恋慕すべき操行 ソウギョウ なり。 あるとき衆 シュ にしめしていはく、 「你若一生不離叢林、不語十年五載、無人喚你作唖漢、已後諸仏也不奈你何 フナイニオ 《你 ナンヂ 若し一生叢林を離れず、不語なること十年五載ならんには、 人の你を喚 ヨ んで唖漢 アカン と作す無し、已後には諸仏も也 マタ 不奈你何ならん》 」。 これ、行持をしめすなり。 しるべし、十年五載の不語、おろかなるに相似 ソウジ せりといへども、 不離叢林の功夫によりて、不語なりといへども唖漢にあらざらん。 仏道かくのごとし。 仏道声 ショウ をきかざらんは、不語の不唖漢なる道理あるべからず。 しかあれば、行持の至妙は不離叢林なり。 不離叢林は脱落なる全語なり。 至愚のみづからは不唖漢をしらず、不唖漢をしらせず。 阿誰 オスイカ か遮障 シャショウ せざれども、しらせざるなり。 不唖漢なるを得恁麽 トク インモ なりときかず、 得恁麽なりとしらざらんは、あはれむべき自己なり。 不離叢林の行持、しづかに行持すべし、 東西の風に東西することなかれ。 十年五載の春風秋月、 しられざれども声色透脱 ショウシキ トウダツ の道 ドウ あり。 その道得、われに不知なり、われに不会 フエ なり。 行持の寸陰を可惜許 カシコ なりと参学すべし。 不語を空然 クウネン なるとあやしむことなかれ。 入之 ニュウシ 一叢林なり、出之 シュッシ 一叢林なり、 鳥路 チョウロ 一叢林なり、徧界 ヘンカイ 一叢林なり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 趙州は、住職であった四十年の間、 世間的な財物を蓄えず、食材の保管場所に米穀はなかった。 (四十年のあひだ、世財をたくはへず、常住に米穀なし。) 栗 クリ の実や椎 シイ の実を拾って食物に充て、 或いは順次食事当番にあたって食事をとった。 (あるいは栗子、椎子をひろうて食物にあつ、あるいは旋転飯食す。) ...
〔『聞書』私訳〕 /「趙州眞際大師」。 あるいは、「旋転飯食」とは、 典座を決めず大衆が交代で食事を営むことである。 〔『抄』私訳〕 「趙州観音院眞際大師」の段、文の通りである。 「一生不離叢林」の姿が、すなはち「行持」である。仏道でなければ、「不語」を「行持」と言うことは決してない。「亜漢」とは聴覚障害者である。「叢林」に住して「不語」である姿が「行持」なのである。 坐禅の当体がすなわち作仏であるというほどの意味である。「諸仏也不奈你何」 《諸仏もまたなんじをいかんともせず》 とは、諸仏をもものともしないという意である。たとえば、仏にも劣らないという意味合いである。 また、 「入之一叢林なり、出之一叢林なり、烏路一叢林なり、偏界一叢林なり」とある。「叢林」と言えば、単なる一棟の建物と思ってはならない、尽界が「叢林」なのである。これがすなわち「行持」であり、ここに「出」「入」することがみな「行持」なのである。 ただ僧堂に大衆が出入する意味とばかり理解してはならないのである。 合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村