第六段 〔『正法眼蔵』原文〕 道吾道取す、「道也太殺道 ドウヤタイサイドウ 、祇道得 シドウトク 八九成 ジョウ 」。 いはくの宗旨 シュウシ は、道得は「太殺道」なり。 太殺道といふは、いひあていひあらはす、 のこれる未道得なしといふなり。 いますでに未道得のつひに道不得 ドウフトク なるべきのこりあらざるを道取するときは、「祇道得八九成」なり。 いふ意旨の参学は、たとひ十成なりとも、 道未尽なる力量にてあらば参究にあらず。 道得は八九成なりとも、道取すべきを八九成に道取すると、 十成に道取するとなるべし。 当恁麼の時節に、百千万の道得に道取すべきを、力量の妙なるがゆゑに、 些子 サシ の力量を挙して、わづかに「八九成」に道得するなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 道吾は言った、「言うことははなはだ言えり、ただ八九成 (八九割の出来) を言い得たり」。 言う主旨は、「言うのは大変うまく言った」というのである。 「大変うまく言った」とは、言い当て、言い表して、 言い残したことはないというのである。 もはや言い尽くして、言い残しのないように言ったときは、 「ただ八九成を言い得たり」と言うのである。 〔「ただ八九成を言い得たり」とは「十成を忌む」ためにこう言うのであり、 これは雲巖の「遍身是手眼」を讃嘆しているのである。〕 言うところの趣旨の参学は、たとえ言葉が完全 (十成) であっても、 仏法の道理をまだ言い尽くせない力量であれば、それは参究ではない。 言葉は八九割の出来 (八九成) であっても、言うべきことを八九割の出来で言い表せたなら、完全に言い表したことになるのである。 まさにこのようなときに、百千万の言葉で言うべきことを、 力量がすぐれているために、いささかの力量で、 わずかに八九割の言葉で言い得るのである。 道吾:ただ八九成を言い得たり 『第十八観音』18-6-1b(聞書抄) 合掌
〔『抄』原文〕 「道吾道取す、道也太殺道、祇道得八九成。 いはくの宗旨は、道得は太殺道といふは、いひあていひあらはす、のこれる未道得なしといふなり。いますでに未道得のつひに道不得なるべきのこりあらざるを道取するときは、祇道得八九成なり。」 是は如文、無殊子細。 「いふ意旨の参学は、たとひ十成なりとも、道未尽なる力量にてあらば参究にあらず。道得は八九成なりとも、道取すべきを八九成に道取すると、十成に道取するとなるべし。」 是又如文。実に「十成なりとも、道未尽なる力量」ならば、無其詮。 「八九成なりとも、道取すべきを八九成に道取する」「力量」あらば、「八九成」も「十成」の「道取」と同かるべしと云なり。 「当恁麼の時節に、百千万の道得に道取すべきを、力量の妙なるがゆゑに些子の力量を挙して、わづかに八九成に道得するなり。」 是又如文。「百千万」の詞にて「道取すべき」事を、 「力量」「妙」にしてわづかなる詞にて云あらはしたらむは、 今一重「力量」もあるべき事なり。 いかさまにも此「八九成」なむと云詞、不可拘数量詞なるべし。 〔『抄』私訳〕 「道吾道取す、道也太殺道、祇道得八九成。 いはくの宗旨は、道得は太殺道といふは、いひあていひあらはす、のこれる未道得なしといふなり。いますでに未道得のつひに道不得なるべきのこりあらざるを道取するときは、祇道得八九成なり」とある。 これは文の通りであり、特に子細はない。 「いふ意旨の参学は、たとひ十成なりとも、道未尽なる力量にてあらば参究にあらず。道得は八九成なりとも、道取すべきを八九成に道取すると、十成に道取するとなるべし」とある。 これも文の通りである。「たとひ十成なりとも、道未尽なる力量 (たとえ十割の出来であっても、まだ言い尽くすことができない力量) 」であるならば、意味をなさない。 「八九成 (八九割の出来) 」あっても、言うべきことの「八九成」を言う「力量」があるなら、「八九成」の言葉も「十成 (十割の出来) 」を言うことと同じであると言うのである。 「当恁麼の時節に、百千万の道得に道取すべきを、力量の妙なるがゆゑに些子の力量を挙して、わづかに八九成に道得するなり」とある。 ...