〔『正法眼蔵』原文〕 仏祖の大道、かならず無上の行持あり。 道環 ドウカン して断絶せず、発心・修行・菩提・涅槃、 しばらくの間隙ケンゲキあらず、行持道環なり。 このゆゑに、みづからの強為 ゴウイ にあらず、他の強為にあらず、 不曾染汚 フゾウゼンナ の行持なり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 仏祖 (仏陀と祖師) の大道は、必ず無上菩提の行持 (仏祖の大道を修行し永久に護持すること) があり、それは 連続して行われ途切れること がない。 (仏祖の大道、かならず無上の行持あり、道環して断絶せず。) 発心 (悟りを求める心をおこす) ・修行・菩提 (悟りの智慧) ・ 涅槃 (煩悩の迷いの火を吹き消した状態) が、 少しの間隙もなく、 連続して行持される のである。 (発心・修行・菩提・涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり。) このために、行持は自分が強いて為すものではなく、 他に強いられて為すものでもない、 いかなるものにも染め汚されることのない行持である。 (このゆゑに、みづからの強為にあらず、他の強為にあらず、 不曾染汚の行持なり。) 仏祖の大道は必ず無上菩提の行持がある『正法眼蔵第十六行持』16-1-1b 合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村
〔『聞書』私訳〕 /「無上の行持あり、道環して断絶せず」とある。 これは、我々にとってどういうことか。「しばらくの間隙あらず、行持道環なり」というのは、仏祖の上においてだけと、他人ごとにと思うのは、どうか。 虚空蔵菩薩が世に出られたときは、山も樹もはっきりと透けて見え、海慧菩薩のときは、世界は海と見え、仏が成道したときは、大地有情同時成道と言われたが、初祖達磨大師が航海して、法を伝え迷情を救う大悲より生じた行持の時刻と、我々の行持を隔ててはいけない。 善悪、苦楽の違いはあっても、必ず虚空蔵菩薩・海慧菩薩の時と同じなのである。これらを聖者の境界に譲って、我々の行持は叶わないと言ってはならない。 得道のときに功徳があるなら、教行のときというのも、証 (悟り) を教え行ずるので同じである。吾我 (自分) を取り上げなければ、証 (悟り) の時である。 /教行 (教えに従って修行する) を「行持」と思うのは世の常である。教は口業 (口の行為) の説、教であればただ言葉で説き示すものと思うなら、この口業は親切ではない。 説得一丈 (一丈を説き得ること) は、行取一尺 (一尺を行ずること) に及ばないと言う。〔しかし、何も説得が行取に劣るわけではない。そこに勝劣高下を設けないのが宗意であるから、〕ただ、説も尽きず、行も尽きない。そこに不染汚 (何ものにも汚染されない) の説・行が成就するのである。 口は説と黙、身は行、意の止観 (瞑想) は念である。口である時節は、大地も虚空もみな口であり、遍く三千大千世界 (宇宙) を覆う広く長い舌である。眼睛を説くときは、ただ眼睛の出没と習う。 口業と言うときは、 頂寧の説法も眼睛の説法も口業と言うのである。 今の「行持」の行は、「行仏」の行に習うべきである。教行証は一体であるからである。 /「無上の行持あり」とは、この「無上」は、一切の世界にわたり、「無上」は仏界、最下は地獄界である。従って仏道を無上道とも、無等々とも言うのである。 もっとも、これが下に対する意味合いであれば本意ではない。この「無上」は下に対しない上である。 又、この「無上」には下もないのである。ただ、上がないなら下...