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宏智禅師:仏道は三界が使うものではない『第十六行持』16-14-1a

  〔『正法眼蔵』原文〕                            太白山 タイハクサン 宏智禅師 ワンシ ゼンジ 正覚和尚 ショウガク オショウ の会 エ に、 護伽藍神 ゴガランジン いはく、 「われきく、覚 カク 和尚この山に住すること十余年なり。 つねに寝堂 シンドウ にいたりてみんとするに、 不能前 フノウゼン なり、未之識 ミシシキ なり」。                           まことに有道 ウドウ の先蹤 センショウ にあひあふなり。 この天童山 テンドウザン は、もとは小院なり。 覚和尚の住裡 ジュウリ に、道士観 ドウシカン ・尼寺 ニジ ・教院等を 掃除 ソウジョ して、いまの景徳寺 ケイトクジ となせり。                                       師、遷化 センゲ ののち、左朝奉大夫 サチョウブダイフ 侍御史 ジギョシ 王伯庠 オウハクショウ 、 ちなみに師の行業記 ギョウゴウキ を記するに、ある人いはく、 「かの道士観・尼寺・教寺をうばひて、いまの天童寺となせることを記すべし」。 御史いはく、「不可也 フカヤ 。此事非僧徳矣 スジヒソウトクイ 《不可なり、此の事、僧の徳に非ず》 」。ときの人、おほく侍御史をほむ。                    しるべし、かくのごとくの事 ジ は、俗の能なり、僧の徳にあらず。 おほよそ仏道に登入する最初より、 はるかに三界 サンガイ の人天 ニンデン をこゆるなり。 三界の所使 ショシ にあらず、三界の所見にあらざること、 審細に咨問 シモン すべし。 身口意 シンクイ および依正 エショウ をきたして、功夫参究すべし。 仏祖行持の功徳、もとより人天を済度する巨益 コヤク ありとも、 人天さらに仏祖の行持にたすけらるゝと覚知せざるなり。                  〔『正法眼蔵』私訳〕                           太白山天童寺の宏智禅師正覚和尚の会下で、寺院の守護神が言った、「私はこのように聞いている。正覚和尚はこの山に住んで十余年である。いつも方丈に行って会おうとするが、面前に出ることができず、いまだに和尚の顔を知らない」。 (太白山宏智禅師正覚和尚...
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宏智禅師:仏道は三界が使うものではない『第十六行持』16-14-1b

〔『聞書』私訳〕                                               /「太白山宏智禅師正覚和尚」。                                   「大隠小隠」とは、俗の書では、「大隠は朝市に住し、小隠は 丘樊 キュウハン(郷村) に住す、人知らず、云々 」という。ただ大小と使うだけで、別の意味はない。 「 すでにあるをはなる、なきをもはなるべし 」 とは、「名利」をはなれよと教え、ないものをどのようにはなれたらいいのかと 思われるが、あるものより、特にないものを願いいとなむようなことがあるときに、 ここをはなれよというのである。 〔『抄』私訳〕                                                「太白山宏智禅師正覚和尚」の段、文の通りである。                 これは、宏智禅師の入滅の後、師の「行業記」を著すときに、「道士観・尼寺・教院等」を併合して、「いまの天童寺となせり」と「行業記」に書くべきというのを、今の「左朝奉大夫の侍御史王伯庠」が、「不可なり、此の事、僧の徳に非ず」と言ったので、「行業記」に記載しなかった。この侍御史を褒めるのである。そのようなことは、「俗のすることであり、僧の徳ではない」のである。              合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                     ↓               ↓       にほんブログ村

修行のない鬼神に見られるのは、参学人に修行の力がないからである『第十六行持』16-13-4

〔『正法眼蔵』原文〕  しかあればすなはち、塵労中人 ヂンロウチュウニン なほかくのごとし。 出家人いかでか塵労中人よりも劣ならん、塵労中人よりもにごれらん。 向来 コウライ の仏祖のなかに、天の供養をうくるおほし。 しかあれども、すでに得道のとき、 天眼 テンゲン およばず、鬼神 キジン たよりなし。 そのむね、あきらむべし。 天衆 テンシュ 神道 シンドウ もし仏祖の行履 アンリ をふむときは、 仏祖にちかづくみちあり。 仏祖あまねく天衆神道を超証 チョウショウ するには、天衆神道はるかに見上 ケンジョウ のたよりなし、仏祖のほとりにちかづきがたきなり。                        南泉いはく、「老僧修行のちからなくして鬼神に覰見 ショケン せらる」。           しるべし、無修 ムシュ の鬼神に覰見せらるるは、修行のちからなきなり。  〔『正法眼蔵』私訳〕 そういうことであるから、 俗世で苦労して生活している人でさえこのようである。 (しかあればすなはち、塵労中人なほかくのごとし。) 出家人がどうして俗世で苦労して生活している人より劣っていてよかろうか、俗世で苦労して生活している人より濁った生活をしていてよかろうか。 (出家人いかでか塵労中人よりも劣ならん、塵労中人よりもにごれらん。)                    これまでの仏祖の中には、天人の供養を受けた方も多くあった。 (向来の仏祖のなかに、天の供養をうくるおほし。) そうではあるがすでに得道したときは、 天人の眼は届かず、鬼神が傍に寄り付くことはできなかった。 (しかあれどもすでに得道のとき、天眼およばず、鬼神たよりなし。) その意味を明らかにすべきである。 (そのむねあきらむべし。)                              天人や鬼神が、もし仏祖の行持を行持するなら、仏祖に近づく道はあるが、 仏祖が遍く天人や鬼神を超越して自己の真実を実証するときは、 天人や鬼神が仏祖をかなたに見上げる手がかりはなく、 仏祖の傍に近付くことはできないのである。 (天衆神道、もし仏祖の行履をふむときは、仏祖にちかづくみちあり。 仏祖あまねく天衆、神道を超証するには、天衆神道はるかに見上のたよりなし、 仏祖のほとりにちかづきがたきなり。)            ...