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大悲菩薩は無量の手や眼を用いる『第十八観音』18-2-2b(聞書抄)

〔『抄』原文〕 「 いはゆる雲巌道の大悲菩薩用許多手眼は、許多の道、ただ八万四千手眼のみにあらず、いはんや十二および三十二三の数般のみならんや。許多は、いくそばくといふなり。如許多の道なり、種般かぎらず。種般すでにかぎらずは、無辺際量にもかぎるべからざるなり。用許多のかず、その宗旨かくのごとく参学すべし。」 此「用許多手眼」の「数般」いくらと限べき際なき所 を、 「用許多手眼」とはあけらるゝなり。能々可心得事なり。 「雲巌道の許多手眼の道を拈来するに、道吾さらに道不著といはず、宗旨あるべし。」  是は、「雲巌」の「許多手眼」の詞、「道吾」さらにきらはずと云心なり。 「薬山」下にて「雲巌」「道吾」四十年之間同法とは云ながら 、相互無隔心法を談ぜし人なり。 共に 「雲巌」の「用許多手眼」の詞をば、「道吾」「 道不著といはず 」、「道吾」証明すと云なり。 〔『抄』私訳〕 「 いはゆる雲巌道の大悲菩薩用許多手眼は、許多の道、ただ八万四千手眼のみにあらず、いはんや十二および三十二三の数般のみならんや。許多は、いくそばくといふなり。如許多の道なり、種般かぎらず。種般すでにかぎらずは、無辺際量にもかぎるべからざるなり。用許多のかず、その宗旨かくのごとく参学すべし」とある。  この「 用許多手眼 」の「 種般 」がいくらと限るべき際がないところを、「 用許多手眼 」と挙げられるのである。よくよく心得るべきことである。 「雲巌道の許多手眼の道を拈来するに、道吾さらに道不著といはず、 宗旨あるべし」とある。  これは「雲巌」の「許多手眼」の言葉を、「道吾」は決して斥けないという意味である。 「薬山」のもとで「雲巌」と「道吾」は四十年間同じ法を修行してきた とはいえ、互いに心に隔てなく仏法を談じ合ってきた人である。 ともに雲巌の「許多手眼」の言葉を、「道吾」は「 道 イ い足りない」 と言わないで、「道吾」はそれを証明したと言うのである。 〔『聞書』原文〕 /十一面観音常儀なり。十二面観音本「観音」の一面を具足して「十二面」なり。「三十二三」身あり、子細如面。 面ぞ身ぞにつきては、「数般 スハン 」と云詞あり。是は別義なし、「数」をあげらるゝなり。又「種般」と云詞あり、是は「数」をあげずしなじなありとなり。 /「遍身」と云は、此遍も能遍所遍を作らば、有際限。 我が不覚不知ればとて、遍を世...
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観音を自己のものとする家門がある『第十八観音』18-2a(正法眼蔵)

第二段 〔『正法眼蔵』原文〕   しかあるに、雲巌道の大悲菩薩、 用許多手眼作麼の道を挙拈して、 参究すべきなり。 観音を保任せしむる家門あり、観音を未夢見なる家門あり。 雲巌に観音あり、道吾と同参せり。 たゞ一両の観音のみにあらず、百千の観音、おなじく雲巌に同参す。 観音を真箇に観音ならしむるは、ただ雲巌会のみなり。 所以はいかん。 雲巌道の観音と、余仏道の観音と、道得道不得なり。 余仏道の観音はただ十二面なり、雲巌しかあらず。 余仏道の観音はわづかに千手眼なり、雲巌しかあらず。 余仏道の観音はしばらく八万四千手眼なり、雲巌しかあらず。 なにをもつてかしかありとしる。 〔『正法眼蔵』私訳〕  そうであるから、雲巌が道 イ う「大悲菩薩は、たくさんの手眼を用いて何をするのか」という言葉を取り上げて、参究しなければならない。 観音を自己のものとする家門があり、 観音をいまだ夢にすら見たことのない家門がある。 雲巌に観音があり、道吾と共に修行する。 ただ一人二人の観音だけではなく、百千 (無量) の観音が、 同じく雲巌と共に修行する。 観音を真に観音ならしめるのは、ただ雲巌の門下だけである。 それはどういうわけか。 雲巌は観音を言い得ており、他の僧は観音を言い得ていないからである。 他の僧が言う観音は十二面だけであるが、雲巌はそうではない。 他の僧が言う観音はわずかに千の手と眼であるが、雲巌はそうではない。 他の僧が言う観音はしばらく八万四千の手と眼であるが、雲巌はそうではない。 どういうわけでそうだと分かるのか。 観音を自己のものとする家門がある『第十八観音』18-2b(聞書抄)                           合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  

観音を自己のものとする家門がある『第十八観音』18-2b(聞書抄)

  〔『抄』原文〕 「観音を保任せしむる家門あり、観音を未夢見なる家門あり。雲巌に観音あり、道吾と同参せり。たゞ一両の観音〔のみにあらず、百千の観音、おなじく雲巌に同参す。観音〕を真箇に観音ならしむるは、ただ雲巌会のみなり。」                                  是は「観音を保任せしむる家門あり」とは、今の「雲巖」「道吾」の事なり。「観音未夢見なる家門有」とは、祖門に所談にあらざる所をさすなり。 「雲巌に観音あり」とは、今の「用許多手眼作麼」の詞歟。 此「雲巖」「道吾」の「一両の観音のみにあらず」、此 「雲巖」「道吾」の「観音」には、「百千の観音」皆「同参する」なりと云なり。「雲巌 会のみなり」とは讃嘆詞歟。 「所以はいかん。雲巌道の観音と、余仏道の観音と、道得道不得なり。余仏道の観音はただ十二面なり、雲巌しかあらず。余仏道の観音はわづかに千手眼なり、雲巌しかあらず。余仏道の観音はしばらく八万四千手眼なり、雲巌しかあらず。なにをもつてかしかありとしる。」   是は、「雲巌道の観音」は「道得」と云ひ、「余仏道」は「道不得」とあり、勝劣があるように聞こえる。 其故は、「雲巌道の観音」は「用許多手眼」とあり、「余仏道の観音」は、 或「十二面」「千手眼」「八万四千手眼」なむとある所を、しばらく如此被挙なり。  さればとて、釈尊所説の「観音」を劣なりと云べきにあらず。 仏言何違此道理 。 更今人の思習はしたる所を、暫如此云なり。 〔『抄』私訳〕 〕 「観音を保任せしむる家門あり、観音を未夢見なる家門あり。雲巌に観音あり、道吾と同参せり。たゞ一両の観音のみにあらず、百千の観音、おなじく雲巌に同参す。観音を真箇に観音ならしむるは、ただ雲巌会のみなり」とある。                                  これは「観音を保任せしむる家門あり」とは、今の「雲巖」「道吾」のことである。「観音未夢見なる家門あり」とは、祖師の教えで談ずるところでない所を指すのである。 「雲巌に観音あり」とは、今の「用許多手眼作麼」の言葉である。 この「雲巖」と「道吾」の「一両の観音のみにあらず」、この「雲巖」と「道吾」の「観音」には、「百千の観音」がみな「同参する」というのである。 「雲巌会のみなり」とは、讃嘆の言葉である。 「所以はいかん。雲巌道...

観音は、数多くの手と眼を用いて何をするのか『第十八観音』18-1a正法眼蔵

  第一段 〔『正法眼蔵』原文〕   雲巌無住大師、問道吾山修一大師 《雲巌無住大師、道吾山修一大師に問ふ》 、 「大悲菩薩、用許多手眼作麼、 《大悲菩薩、許多の手眼 シュゲン を用ゐて作麼 ソモ 》 」。   道吾曰 イハク 、「如人夜間背手摸枕子 《人の夜間に手を背 ウシロ にして枕子 チンス を摸するが如し》」 。   雲巌曰、「我会也 ガエヤ 、我会也 《我れ会せり、我れ会せり》 」。   道吾曰、「汝作麼生会 ソモサンエ 《汝作麼生か会 エ せる》 」。   雲巌曰、「遍身是手眼 ゼシュゲン 」。   道吾曰、「道也太殺道 ドウヤタイサツドウ 、祇道得 シドウトク 八九成 ジョウ 《道 イ ふことは太殺 ハナハダ 道へり、まさに道得すること八九成なり》 」。   雲巌曰、「某甲 ボウコウ 祇如此 《某甲 ソレガシ はただ此 カク の如し》 、師兄作麼生 スヒンソモサン 」。   道吾曰、「通身是手眼 ツウシンゼシュゲン 」。   道得観音 ドウトクカンノン は、前後の聞声 モンショウ まゝにおほしといへども、雲巌・道悟にしかず。 観音を参学せんとおもはば、雲巌・道吾のいまの「道也 ドウヤ 」を参究すべし。 いま道取する大悲菩薩といふは、観世音菩薩なり、観自在菩薩ともいふ。 諸仏の父母 ブモ とも参学す、諸仏よりも未得道なりと学することなかれ。 過去正法明如来也 カコショウボウミョウニョライナリ 。   〔『正法眼蔵』私訳〕  雲巌無住 ウンガンムジュウ 大師 (兄弟子) が道吾山 ドウゴサン 修一 シュウイツ 大師 (弟弟子) に尋ねた。 「観音は、数多くの手と眼を用いて何をするのか」。  道吾は言った、「人が夜間に手を後ろにして枕を探しているようなことだ」。  雲巌は言った、「わたしは分かった、わたしは分かった」。  道吾は言った、「あなたはどう分かったのか」。  雲巌は言った、「全身が手と眼だ」。   道吾は言った、「言うことは実に言い得ているが、八、九割しか言い得ていない」。   雲巌は言った、「わたしはただこの通りだが、あなたはどうか」。  道吾は言った、「体中が手と眼だ」。   観音のことを説いた者は前代にも後代にもたくさんいたが、 雲巌と道吾のように十分に言い得た者...