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恁麼も不恁麼もすべて不得である『第十七恁麼』17-5-2a(正法眼蔵)

〔『正法眼蔵』原文〕  大師いはく、 「恁麼也不得 インモマタフトク 、不恁麼也不得、恁麼不恁麼総不得、汝作麼生 《恁麼も不得、不恁麼も不得なり、恁麼不恁麼総 ソウ に不得なり、汝作麼生 ソモサン 》」。  これすなはち大師の薬山のためにする道なり。 まことにそれ「恁麼不恁麼、総不得」なるゆゑに、 恁麼不得なり、不恁麼不得なり。 恁麼は恁麼をいふなり。 有限の道用 ドウヨウ にあらず、無限の道用にあらず、 恁麼は不得に参学すべし、不得は恁麼に問取 モンシュ すべし。 這箇 シャコ の恁麼および不得、ひとへに仏量のみにかゝはれるにあらざるなり、 会不得なり、悟不得なり。 〔『正法眼蔵』私訳〕  大師は言った、 「恁麼 インモ(かくの如くある今の様子) もまた不得 フトク(すでにあり、これから得るというものではない) であり、 不恁麼 フインモ(かくの如くある今の様子でないこと) もまた不得である。 恁麼も不恁麼もすべて不得である。 そなたはさあどうだ」。  これこそまさに大師が薬山のために示した教えである。 実に「恁麼も不恁麼もすべて不得」であるから、 恁麼も不得であり、不恁麼も不得である。 恁麼は恁麼そのものを指すのである。 それは有限の働きでもなく、無限の働きでもない。 だから、恁麼は不得に深く学ぶべきであり、 不得は恁麼に問うべきなのである。 この恁麼と不得は、むやみに仏で量れば量れるというものではない、 理解も不得であり、悟も不得 (すでにあり、これから得るというものではない) なのである。                           合掌 恁麼も不恁麼もすべて不得である『第十七恁麼』17-5-2b(聞書抄) ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  
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恁麼も不恁麼もすべて不得である『第十七恁麼』17-5-2b(聞書抄)

  〔抄原文〕 「大師いはく、「恁麼也不得、不恁麼也不得、恁麼不恁麼総不得、汝作麼生 《恁麼も不得、不恁麼も不得なり、恁麼不恁麼総に不得なり。汝作麼生》」。 これすなはち大師の薬山のためにする道なり。 まことにそれ「恁麼不恁麼総不得」なるゆゑに、恁麼不得なり、不恁麼不得なり。」   この詞は難心得。何とあるべしとも不聞。但この詞は一向以不得道理法を被述歟。凡仏法の道理得不得にかゝはるべからざるゆゑに。或時は以得道理を仏法を説き、或時は以不得理法を示す。今は不得の道理にて大師薬山に被示なり。恁麼の道理尤不得なるべし。汝作麼生の詞又不得の道理に不可違歟。尽諸法皆不得の道理なるべし。 「恁麼は恁麼をいふなり。有限 ウゲン の道用にあらず、無限の道用にあらず、 恁麼は不得に参学 すべし、不得は恁麼に問取すべし。」   何事を指して恁麼と云べきにあらず。はじめに無上菩提暫是を恁麼と云とあれば、無上菩 提を恁麼として云も、猶能所あるやうに聞る所を、恁麼は恁麼を云とあれば、総まじる物なく恁麼の全体なる道理聞るなり。此上は有限無限の沙汰に不可及。恁麼と不得のあはひ親切なる道理が恁麼は不得に参学すべし、不得は恁麼に問取すべしとはあるなり。此恁麼に 参学すべしとある参学の姿恁麼なるなり。 「這箇恁麼および不得、ひとへに仏量のみにかゝはれるにあらざるなり、 会不得なり、悟不得なり。」   此恁麼と不得とのあはひ仏量にかゝはれず、会不得悟不得なりとは、此道理が仏量にかゝはらず、又恁麼と不得と許にかぎるべからず。会不得も悟不得もあるべし。万物無尽に不得 の道理に不得あるべしと云心地なり。 〔抄私訳〕  「大師は言った、「恁麼も不得、不恁麼も不得なり、恁麼も不恁麼も総に不得なり。汝作麼生」。 これこそまさに大師が薬山のために示した言葉である。 実に大師が言う通り「恁麼も不恁麼も総に不得」であるから、 「恁麼も不得」であり、「不恁麼も不得」なのである」とある。  この言葉は理解しがたい。どうあるべきかも分からない。 ただこの言葉は、ひたすら「不得」という道理の法 (教え) を述べているのである。 およそ仏法の道理は、「得」「不得」に関わらないからである。 ある時は「得」の道理で仏法を説き、ある時は「不得」の理法を示す。 今は「不得」の道理で「大師」が「薬山」に示しているのである。 「恁...

六祖の直指人心、見性成仏『第十七恁麼』17-5-1a(正法眼蔵)

  第五段① 南嶽山無際大師 〔『正法眼蔵』原文〕  南嶽山無際 ナンガクサンムサイ 大師、ちなみに薬山とふ、 「三乗十二分教某甲粗知。 嘗聞南方直指人心、見性成仏、実未明了。 伏望和尚、慈悲指示」。 《三乗十二分教は某甲 ソレガシ 粗 ホボ 知る。 嘗て聞く、南方の直指人心、見性成仏、実に未だ明了ならず。 伏して望むらくは和尚、慈悲をもて指示したまはんことを》  これ薬山の問 モン なり。 薬山は本為講者 モトコウシャタリシ なり。 三乗十二分教は通利せりけるなり。 しかあれば仏法さらに昧然 マイネン なきがごとし。 むかしは別宗いまだおこらず、 ただ三乗十二分教をあきらむるを教学の家風とせり。 いまの人おほく鈍致 ドンチ にして、 各々 カクカク の宗旨をたてて仏法を度量する、仏道の法度 ハット にあらず。   〔『正法眼蔵』私訳〕  南嶽山無際大師 (石頭希遷) に、あるとき薬山惟儼 ヤクサンイゲン が尋ねた、 「三乗十二分教 (仏典の総称) は、わたくしは大方理解しております。 しかし、かねてから聞いている南方の六祖の『直指人心、見性成仏 (人の心そのものを直接指し示し、本性を見極めて仏と成る) 』の教えについて、まだ真に明らかにはできておりません。 どうか和尚、慈悲をもってその真髄をお示しください」。  これは薬山の問いである。 薬山はもと経典・論典の講釈師であり、三乗十二分教に精通していたので、 仏法にまったく不明な点はなかったようである。 昔はまだ宗派が別れておらず、ただ三乗十二分教を明らかにすることを教学の家風としていた。 今の人は多く極めて鈍いため、それぞれの宗派を立てて仏法をその観点から推し測ろうとするが、それは仏道の規範ではない。                            合掌 六祖の直指人心、見性成仏『第十七恁麼』17-5-1b(聞書抄) ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  

六祖の直指人心、見性成仏『第十七恁麼』17-5-1b(聞書抄)

  〔抄原文〕 南嶽山無際大師、ちなみに薬山問、「三乗十二分教は某甲 ソレガシ 粗 ホボ 知る。嘗て聞く、南方の直指人心、見性成仏、実に未だ明了ならず。伏して望むらくは和尚、慈悲をもて指示したまはんことを。」  是は、無風情、無際大師に薬山の「三乗十二分教は某甲粗知。南方《六祖の御事なり》直 指人心、見性成仏、未明了。和尚我に指示給へ」と被仰。如文。 「薬山は本は講者なり。三乗十二分教を通達せりけるなり。然者仏法更昧然 マイネン なきが如し。昔は別宗未をこらす十 二分教を明むるを教学の家風とせり。今の人多鈍到にして各々の宗旨を立て、仏法を度 タク 量 する。仏道の法度 ハット にあらず」と云々。 〔抄私訳〕                                     「南嶽山無際大師、ちなみに薬山問、「三乗十二分教は某甲 ソレガシ 粗 ホボ 知る。 嘗て聞く、南方の直指人心、見性成仏、実に未だ明了ならず。 伏し て望むらくは和尚、慈悲をもて指示したまはんことを」とある。  これは、風情なく、無際大師に薬山が、「三乗十二分教は某甲粗知る。南方《六祖のことである》の直指人心、見性成仏、実に未だ明了ならず。伏して望むらくは和尚、慈悲をもて指示したまはんことを」と言われた。文の通りである。 「薬山は本為講者なり。三乗十二分教は通利せりけるなり。しかあれば仏法さらに昧然なきがごとし。むかしは別宗いまだおこらず、ただ三乗十二分教をあきらむるを教学の家風とせり。いまの人おほく鈍致にして、各々の宗旨をたてて仏法を度量する、仏道の法度にあらず」云々。   〔聞書原文〕 /南嶽山無際大師段。 /此三乗十二分教粗 ホボ 知れりとも云ひ、通利せりなむと云へば、三乗十二分教と今の大道とを無各別と心得合すべしなむと云にてはなし。教の仏法は昧然 マイゼン《くらからず》 なし、大道を指示せよとなり。 〔聞書私訳〕                                    /南嶽山無際大師の段である。                   /この「三乗十二分教」「粗知れり」ともいい、「通利せり」などというからといって、「三乗十二分教」と今の大道を別のものではないと理解を合わすべきだ、 などということではない。「三乗十二分教」の仏法は不明瞭な点はない、 今の大...