第四段④ 〔『正法眼蔵』原文〕 いはゆる智は、人に学せず、みづからおこすにあらず。 智よく智につたはれ、智すなはち智をたづぬるなり。 五百の蝙蝠 ヘンプク は智おのづから身をつくる。 さらに身なし、心なし。十千の游魚は智したしく身にてあるゆゑに、 縁にあらず、因にあらずといへども、聞法すれば即解するなり。 きたるにあらず、入にあらず。 たとへば、東君 トウクン の春にあふがごとし。 智は有念 ウネン にあらず、智は無念にあらず。 智は有心にあらず、智は無心にあらず。 いはんや大小にかゝはらんや、いはんや迷悟の論ならんや。 〔『正法眼蔵』私訳〕 ここで言う智は、人に学ばず、自分が作り出すものではない。 智はよく智に伝わり、智は直ちに智を訪ねるのである。 〔読経を聞いていて火に落ちて阿羅漢果を得たという〕五百匹のコウモリは、 智が自ずから身心を作っており、決してその智を離れてその身心の活動はないのである。 〔聖者が浜辺を行く杖の先に当たり、天上に生まれて解脱したという〕一万匹の魚は智が親しくその身心の活動であるから、何かの縁があるわけでもなく、何かの原因があるわけでもないけれど、聞法すれば直ぐに理解できるのである。 ほかから来たのでもなく、ほかから入るのでもない。 たとえば、春の神が春に出会う (春になると一遍に何もかも春の様子になる) ようなことである。 智は、念が有るか無いかというようなこととは関係ない。 智は、心が有るか無いかというようなこととも関係ない。 ましてや大小に関係あることではなく、迷悟の論であろうはずはないのである。 合掌 智はよく智に伝わり、智は直ちに智を訪ねるのである『第十七恁麼』17-4-4b(聞書抄) ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村
〔抄原文〕 「いはゆる智は、人に学せず、自ら発 オコス にあらず。 智よく智につたはれ、智すなはち智をたづぬるなり。」 全智なる道理尤如此云はるゝなり。 「五百の蝙蝠、十千遊魚事喩に被出なり。」 游魚も智したしき身にてあるに依て縁因にあらねども、聞法すればもとより智 なりつる ゆへに即解するなりと云なり。 「たとへば東君 クン の春にあふが如し。」 東君とは春の神を云歟。春が春にあふと云心なり。別物の不交所を如此云な り。 「智は有念にあらず、智は無念にあらず。」 如文。実此智有無大小等の論にあらざるべし、勿論事なり。 〔抄私訳〕 「いはゆる智は、人に学せず、自ら発 オコス にあらず。 智よく智につたはれ、 智すなはち智をたづぬるなり」とある。 すべてが智であるという道理を、とりわけこのように述べているのである。 「五百の蝙蝠」「十千の游魚」のことが喩えとして挙げられているのである。 「游魚」も「智にしたしい」「身である」ことによって、「縁でもなく、因でも ない」けれど、「聞法すれば」、もともと「智」であったから「即座に理解で きる」と述べているのである。 「例えば、東君の春にあうがごとし」とある。 「東君」とは「春」の神のことである。「春」が「春」に出会うという意味で あり、別の物が交わらない状態をこのように表現しているのである。 「智は有念にあらず、智は無念にあらず」とある。 文の通りである。実にこの「智」は「有無」「大小」などの議論ではないこと は言うまでもないことである。 〔抄原文〕 「いはゆる智は、人に学せず、自ら発 オコス にあらず。智よく智につたはれ、 智すなはち智をたづぬるなり。」 全智なる道理尤如此云はるゝなり。 「五百の蝙蝠、十千遊魚事喩に被出なり。」 游魚も智したしき身にてあるに依て縁因にあらねども、 聞法すればもとより智なりつる ゆへに即解するなりと云なり。 「たとへば東君 クン の春にあふが如し。」 東君とは春の神を云歟。春が春にあふと云心なり。 別物の不交所を如此云なり。 「智は有念にあらず、智は無念にあらず。」 如文。実此智有無大小等の論にあらざるべし、勿論事なり。 〔抄私訳〕 「いはゆる智は、人に学せず、自ら発 オコス にあらず。智よく智につたはれ、 智すなはち...