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玄沙:達磨は中国に来ない、二祖はインドに往かない『第十六行持下』16下-12-2b

  〔抄私訳〕 「福州玄砂宗一大師」の段、文の通りである。 「 法名は師備」。  雪峰と玄砂の問答で、委しくはこの草子に見える。  「師答、『 終に敢て人を誑かさず』 」とある。 これは、ただいたづらに、たぶらかすべきをたぶらかさないというのではない。 悪口なかれなどと『仏性』の巻にあったほどの道理である。 人を置いて、これをたぶらかさないというのではない。 又、「雪峰召んで曰く、「備頭陀何ぞ徧参去せざる」。 師曰く、「 達磨不来東土、 二祖不往西天」とある。 達磨は、実際シナに来られたので、今の答えは当たっていないと思われる。 二祖がインドに往かなかったことは、実に根拠があると思われるけれども、 祖師の皮肉骨髄はみなこの道理なのである。初めて聞くといって驚くべきではない。                              合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村
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雪峰は玄沙の苦行を見て、頭陀と呼んで尊敬した『第十六行持下』16下-12-1

〔『正法眼蔵』原文〕  福州玄沙宗一 ゲンシャシュウイチ 大師、法名師備、福州閩県人也 ミンケンノヒトナリ 。 姓謝氏 セイハシャナリ 。 幼年より垂釣 シチョウ をこのむ。 小艇 ショウテイ を南台江にうかめて、もろもろの漁者になれきたる。 唐の咸通のはじめ、年甫 ネンポ 三十なり。 たちまちに出塵をねがふ。 すなはち釣舟をすてて、芙蓉山霊訓 レイクン 禅師に投じて落髪す。 豫章 ヨショウ 開元寺道玄律師に具足戒をうく。  布衲芒履、食纔接気、常終日宴坐。衆皆異之。 与雪峰義存、本法門昆仲、 而親近若師資。雪峰以其苦行、呼爲頭陀。  《布衲芒履 フノウモウリ なり、食 ジキ は纔 ワづ かに気を接す、常に終日宴坐す。   衆皆之を異なりとす、雪峰義存と、本 モト 法門の昆仲なり、而して親近 シンゴン すること   師資の若 ゴト し。雪峰其の苦行を以て、呼んで頭陀 ズダ と為す。》  一日雪峰問曰、「阿那箇是備頭陀」。  《一日、雪峰問ふて曰く、「阿那箇 アナコ か是れ備頭陀 ビズダ 」》  師対曰、「終不敢誑於人」。  《師対へて曰く、「終に敢て人を誑 タブラ かさず」》 〔『正法眼蔵』私訳〕  福州の玄沙宗一大師は、法名を師備と言い、福州閩県の人である。  (福州玄沙宗一大師、法名師備、福州閩県人也。) 俗姓は謝である。幼い頃から釣りを好んだ。 小舟を南台江に浮かべて、多くの漁夫に慣れ親しんで来た。 (姓謝氏。幼年より垂釣をこのむ。小艇を南台江にうかめて、もろもろの漁者になれきたる。) 唐の咸通五年、三十歳になって、にわかに出家を願った。 (唐の咸通のはじめ、年甫三十なり。たちまちに出塵をねがふ。) すぐに釣舟を捨て、芙蓉山の霊訓禅師に投じて髪を落とした。 (すなはち釣舟をすてて、芙蓉山霊訓禅師に投じて落髪す。) 予章開元寺の道玄律師について出家の具足戒を受けた。 (豫章開元寺道玄律師に具足戒をうく。) 粗末な木綿の衣を身に着けわら草履を履き、 食はやっと命を保つほどであり、 いつも終日坐禅した。 (布衲芒履なり、食は纔かに気を接す、常に終日宴坐す。) 修行僧たちはみな玄沙を稀に見る求道者と認めていた。 (衆皆之を異なりとす。) 雪峰義存とは、もと霊訓に参じた法兄弟であり、 その親しみ方は師弟のようであった。 (雪峰義存と、本法門の昆中なり...

すべてのものは悉くみな解脱である『第十六行持下』16下-11-2a

    〔『正法眼蔵』原文〕                       高宗永徽辛亥歳、閏九月四日、忽垂誡門人曰、一切諸法悉皆解脱。   汝等各自護念、流化未来。言訖安坐而逝。寿七十有二、塔于本山。    明年四月八日、塔戸無故自開、儀相如生。爾後、門人不敢復閉。 《高宗の永徽 エイキ 辛亥 カノトイ の歳、閏 ウルウ 九月四日、忽ちに門人に垂誡 シメ して曰く、     一切諸法は悉く皆解脱なり。汝等 ナンダチ 各自 オノオノ 護念すべし、未来を流化 ルケ すべし。   言ひ訖りて安坐して逝す。寿七十有二。本山に塔たつ。 明年四月八日、塔の戸、故 ユエ 無く自ら開く、儀相生ける如し。爾後 ソノノチ 、門人敢てまた閉ぢず》  しるべし、「一切諸法悉皆解脱」なり、諸法の空なるにあらず、 諸法の諸法ならざるにあらず、悉皆解脱なる諸法なり。 いま四祖には、未入塔時 ミニュウトウジ の行持あり、既在塔時の行持あるなり。 生者 ショウジャ かならず滅ありと見聞するは小見なり、 滅者は無思覚と知見せるは小聞 ショウモン なり。 学道にはこれらの小聞小見をならふことなかれ。 生者の滅なきもあるべし、滅者の有思覚 ユウシカク なるもあるべきなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 四祖は、唐の高宗の代、永徽二年九月四日、急に門人たちに示して言った、 「すべてのものは悉くみな解脱である。 お前たちはおのおのこのことを大切に護り、未来の世を教化せよ」と。 (高宗の永徽辛亥の歳、閏九月四日、忽ちに門人に垂誡して曰く、  一切諸法は悉く皆解脱なり。汝等各自護念すべし、未来を流化すべし」。) 言い終わって坐禅したまま亡くなった。年は七十二歳であった。 本山 (四祖山) に塔を建てた。 (言ひ訖りて安坐して逝す。寿七十有二。本山に塔たつ。) 次の年の四月八日、塔の扉が理由もなく自然に開いた、 坐禅している姿は生きているようであった。 (明年四月八日、塔の戸、故無く自ら開く、儀相生ける如し。) その後、門人たちは敢てその扉を閉じようとはしなかった。 (爾後、門人敢てまた閉ぢず。) 知らなければいけない、「すべてのものは悉くみな解脱である」。 すべてのものは空であるのではなく、すべてのものはすべてのものでないのではなく、悉くみな解脱であるすべてのものなのである。 (しるべし、「一切諸...

すべてのものは悉くみな解脱である『第十六行持下』16下-11-2b

  〔抄私訳〕 第三十一祖大医禅師の段、文の通りである。中国第四祖はこれである。 三度勅請を辞した。 「第四度、使に命じて曰く、如 モシ 果 ハタ して赴せずば、即ち首 コウベ を取りて来れ。使、山に至つて旨を諭 サト す。師乃ち頭を引いて刄 ハ に就く、神色儼然たり。使、之を異として、廻つて状聞 ジョウブン す。帝彌加歎して慕う。就いて珍 を賜して、以て其の志を遂ぐ」云々とある。「生者かならず滅ありと見聞するは小見なり、滅者は無思覚と知見せるは小聞なり」という。 これは、生死についての普通の理解の仕方を否定するのである。全て生であるとき、全て死であるときは、必ずしも生者に必ず滅があると学ぶべきではないのである。生者の滅がないのは、すなわちこれが全て生であるからである。「滅者の有思覚なり」というのは、全て死であることを「有思覚」と学ぶからである。 〔聞書私訳〕 /第三十一祖 《真丹第四祖》 大医禅師。 /今、師の入滅の後 《永徽 エイキ 七年九月八日、世を去る。翌年四月八日、塔の戸、自然に開く、儀相は生けるが如し、とある》 、次の年、塔の戸が開き、姿形は生きているようであったから、「生者必ず滅あり」「滅者は無思覚と知見せるは小聞なり」「生者の滅なきもあり」「滅者の有思覚ともあり」などと証拠を引いていうのではない。 この証拠は道信一代限りの稀な例であり、人がみなこの通りだというのではない。 仏法では「生也全機現、死生也全機現」と説く意味で理解するのである。 滅というのは煩悩であり、死と理解してはならない。滅とは仏の涅槃と合わせて理解すべきである。「無思覚」「有思覚」の有無は仏性の有無である。                            合掌                               ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村      ↓               

大医禅師:首を刀の前に差し出し、厳然として顔色を変えなかった『第十六行持下』16下-11-1

  〔『正法眼蔵』原文〕    第三十一祖大医禅師は、十四歳のそのかみ、 三祖大師をみしより、 服労九載 フクロウクサイ なり。 すでに仏祖の祖風を嗣続するより、 摂心無寐 ムビ にして脅不至席 キョウフシセキ なること僅 キン 六十年なり。 化 ケ 、怨親 オンシン にかうぶらしめ、徳、人天 ニンデン にあまねし。 真丹の第四祖なり。  貞観 ヂョウガン 癸卯歳、太宗嚮師道味、欲瞻風彩、詔赴京。師上表遜謝、前後三返、竟以疾辞。第四度、命使曰、「如果不赴、即取首来」。使至山諭旨。師乃引頚就刄、神色儼然。使異之、廻以状聞。帝弥加歎慕。就賜珍 、以遂其志  《貞觀癸卯 ミズノトウ の歳 トシ 、太宗、師の道味を嚮 トウト び、風彩を瞻 ミ んとして、赴京 フキョウ を詔 ショウ す。 師、上表して遜謝すること前後三返、竟 ツイ に疾を以て辞す。第四度、使に命じて曰く、「如 モシ 果して赴せずは、即ち首を取りて来れ」。使、山に至つて旨を諭 ユ す。師乃ち頚を引いて刄 ヤイバ に就 ツ く、神色儼然たり。使、之を異とし、廻 カエ つて状を以て聞 ブン す。 帝、弥加 イヨイヨ 歎慕す。珍  チンゾウ を就賜 シュシ して、以てその志を遂ぐ》 。 〔『正法眼蔵』私訳〕  釈尊から第三十一祖 (中国の四祖) 大医道信禅師は、十四歳の頃に、 中国の三祖鑑智僧璨禅師と出会ってから、師に随身すること九年であった。 (第三十一祖大医禅師は、十四歳のそのかみ、三祖大師をみしより、服労九載なり。) すっかり仏陀と祖師の家風を受け継いでからは、心を摂め坐禅して眠ることなく、横になって寝ないことが、ほとんど六十年に及んだ。 (すでに仏祖の祖風を嗣続するより、摂心無寐にして脅不至席なること僅六十年なり。) その教化は一切の人に与えられ、その徳は人間界にも天上界にも遍く行き渡った。 (化、怨親にかうぶらしめ、徳、人天にあまねし。) これが中国の第四祖である。 (真丹の第四祖なり。)    貞観十七年 (643年) 、唐の太宗 (第二代李成民) は師の宗風を尊び、 その風貌を見ようとして、都へ赴くようにと詔を下した。 (貞觀癸卯の歳、太宗、師の道味を嚮び、風彩を瞻んとして、赴京を詔す。) 師は上奏文を奉ってことわること前後三遍に及び、 ついに病を理由に辞退した。 (師、上表し...