〔『正法眼蔵』原文〕 手眼の功徳は、「是」と認ずる見取・行取・説取あらざるべし。 手眼すでに許多といふ、千にあまり、万にあまり、八万四千にあまり、 無量無辺にあまる。 只 タダ 「遍身是手眼」のかくのごとくあるのみにあらず、 度生 ドショウ 説法もかくのごとくなるべし、国土放光もかくのごとくなるべし。 かるがゆゑに、雲巌道は「遍身是手眼」なるべし、 手眼を遍身ならしむるにはあらずと参学すべし。 「遍身是手眼」を使用すといふとも、動容進止せしむといふとも、 動著 ドウチャク することなかれ。 〔『正法眼蔵』を読み解くーーー『聞書抄』を手掛かりに〕 手眼の外には、見ること、行うこと、説くことはない。 手眼はすでに無辺際と言うからには、千を越え、万を越え、八万四千を越え、 無量無辺をも越え、数量には関わらないのである。 ただ「遍身是れ手眼」がこのようであるだけでなく、 衆生を済度し法を説くこともまたこのようであり、 国土が光を放つこともこのようであるのである。 それゆえに、雲巌の言葉は「遍身是れ手眼」であり、 手眼を身に遍満させることではないと学ばなければならない。 「遍身是れ手眼」という言葉を使用するとしても、 一般に解しているように思ってはならないのである。 手眼の外には、見ること、行うこと、説くことはない『第十八観音』18-5-5b(聞書抄) 合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村
〔『抄』原文〕 「手眼の功徳は、是と認ずる見取・行取・説取あらざるべし。手眼すでに許多といふ、千にあまり、万にあまり、八万四千にあまり、無量無辺にあまる。」 「是と認ずる見取・行取・説取あらざる」なりとは、「手眼」の外には「見取・証取」等あるべからざると云なり。 「手眼すでに許多といふ」うへは、「千」「万」とも、 「八万四千」とも打任たる数量にかゝはるべからざる義なり。 いくらともいへ数量の多少にかゝはる程の義をば、「許多手眼」には不用なり。 「たゞ遍身是手眼のかくのごとくあるのみにあらず、度生説法もかくのごとくなるべし、国土放光もかくのごとくなるべし。かるがゆゑに、雲巌道は遍身是手眼なるべし、手眼を遍身ならしむるにはあらずと参学すべし。」 是は只「手眼」許を如此談ずるにてはなし。 「観音」の対 タイシテ v2 所 ショ 被 ヒ(カフムル) の機に 1 説法度生し給も、「観音」は能化の「菩薩」、所化の衆生のために説法すとは不可心得。 能化所化「観音」なるべし。ゆへに「観音」の「観音」を化すると可心得なり。 此故に「度生説法も如此」と云ふ。 「国土放光も如此」と云心地は、只如「度生説法」可心得となり。 所居「国土」と「観音」と「光」とを各々不心得なり。 以「観音」「放光」と談じ、「放光」の姿を「観音」と談なり。 更不可能所各別。 此道理を以て「雲巌道は遍身是手眼なるべし」とは云なり。 全「雲巖道」の「遍」は「遍身」ならしむるには非なり。 「遍身是手眼」を使用すといふとも、動容進止せしむといふとも、動著することなかれ。」 是は、「遍身是手眼を使用す」とは、此詞は「使用す」とも、打任て心得たる様に不可存と云心地なり。 「動容進止」し「動著することなかれ」とは此心なり。 〔『抄』私訳〕 「手眼の功徳は、是と認ずる見取・行取・説取あらざるべし。手眼すでに許多といふ、千にあまり、万にあまり、八万四千にあまり、無量無辺にあまる」とある。 「是と認ずる見取・行取・説取あらざる」なりとは、「手眼」の外には「見取・行取」等はないと言うのである。 「手眼すでに許多といふ」上は、「千」「万」や 「八万四千」などの一般にいう数量には関わらないという意味である。 いくらであっても数量の多少に関わるようなことでは、「許多手眼」は「用」いないのである。 「たゞ遍身是手眼...