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春の松の有があり、秋の菊の無がある『第十七恁麼』17-4-5a(正法眼蔵)

  第四段⑤ 〔『正法眼蔵』原文〕  「無智疑怪 ムチギケ 、即為永失 ソクイヨウシツ 《智無きは疑怪す、即ち為めに永く失ふ》」といふ道あり。 智かならずしも有にあらず、智かならずしも無にあらざれども、 一時の春松 シュンショウ なる有あり、秋菊 シュウキク なる無あり。 この「無智」のとき、三菩提みな疑怪 ギケ となる、尽諸法みな疑怪なり。 このとき永失即為なり。 所聞すべき道、所証なるべき法、しかしながら疑怪なり。 〔『正法眼蔵』私訳〕                                「智無き者は疑い怪しむ為に永遠に真理を失う」という言葉がある。 智は必ずしも有でもなく、必ずしも無でもないが、 ある時は春の松の有があり、秋の菊の無があるのである。 この「無智」の時、無上菩提 (この上ない悟り) は、 すべて「疑い怪しむもの」となり、すべてのものが「疑い怪しむもの」となる。 この時こそが「永失即為 (永遠に真理を失うということが無上菩提の為すところである) 」 なのである。 聞くべき道も、証すべき法も、すべてが「疑い怪しむもの」となるのである。 世界の隅々に至るまで隠れる場所はなく真理はあらわれているから、 疑い怪しむことそのものは自分がやっていることではないのである 。 春の松の有があり、秋の菊の無がある『第十七恁麼』17-4-5b(聞書抄)                             合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  
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春の松の有があり、秋の菊の無がある『第十七恁麼』17-4-5b(聞書抄)

  〔抄原文〕 「無智疑怪 ムチギケ 、即為永失 ソクイヨウシツ 《智無きは疑怪す、即ち為めに永く失ふ》」といふ道あり。智かならずしも有にあらず、智かならずしも無にあらざれども、一時の春松 シュンショウ なる有あり、秋菊 シュウキク なる無あり。この「無智」のとき、三菩提みな疑怪 ギケ となる、尽諸法みな疑怪なり。このとき永失即為なり。所聞すべき道、所証なるべき法、しかしながら疑怪なり。」   法華の文に、有智若聞、即能信解、無智疑怪、即為永失とあるを心得には、有智人なれば若聞すれば即能信解す。 無智の人なれば聞てはうたがひあやしむ故、即為永失と被嫌なり、 と多分取捨の詞に此文をば心得たるなり。 今義更非爾。先不審なる事は、法華は諸仏出世の本懐なり、衆生成仏の直道なり。 已爾前の教をば置て仏の已証を交物なく説 トキ 顕 アラワサ 被 ルゝ 経 キョウ に、有智無智ぞ永失ぞなむと、凡夫の思付たる取捨の法をばはたらかせて談ぜむや、能々可了見事なり。 此義曾不可有事なり。 然者、此智に有無の義あるべからざれども、春松なる有あり、秋菊なる無ありとは、只しばらく春松を有と云ひ、秋菊を無と云程の有無なるべし。 ゆゑに、無智の時、三菩提皆疑怪となる、尽諸法みな疑怪なりと云は、此有智無智、善悪、勝劣の法にあらざるゆゑに、無智の時、三菩提皆疑怪となるとは云な り。 尽諸法又同前、かゝるゆゑに、永失即為と云。 即為永失と云へば、猶失をいたすに似たり。 「永失」が「即為」と云時は、取捨、善悪の心地はゝなるゝなり。 如此談ずれば、今の法華の有智若聞の文は、惣善悪、取捨の法とは不被心得、 只同心なりと談なり。 ゆゑに、今は 被 嫌と心得つる疑怪の詞が、所聞の道、所証の法を皆疑怪と談ず。 日来の所談に大に違するなり。仏法の所談如此。 〔抄私訳〕 「無智疑怪 ムチギケ 、即為永失 ソクイヨウシツ 《智無きは疑怪す、即ち為めに永く失ふ》」といふ道あり。智かならずしも有にあらず、智かならずしも無にあらざれども、一時の春松 シュンショウ なる有あり、秋菊 シュウキク なる無あり。この「無智」のとき、三菩提みな疑怪 ギケ となる、尽諸法みな疑怪なり。このとき永失即為なり。所聞すべき道、所証なるべき法、しかしながら疑怪なり」とある。   『法華経』の文に、「有智若聞、即能信解、無智疑怪、即...

智はよく智に伝わり、智は直ちに智を訪ねるのである『第十七恁麼』17-4-4a(正法眼蔵)

  第四段④ 〔『正法眼蔵』原文〕  いはゆる智は、人に学せず、みづからおこすにあらず。 智よく智につたはれ、智すなはち智をたづぬるなり。 五百の蝙蝠 ヘンプク は智おのづから身をつくる。 さらに身なし、心なし。十千の游魚は智したしく身にてあるゆゑに、 縁にあらず、因にあらずといへども、聞法すれば即解するなり。 きたるにあらず、入にあらず。 たとへば、東君 トウクン の春にあふがごとし。 智は有念 ウネン にあらず、智は無念にあらず。 智は有心にあらず、智は無心にあらず。 いはんや大小にかゝはらんや、いはんや迷悟の論ならんや。 〔『正法眼蔵』私訳〕 ここで言う智は、人に学ばず、自分が作り出すものではない。 智はよく智に伝わり、智は直ちに智を訪ねるのである。 〔読経を聞いていて火に落ちて阿羅漢果を得たという〕五百匹のコウモリは、 智が自ずから身心を作っており、決してその智を離れてその身心の活動はないのである。 〔聖者が浜辺を行く杖の先に当たり、天上に生まれて解脱したという〕一万匹の魚は智が親しくその身心の活動であるから、何かの縁があるわけでもなく、何かの原因があるわけでもないけれど、聞法すれば直ぐに理解できるのである。 ほかから来たのでもなく、ほかから入るのでもない。 たとえば、春の神が春に出会う (春になると一遍に何もかも春の様子になる) ようなことである。 智は、念が有るか無いかというようなこととは関係ない。 智は、心が有るか無いかというようなこととも関係ない。 ましてや大小に関係あることではなく、迷悟の論であろうはずはないのである。                             合掌 智はよく智に伝わり、智は直ちに智を訪ねるのである『第十七恁麼』17-4-4b(聞書抄) ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村

智はよく智に伝わり、智は直ちに智を訪ねるのである『第十七恁麼』17-4-4b(聞書抄)

〔抄原文〕 「いはゆる智は、人に学せず、自ら発 オコス にあらず。 智よく智につたはれ、智すなはち智をたづぬるなり。」  全智なる道理尤如此云はるゝなり。 「五百の蝙蝠、十千遊魚事喩に被出なり。」  游魚も智したしき身にてあるに依て縁因にあらねども、聞法すればもとより智     なりつる ゆへに即解するなりと云なり。 「たとへば東君 クン の春にあふが如し。」  東君とは春の神を云歟。春が春にあふと云心なり。別物の不交所を如此云な     り。 「智は有念にあらず、智は無念にあらず。」  如文。実此智有無大小等の論にあらざるべし、勿論事なり。 〔抄私訳〕 「いはゆる智は、人に学せず、自ら発 オコス にあらず。 智よく智につたはれ、 智すなはち智をたづぬるなり」とある。  すべてが智であるという道理を、とりわけこのように述べているのである。 「五百の蝙蝠」「十千の游魚」のことが喩えとして挙げられているのである。   「游魚」も「智にしたしい」「身である」ことによって、「縁でもなく、因でも       ない」けれど、「聞法すれば」、もともと「智」であったから「即座に理解で   きる」と述べているのである。 「例えば、東君の春にあうがごとし」とある。   「東君」とは「春」の神のことである。「春」が「春」に出会うという意味で   あり、別の物が交わらない状態をこのように表現しているのである。 「智は有念にあらず、智は無念にあらず」とある。   文の通りである。実にこの「智」は「有無」「大小」などの議論ではないこと   は言うまでもないことである。 〔抄原文〕 「いはゆる智は、人に学せず、自ら発 オコス にあらず。智よく智につたはれ、 智すなはち智をたづぬるなり。」  全智なる道理尤如此云はるゝなり。 「五百の蝙蝠、十千遊魚事喩に被出なり。」  游魚も智したしき身にてあるに依て縁因にあらねども、  聞法すればもとより智なりつる ゆへに即解するなりと云なり。 「たとへば東君 クン の春にあふが如し。」  東君とは春の神を云歟。春が春にあふと云心なり。  別物の不交所を如此云なり。 「智は有念にあらず、智は無念にあらず。」  如文。実此智有無大小等の論にあらざるべし、勿論事なり。 〔抄私訳〕 「いはゆる智は、人に学せず、自ら発 オコス にあらず。智よく智につたはれ、 智すなはち...