〔『正法眼蔵』原文〕 麻谷 マヨク ・臨済に正手眼の相見あり。許多の一々なり。 雲門に見色明心 ケンシキミョウシン 、聞声悟道 モンショウゴドウ の観音あり。 いづれの声色か見聞の観世音菩薩にあらざらん。 百丈に入理の門あり、楞厳会 リョウゴンエ に円通 エンヅウ 観音あり、 法華会 ホッケエ に普門示現 フモンジゲン 観音あり。 みな与仏同参 ヨブツドウサン なり、与山河大地同参なりといへども、 なほこれ許多手眼の一二なるべし。 仁治壬寅 ジンイン 仲夏十日書写之 懐弉 エジョウ 〔『聞書抄』を組込んだ『正法眼蔵』現代的読解〕 麻谷と臨済に正手眼の問答がある。 〔麻谷が「十二面観音那箇是正手眼 (十二面観音はどれが正面ですか) 」と問い、 臨済が「阿那箇是正眼 (貴公がそれだ) 」と答えた。〕 これも雲巖の「許多の手眼 (無辺際の観音) 」の一例である。 雲門には、見色明心 (色を見て自己の心を明らめる) し、 聞声悟道 (声を聞いて仏道を悟る) する観音がある。 どんな色 (物) や声 (音) であっても、その色を見、 その声を聞いて自己の心を明らめる観世音菩薩でないものはないのである。 百丈には「観音入理の門」という言葉があり(一僧が飯鼓を聞いて大笑して帰ったのを見て、百丈が「俊なるかなこれはこれ観音入理の門 (何と素晴らしいことか、これこそが観音が真理に入る門だ) 」と言った)、 『楞厳経』には円通 (自由自在) の観音があり、 『法華経』には普門 (あらゆる方面) に示現 (姿を現わす) する観音がある。 これらの観音はすべて仏と一体となって修行し、山河大地と一体となって 修行するが、やはりこれらも「許多の手眼 (無辺際の観音) 」の一例なのである。 仁治三年壬寅 ミズノエトラ(1244年) 仲夏 (夏の中頃) にこれを書写した。懐弉 その物を見、その音を聞いて自己の心を明らめる観世音菩薩『第十八観音』18-6-6b(聞書抄) 合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村
〔『抄』原文〕 「麻谷 マヨク ・臨済に正手眼の相見あり。許多の一一なり。 雲門に見色明心 ケンシキミョウシン 、聞声悟道 モンショウゴドウ の観音あり。いづれの声色か見聞の観世音菩薩にあらざらん。」 正手眼の事追 オッテ 可決。雲門詞に「見色明心、聞声悟道」を以て観音と談ずるか。 「百丈に入理の門あり。楞厳会 リョウゴンエ に円通 エンヅウ 観音あり。法華会 ホッケエ に普門示現 フモンジゲン 観音あり。」 入理門事追可決。楞厳会とは、首楞厳経説事なり。法華会とは法華の普門品事なり。 「みな与仏同参 ヨブツドウサン なり、与山河大地同参なりといへども、なほこれ許多手眼の一二なるべし。」 是は与仏同参、与山河大地同参なりといへり、無別子細。 こゝに「なほこれ許多手眼の一二なるべし」と云へば、許多手眼はまさりて、今右に所挙真覚大師・麻谷・臨済・雲門・百丈乃至楞厳・法華等の観音は、猶許多手眼には不及、纔 ワヅカニ 一二なるべしと云やうにきこゆ、非其義。 此一二は全一全二なるべし。 非数量一二なり。 是は祖師等中に被談観音人々の詞を被挙なり。 上にも許多の一々なりとあり。 許多の一二なるゆへに非数量一二なり。 凡は一仏を讃嘆する時、自余は不斉肩義常事なり。 実にも一仏の究尽するとき、余仏皆蔵身す。 祖師讃嘆の詞も可准之歟。 いかさまにも勝劣差別の義にあらず。 能々可了見事なり。 〔『抄』私訳〕 「麻谷 マヨク ・臨済に正手眼の相見あり、許多の一一なり。 雲門に見色明心 ケンシキミョウシン 、聞声悟道 モンショウゴドウ の観音あり。いづれの声色か見聞の観世音菩薩にあらざらん」とある。 正手眼のことは追って決める。雲門の言葉で「見色明心、聞声悟道」 をもって観音と言うか。 「百丈に入理の門あり、楞厳会 リョウゴンエ に円通 エンヅウ 観音あり、 法華会 ホッケエ に普門示現 フモンジゲン 観音あり」とある。 入理の門のことは追って決める。 「楞厳会」とは、『首楞厳経 (菩薩の在り方を説く経) 』の観音円通章のことである。 「法華会」とは『法華経』の普門品のことである。 「みな与仏同参 ヨブツドウサン なり、与山河大地同参なりといへども、 なほこれ許多手眼の一二なるべし」とある。 これは仏と一体となって修行し、...