スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

その物を見、その音を聞いて自己の心を明らめる観世音菩薩『第十八観音』18-6-6a(正法眼蔵)

  〔『正法眼蔵』原文〕   麻谷 マヨク ・臨済に正手眼の相見あり。許多の一々なり。   雲門に見色明心 ケンシキミョウシン 、聞声悟道 モンショウゴドウ の観音あり。 いづれの声色か見聞の観世音菩薩にあらざらん。  百丈に入理の門あり、楞厳会 リョウゴンエ に円通 エンヅウ 観音あり、 法華会 ホッケエ に普門示現 フモンジゲン 観音あり。 みな与仏同参 ヨブツドウサン なり、与山河大地同参なりといへども、 なほこれ許多手眼の一二なるべし。  仁治壬寅 ジンイン 仲夏十日書写之 懐弉 エジョウ 〔『聞書抄』を組込んだ『正法眼蔵』現代的読解〕  麻谷と臨済に正手眼の問答がある。 〔麻谷が「十二面観音那箇是正手眼 (十二面観音はどれが正面ですか) 」と問い、 臨済が「阿那箇是正眼 (貴公がそれだ) 」と答えた。〕 これも雲巖の「許多の手眼 (無辺際の観音) 」の一例である。  雲門には、見色明心 (色を見て自己の心を明らめる) し、 聞声悟道 (声を聞いて仏道を悟る) する観音がある。 どんな色 (物) や声 (音) であっても、その色を見、 その声を聞いて自己の心を明らめる観世音菩薩でないものはないのである。  百丈には「観音入理の門」という言葉があり(一僧が飯鼓を聞いて大笑して帰ったのを見て、百丈が「俊なるかなこれはこれ観音入理の門 (何と素晴らしいことか、これこそが観音が真理に入る門だ) 」と言った)、 『楞厳経』には円通 (自由自在) の観音があり、 『法華経』には普門 (あらゆる方面) に示現 (姿を現わす) する観音がある。 これらの観音はすべて仏と一体となって修行し、山河大地と一体となって 修行するが、やはりこれらも「許多の手眼 (無辺際の観音) 」の一例なのである。  仁治三年壬寅 ミズノエトラ(1244年) 仲夏 (夏の中頃) にこれを書写した。懐弉 その物を見、その音を聞いて自己の心を明らめる観世音菩薩『第十八観音』18-6-6b(聞書抄)                           合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  
最近の投稿

その物を見、その音を聞いて自己の心を明らめる観世音菩薩『第十八観音』18-6-6b(聞書抄)

  〔『抄』原文〕 「麻谷 マヨク ・臨済に正手眼の相見あり。許多の一一なり。 雲門に見色明心 ケンシキミョウシン 、聞声悟道 モンショウゴドウ の観音あり。いづれの声色か見聞の観世音菩薩にあらざらん。」   正手眼の事追 オッテ 可決。雲門詞に「見色明心、聞声悟道」を以て観音と談ずるか。 「百丈に入理の門あり。楞厳会 リョウゴンエ に円通 エンヅウ 観音あり。法華会 ホッケエ に普門示現 フモンジゲン 観音あり。」   入理門事追可決。楞厳会とは、首楞厳経説事なり。法華会とは法華の普門品事なり。 「みな与仏同参 ヨブツドウサン なり、与山河大地同参なりといへども、なほこれ許多手眼の一二なるべし。」   是は与仏同参、与山河大地同参なりといへり、無別子細。 こゝに「なほこれ許多手眼の一二なるべし」と云へば、許多手眼はまさりて、今右に所挙真覚大師・麻谷・臨済・雲門・百丈乃至楞厳・法華等の観音は、猶許多手眼には不及、纔 ワヅカニ 一二なるべしと云やうにきこゆ、非其義。 此一二は全一全二なるべし。 非数量一二なり。 是は祖師等中に被談観音人々の詞を被挙なり。 上にも許多の一々なりとあり。 許多の一二なるゆへに非数量一二なり。 凡は一仏を讃嘆する時、自余は不斉肩義常事なり。 実にも一仏の究尽するとき、余仏皆蔵身す。 祖師讃嘆の詞も可准之歟。 いかさまにも勝劣差別の義にあらず。 能々可了見事なり。 〔『抄』私訳〕 「麻谷 マヨク ・臨済に正手眼の相見あり、許多の一一なり。 雲門に見色明心 ケンシキミョウシン 、聞声悟道 モンショウゴドウ の観音あり。いづれの声色か見聞の観世音菩薩にあらざらん」とある。   正手眼のことは追って決める。雲門の言葉で「見色明心、聞声悟道」 をもって観音と言うか。 「百丈に入理の門あり、楞厳会 リョウゴンエ に円通 エンヅウ 観音あり、 法華会 ホッケエ に普門示現 フモンジゲン 観音あり」とある。   入理の門のことは追って決める。 「楞厳会」とは、『首楞厳経 (菩薩の在り方を説く経) 』の観音円通章のことである。 「法華会」とは『法華経』の普門品のことである。 「みな与仏同参 ヨブツドウサン なり、与山河大地同参なりといへども、 なほこれ許多手眼の一二なるべし」とある。  これは仏と一体となって修行し、...

自分のこの身が如来や観音であることを実証しているのである『第十八観音』18-6-5a(正法眼蔵)

  〔『正法眼蔵』原文〕  正法眼蔵第十八観音奥書  いま仏法西来よりこのかた、仏祖おほく観音を道取するといへども、 雲巌道吾におよばざるゆゑに、ひとりこの観音を道取す。  永嘉真覚大師に、「不見一法名如来、方得名為観自在《一法を見ざるを如来と 名づく、方に名づけて観自在と為すことを得たり》」の道あり。 如来と観音と、即現此身 ソクゲンシシン なりといへども、 他身にはあらざる証明なり。 〔『聞書抄』を組込んだ『正法眼蔵』現代的読解〕  正法眼蔵第十八観音の奥書  仏法が西のインドから中国へ伝来して以来、多くの仏祖が観音について 説いてきたけれど、雲巌・道吾の問答には及ばないので、 雲巖が「千手観音は、あんなにたくさんの手と眼 (許多の手眼) を 何につかうのでしょう 」と問い、 道吾が「人が夜中に手を背にして枕を摸るようなものだ (人の夜間に手を背にして 枕子を摸するが如し) 」と答えた問答だけを選び、説いたのである。  永嘉真覚 ヨウカシンカク 大師 (六祖の法嗣) に「何ひとつとして対象としての法を見ない者を如来と呼ぶ。 まさしく観自在菩薩と名付けることができる」という言葉がある。 如来や観音がこの身となって現れると言っても、決して他の誰かの身ではなく、 自分のこの身が如来や観音であることを実証しているのである。 自分のこの身が如来や観音であることを実証しているのである『第十八観音』18-6-5b(聞書抄)                            合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  

自分のこの身が如来や観音であることを実証しているのである『第十八観音』18-6-5b(聞書抄)

  〔『抄』原文〕 正法眼蔵第十八観音奥詞 「今仏法西来より以来、仏祖多観音を道取すと云へども、 雲巖道吾に及ばざるゆへに、ひとりこの観音を道取す。」  是は無風情、雲巖・道吾の「許多手眼」「如人夜間背手摸枕子」の詞を被讃なり。 「永嘉真覚大師に、「不見一法名如来、方得名為観自在《一法を見ざるを如来と 名づく、方に名づけて観自在と為すことを得たり》」の道あり。如来と観音と、 即現此身 ソクゲンシシン なりといへども、他身にはあらざる証明なり。」  是も「不見一法名如来」の詞、打任は難心得詞なり。 「即現此身 ソクゲンシシン なりといへども、他身には非」ずといへり。 観音は等覚の菩薩、如来は果地の仏、打任は浅深ありぬべし。 然而、今所談の上は、 観音与仏さらに不可有差別、 浅深を談ずべからざるなり。 〔『抄』訳文〕 正法眼蔵第十八観音の奥書 「今仏法西来より以来、仏祖多観音を道取すと云へども、 雲巖・道吾に及ばざるゆへにひとりこの観音を道取す」とある。  これは風情無く、雲巖の「許多の手眼」と 道吾の 「人の夜間に手を背にして枕子を摸するが如し」の言葉を褒められたのである。 「永嘉真覚大師に、「不見一法名如来、方得名為観自在《一法を見ざるを如来と 名づく、方に名づけて観自在と為すことを得たり》」の道あり。如来と観音と、 即現此身 ソクゲンシシン なりといへども、他身にはあらざる証明なり」とある。  これも「一法を見ざるを如来と名づく」という言葉は、 一般には理解し難い言葉である。 「即現此身なりといへども、他身にはあらず」と言う。 観音は等覚 (仏の覚りと等しい境地) の菩薩であり、如来は仏果を得た仏であるから、普通に考えれば境地に浅深の違いがあることになるが、 ここで談ずる以上は、 観音と仏に差別はなく、 境地の浅深を談ずべきではないのである。                             合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  

諸祖が言った「無限の手眼の観音」を参究するとき、諸仏は観音の三昧を成就する『第十八観音』18-6-4a(正法眼蔵)

  〔『正法眼蔵』原文〕  いはんや雲巌の遍と道吾の通と、道得尽、道未尽にはあらざるなり。 雲巌の遍と道吾の通と比量の論にあらずといへども、 おのおの許多手眼は恁麼の道取あるべし。  しかあれば、釈迦老子の道取する観音はわづかに千手眼なり、十二面なり、 三十三身、八万四千なり。雲巌道吾の観音は「許多手眼」なり。 しかあれども、多少の道にはあらず。 雲巌道吾の許多手眼の観音を参学するとき、 一切諸仏は観音の三昧を成 ジョウ 八九成 ジョウ するなり。   正法眼蔵観音第十八   爾時 ニイジ 仁治三年壬寅 ジンイン 四月二十六日示 〔『聞書抄』を組込んだ『正法眼蔵』現代的読解〕 いわんや、 雲巖は「遍身是れ手眼」と言い、道吾は「通身是れ手眼」と言えば、 通はやはり親しく、遍は少し疎遠なように思われる。 しかし、雲巌の遍と道吾の通は、どちらも手眼の上の遍と通であるから、 勝劣はないけれども、それぞれ無限の手眼をこのように言うのである。         そうであるから、釈迦老師が説かれた観音はわずか千手千眼であり、 十二面であり、三十三身であり、八万四千である。 一方、雲巌と道吾の観音は、「無限の手眼」である。 そうであるが、これは 多い少ないを言うのではない 。 雲吾と道吾が言った「無限の手眼の観音」を参究するとき、 一切の諸仏は観音の三昧を八九成 (十成を忌む) に成就するのである。 〔諸祖が説いた「 無限の手眼の観音」 を、諸仏が参究するという言葉に 驚くかもしれないが、諸仏と諸祖の差別が無い道理も理解できるのである。〕   正法眼蔵観音第十八                            時に、仁治三年壬寅 ミズノエトラ(1242年) 四月二十六日に説いた。 諸祖が言った「無限の手眼の観音」を参究するとき、諸仏は観音の三昧を成就する『第十八観音』18-6-4b(聞書抄)                             合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村