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仏性とミミズもいずれにも留まらないものである『第十八観音』18-6-3a(正法眼蔵)

  〔『正法眼蔵』原文〕   雲巌道の「某甲祇如是 ボウコウシニョゼ 、師兄作麼生 スヒンソモサン 」は、 道吾のいふ道得八九成の道を道取せしむるがゆゑに、 「祇如是」と道取するなり。 これ不留朕迹 フリュウチンシャク なりといへども、 すなはち臂長衫袖短 ヒチョウサンシュウタン 《臂長くして衫の袖短し》 なり。 わが適来 テキライ の道を道未尽ながらさしおくを、 「某甲祇如是」といふにはあらず。 〔『正法眼蔵』読解ーー 『聞書抄』を手掛かりに 〕  道吾の「八九成に言い得たり」という言葉を 「それがしもこのように解したが、 貴公はどうか」 と雲巖が言ったのは、 道吾に「八九成に言い得たり」と言わせたから、 「それがしもこのように解した」と言ったのである。 〔それがしとは雲巖のことだと解してはいけない。 師兄(貴公)を自己の外のものだと解してはいけない。〕 これは雲巌なのか道吾なのか、いずれにも留まらない( 不留朕迹 )けれども、 別の言い方をすれば、臂は長くて袖は短い、つまり、 ただ一つのものであるがしばらく二つに言われる道理から 、 しばらく雲巌と道吾を呼び出されたのである。 〔 不留朕迹(いずれにも留まらない)は古い言葉であり、 仏性とミミズも 不留朕迹であり、どんな二つの言葉もあてはまるのである。 臂長衫袖短 《臂長くして衫の袖短し》とは、ただ一つのものであるが、 しばらく二つに言われることもある道理を言うのである。 〕 自分の先程からの言葉を十分に言い尽くせないままにしておくことを、 「自分の考えはこのようであるが、 人はどう解しているか」 と言ったのではないのである  仏性とミミズもいずれにも留まらないものである『第十八観音』18-6-3b(聞書抄)                              合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  
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仏性とミミズもいずれにも留まらないものである『第十八観音』18-6-3b(聞書抄)

  〔『抄』原文〕 「雲巌道の某甲祇如是、師兄作麼生は、道吾のいふ道得八九成の道を道取せしむるがゆゑに、祇 タダ 如是と道取するなり。これ不留朕迹 フリュウチンシャク なりといへども、 すなはち臂長衫袖短 ヒヂナガクシテサンノソデミジカキ なり。」    是は、「雲巌道の某甲祇如是」は「道吾」の「道得八九成の道」 を我も如此心得たりと云なり。 人の言葉を非不審。 「不留朕迹」とは、「雲巖」なるべきか、「道吾」なるべきか、 彼にも是にもとゞまらぬ所を「不留朕迹」と云なり。 是は古き詞なり。 仏性与蚯蚓も「不留朕迹」にあたるべし。 何詞も「不留朕迹」にあたるべし。 「臂長衫袖短」とは只一物なれども、 又しばらく二と云はるゝ事もある道理にいふなり。 たとへば無差別ことはりなれども、 暫「雲巖」与「道吾」よびいださるゝ程の事なり。 此心地を「臂長衫袖短」とは云なり。 「わが適来 シライ の道を道未尽ながらさしおくを、某甲祇如是といふにはあらず。」   如文。 所詮「雲巖」わが所存如此、人はいかに心得たるぞと云にはあらぬなり。 〔『抄』訳文〕 「雲巌道の某甲祇如是、師兄作麼生は、道吾のいふ道得八九成の道を道取せしむるがゆゑに、祇如是と道取するなり。これ不留朕迹なりといへども、すなはち臂長衫袖短 ヒヂナガクシテサンノソデミジカシ なり」とある。   これは、「雲巌道の某甲祇如是」とは「道吾」の「道得八九成の道 (八九成に言い得たりという言葉) 」を我もこのように解したと言うのである。 人の言葉を疑問に思ったのではないのである。 「不留朕迹 (跡を留めない) 」とは、「雲巌」なのか「道吾」なのか、 いずれにも留まらないところを「不留朕迹」と言うのである。 これは古い言葉であり、仏性と蚯蚓 (ミミズ) も「不留朕迹」にあたる。 どんな言葉もあたるのである。 「臂長衫袖短 (ひじは長く袖は短い) 」とは、ただ一つの物であるが、 またしばらく二つに言われることもある道理を言うのである。 たとえば、差別の無い道理 であるが、 しばらく「雲巌」と「道吾」を呼び出されたほどのことである。 この意味合いを「臂長衫袖短」と言うのである。 「わが適来 シライ の道を道未尽ながらさしおくを、某甲祇如是といふにはあらず」 とある。    文の通りである。つまるところ、雲巌が自...

一人の力で持ち上げるのは、尋常の力量を超えている『第十八観音』18-6-2a(正法眼蔵)

〔『正法眼蔵』原文〕 たとへば、尽十方界を百千万力 リキ に拈来するあらんも、 拈来せざるにはすぐるべし。 しかあるを、一力に拈来せんは、よのつねの力量なるべからず。 いま八九成のこころ、かくのごとし。 しかあるを、仏祖の「祇道得八九成」の道 ドウ をきゝては、 道得十成なるべきに、道得いたらずして八九成といふと会取 エシュ す。 仏法もしかくのごとくならば、今日にいたるべからず。 いはゆるの八九成は、百千といはんがごとし、 許多といはんがごとく参学すべきなり。 すでに八九と道取す、はかりしりぬ、 八九にかぎるべからずといふなり。 仏祖の道話、かくのごとく参学するなり。 〔『正法眼蔵』読解ー『聞書抄』を手掛りに〕 たとえば、十方世界全てを百人や千人や万人の力で ようやく持ち上げることができたとしても、持ち上げないよりは優れている。 そうであるが、 百人や千人あるいは十人や二十人でようやく持ち上げられるようなものを、 一人の力で持ち上げるのは、 まさに尋常の力量を超えている。 今の八九成の意味もこれと同じである。 ところが、仏祖〔道吾〕の「ただ八九成を言い得た」という言葉を聞いて、 十分に言い得るべきなのに、言葉が至らなくて八九成と言っていると解してしまう。 〔これは八九成を不足だとする偏った見方である。〕 仏法がもしそのようなものであるなら、 今日まで至ることはなかったであろう。 ここで言う八九成は、百や千と言うようなことであり、 たくさんというようなことであると学ばなければならない。 すでに八九成と言ったのであるから、知るがよい、 八や九の数に限られるものではないと言うのである。 仏祖が示す言葉は、このように参学するのである。 一人の力で持ち上げるのは、尋常の力量を超えている『第十八観音』18-6-2b(聞書抄)                              合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  

一人の力で持ち上げるのは、尋常の力量を超えている『第十八観音』18-6-2b(聞書抄)

  〔『抄』原文〕 「たとへば、尽十方界を百千万力に拈来するあらんも、拈来せざるにはすぐるべし。しかあるを、一力に拈来せんは、よのつねの力量なるべからず。いま八九成のこころ、かくのごとし。   「百千」人乃至十二十人して持べからむ物を、一人してもちあげむ「力量」、実尋常の「力量」に超過すべし。 「八九成」の道も是程の事なりと云なり。 「しかあるを、仏祖の祇道得 シドウトク 八九成の道をききては、道得十成なるべきに、道得いたらずして八九成といふと会取す。仏法もしかくのごとくならば、今日にいたるべからず。」   如文。「八九成」の詞を不足なりと打任て心得たる僻見を被嫌なり。 「いはゆるの八九成は、百千といはんがごとし、許多といはんがごとく参学すべきなり。」   是又如文。此「八九成は百千と云はむが如し、許多といはんがごとし」とあり、始には数量にかゝはるべからずとあり、ここには「百千」乃至「許多」と云はむが如く可参学なりと云へば、参差したるやうに聞ゆ。 但始の心地は、「百千万」は多く「八九成」のすくなき心地を謝せむとて、「不可拘数量」とは云なり。 今は「許多」の道理の上は、「百千万」とも「許多」とも云はむ、さらに又其失あるべからざるなり。 「すでに八九成と道取す、はかりしりぬ、八九にかぎるべからずといふなり。」   是は、「八」とも「九」とも云はゞ、 一に治定 ヂャウ しぬる心地もありぬべし。 「八九」とうけぬる上は、先数量にとゞまらざる詞とはしりぬべし。 常の詞にも、明日、明後日なむと云ふは、 一定其日と定めたる詞にはあらず。 所詮、ひしと定まりたる心地にはあらざるなり。 〔『抄』訳文〕 「たとへば、尽十方界を百千万力に拈来するあらんも、拈来せざるにはすぐるべし。しかあるを、一力に拈来せんは、よのつねの力量なるべからず。いま八九成のこころ、かくのごとし」とある。  「百人千人」あるいは十人や二十人でようやく持ちあげられるようなものを、たった一人で持ち上げる「力量」は、 まさに尋常の「力量」を超えている。 「八九成 (八九割の出来) 」の言葉もこれほどのことであると言うのである。 「しかあるを、仏祖の祇道得 シドウトク 八九成の道をききては、道得十成なるべきに、道得いたらずして八九成といふと会取す。仏法もしかくのごとくならば、今日にいたるべからず」とある。 ...

道吾:ただ八九成を言い得たり 『第十八観音』18-6-1a(正法眼蔵)

第六段 〔『正法眼蔵』原文〕   道吾道取す、「道也太殺道 ドウヤタイサイドウ 、祇道得 シドウトク 八九成 ジョウ 」。   いはくの宗旨 シュウシ は、道得は「太殺道」なり。 太殺道といふは、いひあていひあらはす、 のこれる未道得なしといふなり。 いますでに未道得のつひに道不得 ドウフトク なるべきのこりあらざるを 道取するときは、「祇道得八九成」なり。   いふ意旨の参学は、たとひ十成なりとも、 道未尽なる力量にてあらば参究にあらず。 道得は八九成なりとも、道取すべきを八九成に道取すると、 十成に道取するとなるべし。 当恁麼の時節に、百千万の道得に道取すべきを、力量の妙なるがゆゑに、 些子 サシ の力量を挙して、わづかに「八九成」に道得するなり。 〔『聞書抄』を手掛かりにした『正法眼蔵』読解〕  道吾は言った、「言うことははなはだ言えり、ただ八九割 (八九成) を言い得たり」。   言う主旨は、「言うのは大変うまく言った」というのである。 「大変うまく言った」とは、言い当て、言い表して、 言い残したことはないというのである。 もはや言い尽くして、言い残しのないように言ったときは、 「ただ八九割を言い得たり」と言うのである。 〔「ただ八九割を言い得たり」とは「十成(十割)を忌む」ためにこう言うのであり、 これは雲巖の「遍身是れ手眼」を讃嘆しているのである。〕                       言うところの趣旨は、たとえ言葉が十割の出来であって も、 まだ言い尽くすことができない力量であるならば、意味をなさない。 八九割の出来 (八九成) であっても、言うべきことの八九割を言う力量があるなら、 八九割の出来の言葉も十割の出来で言うことと同じな である。 まさにこのようなときに、百千万の言葉で言うべきことを、 力量がすぐれているので、少ない力量で、 わずかに八九割を言い得るのである。 道吾:ただ八九成を言い得たり 『第十八観音』18-6-1b(聞書抄)                              合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村 ...