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初祖の大恩に報恩感謝することは、 一日の行持をつとめることである『第十六行持下』16下-8-2

  〔『正法眼蔵』私訳〕 しづかにおもふべし、正法よに流布 ルフ せざらんときは、 身命を正法のために抛捨 ホウシャ せんことをねがふともあふべからず。 正法にあふ今日のわれらをねがふべし、 正法にあうて身命をすてざるわれらを慚愧 ザンキ せん。 はづべくは、この道理をはづべきなり。 しかあれば、祖師の大恩を報謝せんことは、一日の行持なり。 自己の身命をかへりみることなかれ。 禽獣 キンジュウ よりもおろかなる恩愛、をしんですてざることなかれ。 たとひ愛惜 アイジャク すとも、長年 チョウネン のともなるべからず。 あくたのごとくなる家門、たのみてとゞまることなかれ。 たとひとゞまるとも、つひの幽棲にあらず。 むかし仏祖のかしこかりし、みな七宝千子 シッポウセンシ をなげすて、 玉殿朱楼をすみやかにすつ。 涕唾 テイダ のごとくみる、糞土 フンド のごとくみる。 これらみな、古来の仏祖の古来の仏祖を報謝しきたれる知恩報恩の儀なり。 病雀 ビョウジャク なほ恩をわすれず、三府の環よく報謝あり。 窮亀 キュウキ なほ恩をわすれず、余不 ヨ付 の印 イン よく報謝あり。 かなしむべし、人面 ニンメン ながら畜類よりも愚劣ならんことは。 〔『正法眼蔵』私訳〕 静かに考えてみよ、正法が世に流布していない時は、身命を正法のために 投げ捨てようと望んでも、正法に会うことはできないのである。 (しづかにおもふべし、正法よに流布せざらんときは、 身命を正法のために抛捨せんことをねがふともあふべからず。)           正法に会う今日の自分を願うべきである。 (正法にあふ今日のわれらをねがふべし。)          正法に会っていながら身命を正法のために捨てない自分を慚愧すべきである。 (正法にあうて身命をすてざるわれらを慚愧せん。)                                         恥じるなら、この道理を恥じるべきである。 (はづべくは、この道理をはづべきなり。)        だから、初祖の大恩に報恩感謝することは、 一日の行持をつとめることである。 (しかあれば、祖師の大恩を報謝せんことは、一日の行持なり。)                  自分の身命を顧みて行持をつとめないことがあってはならない。 (自己の身命をか...
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香厳禅師:この身が墓の中のチリとなることを知らない『第十六行持下』16下-8-1

  〔『正法眼蔵』原文〕   香厳禅師いはく、   百計千方只為身、    《百計 ヒャクケイ 千方 センボウ 只身の為なり、   不知身是塚中塵。      知らず、身は是れ塚の中の塵なること。   莫言白髪無言語、     言ふこと莫れ白髪に言語 ゴンゴ 無しと、   此是黄泉伝語人。     此れは是れ黄泉伝語 コウセンデンゴ の人なり。》 しかあればすなはち、をしむにたとひ百計千方をもてすといふとも、 つひにはこれ塚中一堆 チョウチュウイッタイ の塵 チリ と化 ケ するものなり。 いはんやいたづらに小国の王民につかはれて、東西に馳走 チソウ するあひだ、 千辛万苦 センシンバンク いくばくの身心をかくるしむる。 義によりては身命をかろくす、殉死 ジュンシ の礼わすれざるがごとし。 恩につかはるゝ前途、たゞ暗頭 アントウ の雲霧なり。 小臣につかはれ、民間に身命をすつるもの、むかしよりおほし。 をしむべき人身なり、道器となりぬべきゆゑに。 いま正法にあふ、百千恒沙 ゴウシャ の身命をすてても正法を参学すべし。 いたづらなる小人 ショウニン と、広大深遠 ジンノン の仏法と、 いづれのためにか身命をすつべき。 賢不肖ともに進退にわづらふべからざるものなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 香厳智閑禅師は言った、 (香厳禅師いはく、)   ありとあらゆる手立てを巡らすことはただ我が身のためであるが、    (百計千方只身の為なり、)      この身が墓の中のチリとなることを知らない。      ( 知らず、身は是れ塚の中の塵なること。)      白髪の人には言葉などないと、言ってはならない、    (言ふこと莫れ白髪に言語 ゴンゴ 無しと、)      彼は冥土の言づてを持ってくる人である。    (此れは是れ黄泉伝語の人なり。)   そうであるから、我が身を惜しんでたとえありとあらゆる手立てを尽くしたとしても、結局は墓の中の一塊の土となってしまうものである。 (しかあればすなはち、をしむに、たとえ百計千方をもてすといふとも、 つひにはこれ塚中一堆の塵と化するものなり。)                    まして徒に小国の王の民に使われ、あちこち駆けずり回って、 艱難辛苦に耐えどれほど身心を苦しめるというのか。 (いはんやいたづらに小...

過去世において正法を学び坐禅をつとめた種子『第十六行持下』16下-7

  〔『正法眼蔵』原文〕  また真丹国 インタンコク にも、祖師西来よりのち、 経論に倚解して、正法をとぶらわざる僧侶おほし。 これ経論を披閲すといへども経論の旨趣にくらし。 この黒業は今日の業力のみにあらず、宿生の悪業力なり。 今生つひに如来の真訣をきかず、如来の正法をみず、 如来の面授にてらされず、如来の仏心を使用せず、 諸仏の家風をきかざる、かなしむべき一生ならん。 隋・唐・宋の諸代、かくのごときのたぐひおほし、ただ宿殖般若の種子ある人は、不期に入門せるも、あるは算沙の業を解脱して、祖師の遠孫となれりしは、ともに利根の機なり、上上の機なり、正人の正種なり。 愚蒙のやから、ひさしく経論の草庵に止宿するのみなり。 しかあるに、かくのごとくの嶮難あるさかひを辞せずといはず、 初祖西来する玄風、いまなほあふぐところに、われらが臭皮袋を、 をしんでつひになににかせん。  〔『正法眼蔵』私訳〕  また中国でも、初祖がインドから来た後でも、経典や論書の研究だけしていて、初祖が伝えた仏祖正伝の法、つまり坐禅を学ばない僧侶が多くいた。 (また真丹国にも、祖師西来よりのち、経論に倚解して、正法をとぶらわざる僧侶おほし。) これらの人は、経典や論書を開いて読んでも、その真意に暗かった。 (これ経論を披閲すといへども経論の旨趣にくらし。) このように正法を学ぶことが出来ない悪業は今生の業の報いだけではなく、 過去世の悪業の報いである。 (この黒業は今日の業力のみにあらず、宿生の悪業力なり。) 今生で結局如来の真意を聞かず、如来の正法を見ず、 如来の面授 (師と弟子が目の当たりに相い対して親しく正法を授受すること) に会わず、 如来の仏心を用いず、諸仏の教えを聞かない (この身が諸仏の教えにならない) のは、悲しむべき一生である。 (今生つひに如来の真訣をきかず、如来の正法をみず、如来の面授にてらされず、 如来の仏心を使用せず、諸仏の家風をきかざる、かなしむべき一生ならん。)   隋、唐、宋の時代に、このような人たちは多かった。 過去世において正法を学び坐禅をつとめた種子 シュウジ (すべての現象を生じさせる力) のある人は、思いがけず仏門に入った者も、 あるいは砂を算えるような経論の学問を止めて初祖の法孫となった者も、 ともに優れた資質の人であり、最上の人であり、正しい仏の...

己の悪業に引かれて他国をさまようのである『第十六行持下』16下-6-2

  〔『正法眼蔵』原文〕  梁の普通よりのち、なほ西天にゆくものあり、それなにのためぞ。 至愚のはなはだしきなり。 悪業 アクゴウ のひくによりて、他国に跉跰するなり。 歩々に謗法 ホウボウ の邪路におもむく、歩々に親父 シンプ の家郷を逃逝 トウゼイ す。 なんだち西天にいたりてなんの所得かある。 たゞ山水に辛苦するのみなり。 西天の東来する宗旨を学せずは、仏法の東漸 トウゼン をあきらめざるによりて、いたづらに西天に迷路するなり。 仏法をもとむる名称 ミョウショウ ありといへども、仏法をもとむる道念なきによりて、西天にしても正師 ショウシ にあわず、いたずらに論師経師にのみあへり。 そのゆゑは、正師は西天にも現在せれども、正法をもとむる正心 ショウシン なきによりて、正法なんだちが手にいらざるなり。 西天にいたりて正師をみたるといふたれか、その人いまだきこえざるなり。 もし正師にあはば、いくそばくの名称をも自称せん。 なきによりて自称いまだあらず。 〔『正法眼蔵』私訳〕  初祖が西来した梁の普通年間からのちも、依然として西方インドに行く者がいたが、一体何のためか、愚かにもほどがある。 (梁の普通よりのち、なほ西天にゆくものあり、それなにのためぞ、至愚のはなはだしきなり。) 己の悪業に引かれて他国をさまようのである。 (悪業のひくによりて他国に跉跰するなり。) 一歩一歩、正法を謗る邪路に向かい、 一歩一歩、父親の故郷から逃げていくのである。 (歩歩に謗法の邪路におもむく、歩歩に親父の家郷を逃逝す。) お前達は西天に行って何を得たというのか、 ただ山を登り河を渡り旅で苦労したでけである。 (なんだち西天にいたりてなんの所得かある、ただ山水に辛苦するのみなり。) 西天の仏法が東方に来た真意を学ばないのは、 仏法の東漸をあきらめないからであり、徒に西天で路に迷うだけである。 (西天の東来する宗旨を学せず、仏法の東漸をあきらめざるによりて、いたづらに西天に迷路するなり。) 仏法を求める名誉の称号があるといっても、仏法を求める道心がないから、西天に行っても正師に会わず、意味もなく論師や経師にだけ会うのである。 (仏法をもとむる名称ありといへども、仏法をもとむる道念なきによりて、 西天にしても正師にあはず、いたづらに論師経師にのみあへり。) その理由 ワケ ...