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一つでも寂静であれば、あらゆるものはみな寂静である『第十七恁麼』17-3-3a(正法眼蔵)

  第三段③ 〔『正法眼蔵』原文〕  しかあるを、仏道の嫡嗣 テキシ に学しきたれるには、 無上菩提正法眼蔵、 これを寂静といひ、無為といひ、三昧といひ、陀羅尼 ダラニ といふ道理は、 一法わづかに寂静なれば、万法ともに寂静なり。 風吹 フウスイ 寂静なれば鈴鳴 リンメイ 寂静なり。 このゆゑに「倶寂静」といふなり。 心鳴は風鳴にあらず、心鳴は鈴鳴にあらず、心鳴は心鳴にあらずと道取するなり。 親切の恁麼なるを究辨 キュウベン せんよりは、さらにたゞいふべし、 「風鳴なり」、「鈴鳴なり」、「吹鳴なり」、「鳴々なり」ともいふべし。 「何愁 ガシュウ 恁麼事」のゆゑに恁麼あるにあらず、 何関 ガカン 恁麼事なるによりて恁麼なるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕  ところが、仏道を正しく受け継いだ人に学んできた人は、 無上菩提正法眼蔵 (この上ないさとり) 、 これを寂静と言い、無為 (因果を離れた不生不滅のありよう) と言い、三昧 (寂静無為の本性を体験すること) と言い、陀羅尼 ダラニ(善法を保持すること) と言うのである。 その道理は、わずか一つでも寂静であれば、あらゆるものはみな寂静であるということである。 風が吹くのが寂静ならば、鈴が鳴るのも寂静であるから、「倶に寂静」と言うのである。 心鳴 (実物の音) は風鳴 (風が鳴るという思い) ではない、心鳴は鈴鳴 (鈴が鳴るという思い) ではない、 心鳴は心鳴だと説明する必要はないほどはっきりしていると言っているのである。 実物が最も親しく真実であることを究め尽くした後は、さらに ただ「風が鳴る」、「鈴が鳴る」、「吹が鳴る」、「鳴が鳴る」と言えるであろう。 「恁麼の事 (その時にその事がそのようにあるありようの事) を愁える必要はない」から 恁麼 (かくの如く) あるのではない、 恁麼の事は自分がどうするというものではないから、 恁麼 (かくの如く) あるのである。                               合掌 一つでも寂静であれば、あらゆるものはみな寂静である『第十七恁麼』17-3-3b(聞書抄) ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       ...
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一つでも寂静であれば、あらゆるものはみな寂静である『第十七恁麼』17-3-3b(聞書抄)

  〔抄原文〕 「何愁 シウ 恁麼事 ナンソウレエムイムモノシヲ のゆゑに恁麼あるにあらず、何 関 恁麼事なるによりて恁麼なるなり。」  是は、「何愁恁麼事」と云へば、只一筋に恁麼なれば、なむぞ恁麼の事を愁む    と許云たるやうにきこゆるを、「何関恁麼事なるによりて恁麼なるなり」とは、 風鳴なるべきか、鈴鳴なるべきか、心鳴なるべきか、いづれにあづかるべきぞと暫うけたる言葉なり、非不審。 「何」字如例いづれにもあたるべきなり。 説似一物即不中理なり。 〔抄私訳〕 「なんぞ恁麼事をうれへん」のゆゑに恁麼あるにあらず、「なんぞ恁麼事に関わらん」なるによりて恁麼なるなり」とある。  これは「なんぞ恁麼事をうれへん」と言えば、ただひたすら恁麼であれば、 どうして「恁麼事を愁えることがあろうか」とばかり言っているように思わ れるが、 「なんぞ恁麼事に関わらんなるによりて恁麼なるなり」とは、 「風が 鳴る」のか、「鈴が鳴る」のか、「心が鳴る」のか、どれに関わるのか、とし ばらく受けとめた言葉であり、不審しているのではない。  「何」という字は、例のように何にでも当てはまるのである。 「一物を説似す れども即ち中らず」という道理である。 〔聞書原文〕 /「親切の恁麼なるを究辨せむよりは」と云は、後 ノチ を勝たりと云はむとするには非ず。親切の恁麼ならむ時より後は、風鳴、鈴鳴、吹鳴、鳴々と云うべしとなり。 /「親切の恁麼なるを究辨せむよりは、さらにたゞいふべし」といふとあれば、「親切の恁麼なるを究辨」せりよりこのかたと心得るなり。さればこそ、吹鳴、鳴々と云ふ言葉も やすく云はるれ。自 ミツカラ 究辨 キウハム とは心得まじ。 /「何愁恁麼事のゆゑに恁麼あるにあらず」と云は、欲得恁麼事が恁麼人とも既是恁麼人とも、今、何愁とも言わるゝときに、何愁と云より恁麼と心得べからずとなり。 /「何関恁麼事」と云は、会不会恁麼ならずと云事なし。その上は、実に何をかあづから むとなり。又、「関」とあるは、風鳴、鈴鳴、心鳴なむと云をあげて、何関恁麼事とも云うべし。 〔聞書私訳〕 /「親切の恁麼なるを究辨せむよりは」とは、〔実物が最も親しく真実であることを究め尽くした〕後を勝れていると言おうとしているのではない。 「親切の恁麼」である時から後は、「風が鳴る」「鈴が鳴る」「吹が鳴る」「鳴が鳴る」と...

風が鳴るのではないところで、自分の心が鳴る『第十七恁麼』17-3-2a(正法眼蔵)

  第三段② 〔『正法眼蔵』原文〕  これは、風 フウ の鳴 メイ にあらざるところに、我心鳴 ガシンメイ を学す。 鈴 リン のなるにあらざるとき、我心鳴を学す。 我心の鳴はたとひ恁麼なりといへども、倶寂静 グジャクジョウ なり。  西天より東地につたはれ、古代より今日にいたるまで、 この因縁を学道の標準とせるに、あやまるたぐひおほし。  伽耶舍多の道取する、「風のなるにあらず、鈴のなるにあらず、心の鳴なり」 といふは、能聞 ノウモン の恁麼時の正当 ショウトウ に念起あり、この念起を心 シン といふ。 この心念もしなくば、いかでか鳴響を縁ぜん。 この念によりて聞 モン を成ずるによりて、聞の根本といひぬべきによりて、 「心のなる」といふなり。 これは邪解なり、正師のちからをえざるによりてかくのごとし。 たとへば、依主隣近 エシュリンゴン の論師 リンジ の釈のごとし。 かくのごとくなるは仏道の玄学 ゲンガク にあらず。 〔『正法眼蔵』私訳〕  これは、風が鳴るのではないところで、自分の心が鳴ることを学び、 鈴が鳴るのではないとき、自分の心が鳴ることを学ぶのである。 自分の心が鳴るのはたとえ恁麼 (かくの如し) であっても、「倶に寂静」である。  インドから中国に伝わり、昔から今日に至るまで、 この公案を仏道を学ぶ標準としてきたが、誤って理解している人が多い。  伽耶舎多が言う、「風が鳴るのではありません、鈴が鳴るのでもありません、心が鳴るのです」とは、聞く人がその瞬間 (能聞の恁麼時の正当) 鳴ったという思いが起こるのであり 、 この思いが起こること (その音に気づいた様子) を心と言うのである。 この心の中で思うことがなければ、どうして鳴る響きを生じさせることができようか (縁ぜん) 。 この思うこと (念) によって聞こえるのであるから (聞を成ずるによりて) 、聞くはたらきの根本は心だときっと言うであろうから、「心が鳴る」と言うのである。 しかしこれは誤った解釈である。 正しい師の教えを受けていないから、このようなのである。 たとえば、依主釈 (主概念と従属概念との関係で解釈する:心が主で念が臣) や 隣近釈 (近接概念で解釈する:念は心のはたらき) の論師の解釈のようである。 このようなことは仏道の奥深い学びではないのである。  ...

風が鳴るのではないところで、自分の心が鳴る『第十七恁麼』17-3-2b(聞書抄)

  「聞書原文」 /「依主隣近 エシュリンゴム 」と云は、法相宗の名目なり。 喩ば、山ちかければ山家と云ひ、水ちかければ水郷 キョウ と云はむか如し、 心が主なれば鈴をも風をも心とこそ云はめと云ふ。 法相の心なるべし、不可然。 「聞書私訳」  /「依主隣近 エシュリンゴン 」とは、法相宗で用いる用語である。 たとえば、山が近ければ山の家 と言い、 水が近ければ水の郷と言うようなことであり (これが隣近釈である) 、 心が主であれば鈴も風も心である (これが依主釈である) と言う。 法相宗の考えであるが、これはそうではない 。                             合掌                       ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村