〔『正法眼蔵』原文〕 大慈寰中禅師 ダイジカンチュウ ゼンジ いはく、 「説得 セットク 一丈、不如 フニョ 行取 ギョウシュ 一尺。 説得一尺、不如行取一寸」。 《一丈を説得せんよりは、一尺を行取せんに如 シ かず。 一尺を説得せんよりは、一寸を行取せんに如かず》 これは、時人 ジニン の行持おろそかにして、仏道の通達をわすれたるがごとくなるをいましむるににたりといへども、一丈の説は不是 フセ ゙とにはあらず、一尺の行 ギョウ は一丈説よりも大功 ダイコウ なるといふなり。 なんぞたゞ丈尺の度量のみならん、 はるかに須弥 シュミ と芥子 ケシ との論功もあるべきなり。 須弥に全量あり、芥子に全量あり。 行持の大節 ダイセツ 、これかくのごとし。 いまの道得は、寰中の自為道 ジイドウ にあらず、寰中の自為道なり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 大慈寰中禅師は言う、「一丈を説くよりも、一尺を行ずる方がよい。 一尺を説くよりも、一寸を行ずる方がよい」。 (大慈寰中禅師、いわく、「説得一丈、不如行取一尺。説得一尺、不如行取一寸 《一丈を説得せんよりは、一尺を行取せんに如 シ かず。一尺を説得せんよりは、一寸を行取せんに如かず》 」。) これは、当時の人の行持がおろそかであり仏道に通達することを忘れたかのようであるのを戒めているようであるが、一丈を説くことはいけないというのではない。一尺を行ずることは一丈を説くことよりも大きな功徳であると言うのである。 (これは、時人の行持、おろそかにして仏道の通達をわすれたるがごとくなるをいましむるににたりといへども、一丈の説は不是とにはあらず、一尺の行は一丈の説よりも大功なり、というなり。) どうしてただ丈尺の量の比較だけであろうか、 遙かに量が違う須弥山と芥子粒の功徳を論じることもあるべきである。 (なんぞたゞ丈尺の度量のみならん、はるかに須弥と芥子との論功もあるべきなり。) 須弥山には須弥山で全世界を尽くす功徳がある、 芥子粒には芥子粒で全世界を尽くす功徳がある。 (須弥に全量あり、芥子に全量あり。) 行持の大事なところとは、このようなことである。 (行持の大節、これかくの...
〔『聞書』私訳〕 /「一尺を説得せんよりは、一寸を行取せんに如かずせんに如かず。 一尺を説得せんよりは、一寸を行取せんに如かず」。 「これは、時人の行持おろそかにして、仏道の通達をわすれたるがごとくなるをいましむるににたりといへども、一丈の説は不是とにはあらず、一尺の行は一丈説よりも大功なるといふなり」というのは、「説」は「行」を離れず、「証」は「行」を離れないということである。 皮肉骨髄を四人の得道者にあてるとき、髄を得た者が特に勝っているというわけではない。ただ教行証が同じであるように、皮肉骨髄も同じなのである。 この「説」「行」はまったく同じと理解するところを、教家あるいは世間では、「説」を別のことと見て、行じないことは気を損ない益がないなどというが、そういうことではない。 また、理を説く者は多く、理を行ずる者は少ないなどとも言う。これらは「説」と「行」を各別のものとして立てるのである。そうであるから「証」も「行」も共に功徳があるのである。 /多聞をすすめ、多聞を斥けることがある。『華厳経』に言う、「譬えば、貧窮の人の日夜に他の宝を数え、自らは半銭の分も無きが如し、多聞も亦是の如し」と。これは多聞を斥ける意である。ただ聞くことだけを好んで、仏道のすべてを明らかにしない咎 トガ である。 「もし仏道を求めんと欲せば、常に多聞の人に随うべし、善知識は、これ大因縁、いわゆる化導して見仏をえせしむ」と。これは多聞をとる方である。 「一尺の行は一丈説よりも大功なり」というのは、これも「行」が勝っている意味合いであるが、仏法では仏は殊に勝れていると説くけれども、この仏は劣っていると説くことがないように、「大功なり」と言うのであり、「説」を小功とするのではない。また「丈」「尺」によらないところを、そのまま「大功」と使うわけがあるのである。 /三業は、身口意の三業である。ただし、身口意は各別ではないが、自我に対するときは身口意が各別に思われる。無我のときは、尽十方界の一隻眼とも、尽十方界の家常語とも言うときは、身の外に口を残し、口の外に意を置くことがないように、「説」...