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智はよく智に伝わり、智は直ちに智を訪ねるのである『第十七恁麼』17-4-4a(正法眼蔵)

  第四段④ 〔『正法眼蔵』原文〕  いはゆる智は、人に学せず、みづからおこすにあらず。 智よく智につたはれ、智すなはち智をたづぬるなり。 五百の蝙蝠 ヘンプク は智おのづから身をつくる。 さらに身なし、心なし。十千の游魚は智したしく身にてあるゆゑに、 縁にあらず、因にあらずといへども、聞法すれば即解するなり。 きたるにあらず、入にあらず。 たとへば、東君 トウクン の春にあふがごとし。 智は有念 ウネン にあらず、智は無念にあらず。 智は有心にあらず、智は無心にあらず。 いはんや大小にかゝはらんや、いはんや迷悟の論ならんや。 〔『正法眼蔵』私訳〕 ここで言う智は、人に学ばず、自分が作り出すものではない。 智はよく智に伝わり、智は直ちに智を訪ねるのである。 〔読経を聞いていて火に落ちて阿羅漢果を得たという〕五百匹のコウモリは、 智が自ずから身心を作っており、決してその智を離れてその身心の活動はないのである。 〔聖者が浜辺を行く杖の先に当たり、天上に生まれて解脱したという〕一万匹の魚は智が親しくその身心の活動であるから、何かの縁があるわけでもなく、何かの原因があるわけでもないけれど、聞法すれば直ぐに理解できるのである。 ほかから来たのでもなく、ほかから入るのでもない。 たとえば、春の神が春に出会う (春になると一遍に何もかも春の様子になる) ようなことである。 智は、念が有るか無いかというようなこととは関係ない。 智は、心が有るか無いかというようなこととも関係ない。 ましてや大小に関係あることではなく、迷悟の論であろうはずはないのである。                             合掌 智はよく智に伝わり、智は直ちに智を訪ねるのである『第十七恁麼』17-4-4b(聞書抄) ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村
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智はよく智に伝わり、智は直ちに智を訪ねるのである『第十七恁麼』17-4-4b(聞書抄)

〔抄原文〕 「いはゆる智は、人に学せず、自ら発 オコス にあらず。 智よく智につたはれ、智すなはち智をたづぬるなり。」  全智なる道理尤如此云はるゝなり。 「五百の蝙蝠、十千遊魚事喩に被出なり。」  游魚も智したしき身にてあるに依て縁因にあらねども、聞法すればもとより智     なりつる ゆへに即解するなりと云なり。 「たとへば東君 クン の春にあふが如し。」  東君とは春の神を云歟。春が春にあふと云心なり。別物の不交所を如此云な     り。 「智は有念にあらず、智は無念にあらず。」  如文。実此智有無大小等の論にあらざるべし、勿論事なり。 〔抄私訳〕 「いはゆる智は、人に学せず、自ら発 オコス にあらず。 智よく智につたはれ、 智すなはち智をたづぬるなり」とある。  すべてが智であるという道理を、とりわけこのように述べているのである。 「五百の蝙蝠」「十千の游魚」のことが喩えとして挙げられているのである。   「游魚」も「智にしたしい」「身である」ことによって、「縁でもなく、因でも       ない」けれど、「聞法すれば」、もともと「智」であったから「即座に理解で   きる」と述べているのである。 「例えば、東君の春にあうがごとし」とある。   「東君」とは「春」の神のことである。「春」が「春」に出会うという意味で   あり、別の物が交わらない状態をこのように表現しているのである。 「智は有念にあらず、智は無念にあらず」とある。   文の通りである。実にこの「智」は「有無」「大小」などの議論ではないこと   は言うまでもないことである。 〔抄原文〕 「いはゆる智は、人に学せず、自ら発 オコス にあらず。智よく智につたはれ、 智すなはち智をたづぬるなり。」  全智なる道理尤如此云はるゝなり。 「五百の蝙蝠、十千遊魚事喩に被出なり。」  游魚も智したしき身にてあるに依て縁因にあらねども、  聞法すればもとより智なりつる ゆへに即解するなりと云なり。 「たとへば東君 クン の春にあふが如し。」  東君とは春の神を云歟。春が春にあふと云心なり。  別物の不交所を如此云なり。 「智は有念にあらず、智は無念にあらず。」  如文。実此智有無大小等の論にあらざるべし、勿論事なり。 〔抄私訳〕 「いはゆる智は、人に学せず、自ら発 オコス にあらず。智よく智につたはれ、 智すなはち...

六祖の昔は新州の木こりであった『第十七恁麼』17-4-3a(正法眼蔵)

第四段③ 〔『正法眼蔵』原文〕  六祖のむかしは新州の樵夫 ショウフ なり。 山をもきはめ、水をもきはむ。 たとひ青松 セイショウ のもとに功夫して根源を截断 セツダン せりとも、 なにとしてか明窓 メイソウ のうちに従容 ショウヨウ して、照心の古教ありとしらん。 澡雪 ソウセツ たれにかならふ。 いちにありて経をきく、これみづからまちしところにあらず、 他のすゝむるにあらず。 いとけなくして父を喪 ソウ し、長じては母をやしなふ。 しらず、このころもにかゝれりける一顆珠の乾坤 ケンコン を照破することを。 たちまちに発明 ハツメイ せしより、老母をすてて知識をたづぬ、 人のまれなる儀なり。 恩愛 オンナイ のたれかかろからん。 法をおもくして恩愛を軽ろくするによりて棄恩せしなり。 これすなはち「有智若聞、即能信解 《智有るもの若し聞かば、即ち能く信解す》の道理なり。   〔『正法眼蔵』私訳〕  六祖は、昔は新州の木こりであった。 深い山中で、山や谷川の水をも極めるような生活を送っていた。 たとえ山中の青松の下で修行しあらゆる世俗的な考え方を断ち切ったとしても、 どうして明るい窓辺でゆったりと落ち着き、 心を照らす古 イニシエ の教えの存在を 知ることができたであろうか。 また身心を絶え間なく磨きあげる修行方法を、 一体誰に習うことができたであろうか。 ある日、市場で僧がお経を読んでいるのを偶然耳にしたが、 それは自分が期待していたものでも、誰かに勧められたものでもなかった。 幼い頃に父を亡くし、成長してからは母を養った。 この頃、自分の身心に備わっていた一顆の珠 (一個の光り輝く珠) が、 天地を照らす力を持っていることに気づいていなかった。 しかし突然、自分の身心の真相が明らかになると、 老いた母を置いて善知識を訪ねた。 これは世にも稀な行いであった。 親子の恩愛が軽いなどということは決してないが、 それでも恩愛を捨て出家したのは、仏法を重んじ恩愛を軽くすることは、 それに比べれば軽いものとしたからである。 これこそ、「智有るもの若し聞かば、即ち能く信解す (智ある者がもし聞けば、 すぐに理解し信ずるであろう) 」という道理に他ならないのである。                             合掌 六祖は、昔は新州の木こりであった『第十七恁...

六祖の昔は新州の木こりであった『第十七恁麼』17-4-3b(聞書抄)

  〔聞書原文〕 /古教ありとしらんと云ふ。 是は、古教照心と云ふるき詞あり、近代の禅僧は祖師の言句を 推度 スイタク(オシハカル) する事あるべからず、はじめてわれとこそ法をば得れと云ふ。 尤古教照心の義にはそむくべし。 仏の言句、祖師の語話 ゴワ をこそ、よくよく校合 コウゴウ 了見すべけれ。 不然者、経論すべて無詮なり。 〔聞書私訳〕 /「古教ありとしらん」と言う。 これは、「古教照心 (古の教えが心を照らす) 」という古い言があるにもかかわらず、 近年の禅僧は祖師の言葉を深く考えることなく、 「自分が初めて法を得たのだ」と主張する傾向にある。 これはもっとも「古教照心」の教えに反するものである。 仏の言葉や祖師の語録を、 入念に校合 キョウゴウ (基準とする本文に照らして 本文の異同を確かめること) し、 深く考察すべきである。 そうしなければ、経論 (経典と注釈書) もすべて意味をなさなくなってしまうのである。                             合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村