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六祖の直指人心、見性成仏『第十七恁麼』17-5-1a(正法眼蔵)

 第五段① 南嶽山無際大師

〔『正法眼蔵』原文〕

 南嶽山無際ナンガクサンムサイ大師、ちなみに薬山とふ、


「三乗十二分教某甲粗知。

嘗聞南方直指人心、見性成仏、実未明了。

伏望和尚、慈悲指示」。


《三乗十二分教は某甲ソレガシ粗ホボ知る。

嘗て聞く、南方の直指人心、見性成仏、実に未だ明了ならず。

伏して望むらくは和尚、慈悲をもて指示したまはんことを》


 これ薬山の問モンなり。


薬山は本為講者モトコウシャタリシなり。


三乗十二分教は通利せりけるなり。


しかあれば仏法さらに昧然マイネンなきがごとし。


むかしは別宗いまだおこらず、

ただ三乗十二分教をあきらむるを教学の家風とせり。


いまの人おほく鈍致ドンチにして、

各々カクカクの宗旨をたてて仏法を度量する、仏道の法度ハットにあらず。


 

〔『正法眼蔵』私訳〕

 南嶽山無際大師(石頭希遷)に、あるとき薬山惟儼ヤクサンイゲンが尋ねた、


「三乗十二分教(仏典の総称)は、わたくしは大方理解しております。


しかし、かねてから聞いている南方の六祖の『直指人心、見性成仏(人の心そのものを直接指し示し、本性を見極めて仏と成る)』の教えについて、まだ真に明らかにはできておりません。


どうか和尚、慈悲をもってその真髄をお示しください」。


 これは薬山の問いである。


薬山はもと経典・論典の講釈師であり、三乗十二分教に精通していたので、

仏法にまったく不明な点はなかったようである。


昔はまだ宗派が別れておらず、ただ三乗十二分教を明らかにすることを教学の家風としていた。


今の人は多く極めて鈍いため、それぞれの宗派を立てて仏法をその観点から推し測ろうとするが、それは仏道の規範ではない。


                           合掌


六祖の直指人心、見性成仏『第十七恁麼』17-5-1b(聞書抄)


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