〔『抄』原文〕
「麻谷マヨク・臨済に正手眼の相見あり。許多の一一なり。 雲門に見色明心ケンシキミョウシン、聞声悟道モンショウゴドウの観音あり。いづれの声色か見聞の観世音菩薩にあらざらん。」
正手眼の事追オッテ可決。雲門詞に「見色明心、聞声悟道」を以て観音と談ずるか。
「百丈に入理の門あり。楞厳会リョウゴンエに円通エンヅウ観音あり。法華会ホッケエに普門示現フモンジゲン観音あり。」
入理門事追可決。楞厳会とは、首楞厳経説事なり。法華会とは法華の普門品事なり。
「みな与仏同参ヨブツドウサンなり、与山河大地同参なりといへども、なほこれ許多手眼の一二なるべし。」
是は与仏同参、与山河大地同参なりといへり、無別子細。
こゝに「なほこれ許多手眼の一二なるべし」と云へば、許多手眼はまさりて、今右に所挙真覚大師・麻谷・臨済・雲門・百丈乃至楞厳・法華等の観音は、猶許多手眼には不及、纔ワヅカニ一二なるべしと云やうにきこゆ、非其義。
此一二は全一全二なるべし。
非数量一二なり。
是は祖師等中に被談観音人々の詞を被挙なり。
上にも許多の一々なりとあり。
許多の一二なるゆへに非数量一二なり。
凡は一仏を讃嘆する時、自余は不斉肩義常事なり。
実にも一仏の究尽するとき、余仏皆蔵身す。
祖師讃嘆の詞も可准之歟。
いかさまにも勝劣差別の義にあらず。
能々可了見事なり。
〔『抄』私訳〕
「麻谷マヨク・臨済に正手眼の相見あり、許多の一一なり。 雲門に見色明心ケンシキミョウシン、聞声悟道モンショウゴドウの観音あり。いづれの声色か見聞の観世音菩薩にあらざらん」とある。
正手眼のことは追って決める。雲門の言葉で「見色明心、聞声悟道」
をもって観音と言うか。
「百丈に入理の門あり、楞厳会リョウゴンエに円通エンヅウ観音あり、
法華会ホッケエに普門示現フモンジゲン観音あり」とある。
入理の門のことは追って決める。
「楞厳会」とは、『首楞厳経(菩薩の在り方を説く経)』の観音円通章のことである。
「法華会」とは『法華経』の普門品のことである。
「みな与仏同参ヨブツドウサンなり、与山河大地同参なりといへども、
なほこれ許多手眼の一二なるべし」とある。
これは仏と一体となって修行し、山河大地と一体となって修行する
と言うのであり、特に子細はない。
ここで「なほこれ許多手眼の一二なるべし(なお、これら許多手眼の一部である)」と言えば、「許多手眼」は優れており、今上にあげた「真覚大師」「麻谷」「臨済」「雲門」「百丈」などの祖師、あるいは『楞厳経』や『法華経』などで説く「観音」は、「許多の手眼」には及ばず、ほんの一部であるというように聞こえるが、
そうではない。
この「一二」は全ての一、全ての二という意味であり、数量でない一二である。これは祖師などの中で観音を説かれた方々の言葉を挙げられるのである。
上の文にも「許多の一々(無限の中の一々)」とあった。
「許多の一二(無限の中の一二)」であるから数量ではない一二なのである。
一般に一人の仏を讃える時、他の仏は肩を並べないのが普通である。
本当に一人の仏が究め尽すとき、他の仏は皆その中に身を蔵カクすのである。
祖師を讃える言葉もこれに倣うべきである。
これは決して勝劣や差別の意味ではない。
よくよく了見すべきことである。
合掌
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