〔『抄』原文〕
正法眼蔵第十八観音奥詞
「今仏法西来より以来、仏祖多観音を道取すと云へども、
雲巖道吾に及ばざるゆへに、ひとりこの観音を道取す。」
是は無風情、雲巖・道吾の「許多手眼」「如人夜間背手摸枕子」の詞を被讃なり。
「永嘉真覚大師に、「不見一法名如来、方得名為観自在《一法を見ざるを如来と
名づく、方に名づけて観自在と為すことを得たり》」の道あり。如来と観音と、
即現此身ソクゲンシシンなりといへども、他身にはあらざる証明なり。」
是も「不見一法名如来」の詞、打任は難心得詞なり。
「即現此身ソクゲンシシンなりといへども、他身には非」ずといへり。
観音は等覚の菩薩、如来は果地の仏、打任は浅深ありぬべし。
然而、今所談の上は、
観音与仏さらに不可有差別、浅深を談ずべからざるなり。
〔『抄』訳文〕
正法眼蔵第十八観音の奥書
「今仏法西来より以来、仏祖多観音を道取すと云へども、
雲巖・道吾に及ばざるゆへにひとりこの観音を道取す」とある。
これは風情無く、雲巖の「許多の手眼」と道吾の
「人の夜間に手を背にして枕子を摸するが如し」の言葉を褒められたのである。
「永嘉真覚大師に、「不見一法名如来、方得名為観自在《一法を見ざるを如来と
名づく、方に名づけて観自在と為すことを得たり》」の道あり。如来と観音と、
即現此身ソクゲンシシンなりといへども、他身にはあらざる証明なり」とある。
これも「一法を見ざるを如来と名づく」という言葉は、
一般には理解し難い言葉である。
「即現此身なりといへども、他身にはあらず」と言う。
観音は等覚(仏の覚りと等しい境地)の菩薩であり、如来は仏果を得た仏であるから、普通に考えれば境地に浅深の違いがあることになるが、ここで談ずる以上は、
観音と仏に差別はなく、境地の浅深を談ずべきではないのである。
合掌
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