スキップしてメイン コンテンツに移動

諸祖が言った「無限の手眼の観音」を参究するとき、諸仏は観音の三昧を成就する『第十八観音』18-6-4b(聞書抄)

 〔『抄』原文〕

「雲巌の遍与道吾通、道得尽道未尽にはあらざるなり、雲巖遍与道吾通、

比量の論にはあらずといへども、各々オノオノ許多手眼は恁麼の道取あるべし。」

  是は、「雲巖」は「遍身是手眼」と云ひ、「道吾」は「通身是手眼」

とあれば、「通」は猶したしく、「遍」は今すこしうときやうに覚ゆ。

但「雲巌」「道吾」の「遍」「通」の詞、共に「手眼」の上の「遍」「通」なれば、

なじかは勝劣あるべきなれども、おのおの「許多手眼」は如此云はるべしとなり。


「しかあれば、釈迦老子の道取する観音はわづかに千手眼なり、十二面なり、

三十三身、八万四千なり。雲巌道悟の観音は許多手眼なり。

しかあれども、多少の道にはあらず。」

  是は「釈迦老師」の「観音」は数量にかゝはり、

「雲巖道吾の観音は許多手眼」とあれば、

猶仏言は不足に、祖言はかさみたる様に聞ゆ。

努々不可有其儀。争さる儀あるべき。

仏言の理がひゞきて今の道理あるゆへにこそ、今の祖言もいでくる上は、

勿論仏言の理ならでは、争今の「雲巖道吾」も此理をばあらはさるべき。

只、一旦詞のきこゆる所を如此いはるゝなり。

随、多少の道にあらずと被決上は勿論事なり。

仏言の「千手眼」も「三十三身」「八万四千」も皆「許多手眼」と可心得なり。


「雲巌道悟の許多手眼の観音を参学するとき、

一切諸仏は観音の三昧を成八九成するなり。」

  此詞又逆にきこゆ。

仏言を参学してこそ、一切の仏祖も「観音の三昧を成八九成」すべきに、

今詞は被驚ぬべし。

但仏祖の皮肉、はじめて可驚にあらず。

如此談ずれば、弥法の親切なる道理もあらはるゝなり。

仏祖無差別の義も聞ゆるなり。



〔『抄』私訳〕  

「雲巌の遍与道吾通、道得尽道未尽にはあらざるなり、雲巖遍与道吾通、比量の論にはあらずといへども、各々オノオノ許多手眼は恁麼の道取あるべし」とある。

  これは、雲巖は「遍身是れ手眼」と言い、道吾は「通身是れ手眼」

と言えば、通はやはり親しく、遍は少し疎遠なように思われる。

しかし、雲巌の遍と道吾の通の言葉は、どちらも手眼の上の遍と通であるから、勝劣はないけれども、それぞれ許多(無限の)手眼をこのように言うのである。


「しかあれば、釈迦老子の道取する観音はわづかに千手眼なり、十二面なり、

三十三身、八万四千なり。雲巌道悟の観音は許多手眼なり。

しかあれども、多少の道にはあらず」とある。

  これは、「釈迦老師の観音」は数量に拘わっており、「雲巖と道吾の観音は無限の手眼である」とあるので、まるで仏の言葉は不十分であり、

祖師方の言葉は勝っているかのように聞こえる。

決してそのようなことではない。

どうしてそのようなことなどありえようか。

仏の言葉の真理が響いて今の道理があるからこそ、今の祖師の言葉も出てくる以上は、言うまでもなく仏の言葉の道理がなければ、

どうして今の「雲巖」も「道吾」もこの真理を表し得たであろうか。

ただ、ひとまず言葉の聞こえるところを、このように言われたのである。

従って、多い少ないを言うのではないと結ばれている以上は、言うまでもないことである。

仏の言葉の「千手眼」も「三十三身」も「八万四千」も、

すべて「許多(無限の)手眼」のことであると解さなければならない。


「雲巌道悟の許多手眼の観音を参学するとき、

一切諸仏は観音の三昧を成八九成するなり」とある。

 この言葉もまた逆に聞こえる。

仏の言葉を参学してこそ、一切の仏祖も「観音の三昧を成八九成」するのに、

今の言葉には驚かされる。

しかし、仏祖の皮肉骨髄(仏祖正伝の真髄)に、初めてだといって驚いてはならない。

このように談ずれば、ますます法の親切な道理も現れ、

諸仏と諸祖の差別が無い道理も理解できるのである。


                            合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                           

     ↓               ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ   にほんブログ村PVアクセスランキング にほんブログ村 


コメント

このブログの人気の投稿

春の松の有があり、秋の菊の無がある『第十七恁麼』17-4-5a(正法眼蔵)

  第四段⑤ 〔『正法眼蔵』原文〕  「無智疑怪 ムチギケ 、即為永失 ソクイヨウシツ 《智無きは疑怪す、即ち為めに永く失ふ》」といふ道あり。 智かならずしも有にあらず、智かならずしも無にあらざれども、 一時の春松 シュンショウ なる有あり、秋菊 シュウキク なる無あり。 この「無智」のとき、三菩提みな疑怪 ギケ となる、尽諸法みな疑怪なり。 このとき永失即為なり。 所聞すべき道、所証なるべき法、しかしながら疑怪なり。 〔『正法眼蔵』私訳〕                                「智無き者は疑い怪しむ為に永遠に真理を失う」という言葉がある。 智は必ずしも有でもなく、必ずしも無でもないが、 ある時は春の松の有があり、秋の菊の無があるのである。 この「無智」の時、無上菩提 (この上ない悟り) は、 すべて「疑い怪しむもの」となり、すべてのものが「疑い怪しむもの」となる。 この時こそが「永失即為 (永遠に真理を失うということが無上菩提の為すところである) 」 なのである。 聞くべき道も、証すべき法も、すべてが「疑い怪しむもの」となるのである。 世界の隅々に至るまで隠れる場所はなく真理はあらわれているから、 疑い怪しむことそのものは自分がやっていることではないのである 。 春の松の有があり、秋の菊の無がある『第十七恁麼』17-4-5b(聞書抄)                             合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  

六祖の昔は新州の木こりであった『第十七恁麼』17-4-3b(聞書抄)

  〔聞書原文〕 /古教ありとしらんと云ふ。 是は、古教照心と云ふるき詞あり、近代の禅僧は祖師の言句を 推度 スイタク(オシハカル) する事あるべからず、はじめてわれとこそ法をば得れと云ふ。 尤古教照心の義にはそむくべし。 仏の言句、祖師の語話 ゴワ をこそ、よくよく校合 コウゴウ 了見すべけれ。 不然者、経論すべて無詮なり。 〔聞書私訳〕 /「古教ありとしらん」と言う。 これは、「古教照心 (古の教えが心を照らす) 」という古い言があるにもかかわらず、 近年の禅僧は祖師の言葉を深く考えることなく、 「自分が初めて法を得たのだ」と主張する傾向にある。 これはもっとも「古教照心」の教えに反するものである。 仏の言葉や祖師の語録を、 入念に校合 キョウゴウ (基準とする本文に照らして 本文の異同を確かめること) し、 深く考察すべきである。 そうしなければ、経論 (経典と注釈書) もすべて意味をなさなくなってしまうのである。                             合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村

有智と無智は同じ真実の異なる面として現れるのである『第十七恁麼』17-4-6a(正法眼蔵)

  恁麼⑥ 〔『正法眼蔵』原文〕 われにあらず、遍界かくるゝところなし。 たれにあらず、万里 バンリ 一条鉄なり。 たとひ恁麼して抽枝 チュウシ なりとも、 「十方仏土中、唯有一乗法」なり。 たとひ恁麼して葉落すとも、 「是法住法位 ゼホウジュウホウイ 、世間相常住 セケンソウジョウジュウ 」なり。 「既是恁麼事 キゼインモジ 」なるによりて、 有智と無智と、日面 ニチメン と月面 ガチメン となり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 自分以外の誰でもないからこそ、 万里の彼方まで一本の鉄のように真理は貫かれているのである。 たとえこのように真理が新しい枝を出すとしても、 それは「十方の仏の国土の中には、ただ一つの真実の教えしかない」ということである。 たとえこのように真理が葉を落とすとしても、 それは「この法は法位に住し、世間の相常住なり (この仏の教えは、真如という普遍不変の法の位に安住しており、一見無常に見えるこの世の現象も、実はそのままの姿で真理に照らされており、永遠である) 」ということである。 既にかくの如きありようであるから、 「有智」と「無智」は、日面の仏と月面の仏のように、 ただ同じ真理の異なる面として現れるのである。                             合掌 有智と無智は同じ真実の異なる面として現れるのである『第十七恁麼』17-4-6b(聞書抄) ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村