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手眼菩薩は、あまたの大悲菩薩を用いてどうするのか 『第十八観音』18-5-1a(正法眼蔵)

第五段①

〔『正法眼蔵』原文〕

 恁麼いはば、「手眼菩薩、用許多コタ大悲菩薩作麼ソモ」と問取しつべし。


しるべし、手眼はたとひあひ罣礙ケイゲせずとも、

「用作麼ヨウソモ」は恁麼用なり、用恁麼なり。


恁麼道得インモドウトクするがごときは、徧手眼は不曽蔵フスンゾウなりとも、

徧手眼と道得する期ゴをまつべからず。


不曽蔵の那ナ手眼ありとも、這シャ手眼ありとも、自己にはあらず、

山海サンカイにはあらず、日面月面ニチメンガチメンにあらず、即心是仏にあらざるなり。



〔『正法眼蔵』私訳〕

 このように言うなら、「手眼菩薩、用許多大悲菩薩作麼(手眼菩薩は、あまたの大悲菩薩を用いてどうするのか)」と問うべきである。


知るべきである、手眼はたとえ互いに妨げることがないとしても、

「用作麼(用いてどうするのか)」は恁麼用(真実の働き)であり、

用恁麼(働きは真実)なのである。


このように言い得るのは、遍く手眼であることは隠れることなく現れていても、遍く手眼であると言い得る時期を待つのではない。


隠れることなく現れているあの手眼があろうとも、この手眼があろうとも、それは自己ではなく、山や海でもなく、日や月でもなく、即心是仏(心は仏)でもないのである。〔すべて手眼菩薩なのである。〕



                  合掌


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