スキップしてメイン コンテンツに移動

枕を探り求めることに学ぶべきところがある 『第十八観音』18-4-2a(正法眼蔵)

第四段②

〔『正法眼蔵』原文〕

 いまいふ「如人」の人ニンは、ひとへに譬喩の言ゴンなるべきか。


又この人は平常の人にして、平常の人なるべからざるか。


もし仏道の平常人なりと学して、譬喩のみにあらずは、

「摸枕子」に学すべきところあり。


「枕子」も、咨問すべき何形段ガギョウダンあり。


「夜間」も、人天ニンデン昼夜の夜間のみなるべからず。


しるべし、道取するは「取得枕子シュトクチンス」にあらず、

「牽挽ケンメン枕子」にあらず、「推出枕子」にあらず。


「夜間背手摸枕子」と道取する道吾の道底ドウテイを検点せんとするに、

眼の夜間をうる、見るべし、すごさゞれ。


手のまくらをさぐる、いまだ剤限サイゲンを著手せず。


「背手」の機要なるべくは、背眼ハイゲンすべき機要のあるか。


夜眼をあきらむべし。


手眼世界なるべきか、人手眼のあるか、ひとり手眼のみ飛霹靂ヒヘキレキするか、

頭正尾正ズシンビシンなる手眼の一条両条なるか。


もしかくのごとくの道理を検点すれば、「用許多手眼」はたとひありとも、

たれかこれ大悲菩薩、たゞ手眼菩薩のみきこゆるがごとし。



〔『正法眼蔵』私訳〕

 今言う「人の夜間に手を背にして枕子を摸するが如し」というその人は、

まったく比喩の言葉なのか。


それとも、この人は普通の人に見えて、普通の人でないのか。


もし仏道の平常人であると学んで、比喩だけでないとするなら、

摸枕子(枕を探り求めること)に学ぶべきところがある。


「枕子」も、諮問すべき何としかいいようのない形がある

〔、つまり「枕子」は尽十方世界である〕。


「夜間」も、人間界や天上界での昼夜の


夜間だけではない。


知るといい、ここで言うのは、「枕を取る」というのではない、

「枕を引く」というのではない、「枕を推し出す」というのではない。


「夜間に手を背にして枕子を摸する」と言う道吾の言葉の奥底を点検しようとする

際に、眼が夜間を得るのを、見るべきであり、やり過ごしてはならない。


手が枕を探り求めるといっても、手も枕もまったく際限がない。


「手を後ろにすること」が肝心要のはたらきであれば、眼を後ろにする肝心要

のはたらきもある(手が尽十方世界であれば、眼も尽十方世界である)。


夜間の無辺際の眼のことを明らかにすべきである。


手眼を環境世界といい、手眼を人体といい、環境世界も人体も

すべて手眼だけになり、始めから終わりまで手眼の顕現である。


もしこのような道理を点検すれば、たとえ「無辺際の手眼を用いる」ということがあっても、〔手眼のほかに余物はないから〕何を指して大悲菩薩と言うのか、

ただ手眼菩薩だけ聞こえてくるようである。


枕を探り求めることに学ぶべきところがある 『第十八観音』18-4-2b(聞書抄)


                           合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                           

     ↓               ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ   にほんブログ村PVアクセスランキング にほんブログ村 


コメント

このブログの人気の投稿

春の松の有があり、秋の菊の無がある『第十七恁麼』17-4-5a(正法眼蔵)

  第四段⑤ 〔『正法眼蔵』原文〕  「無智疑怪 ムチギケ 、即為永失 ソクイヨウシツ 《智無きは疑怪す、即ち為めに永く失ふ》」といふ道あり。 智かならずしも有にあらず、智かならずしも無にあらざれども、 一時の春松 シュンショウ なる有あり、秋菊 シュウキク なる無あり。 この「無智」のとき、三菩提みな疑怪 ギケ となる、尽諸法みな疑怪なり。 このとき永失即為なり。 所聞すべき道、所証なるべき法、しかしながら疑怪なり。 〔『正法眼蔵』私訳〕                                「智無き者は疑い怪しむ為に永遠に真理を失う」という言葉がある。 智は必ずしも有でもなく、必ずしも無でもないが、 ある時は春の松の有があり、秋の菊の無があるのである。 この「無智」の時、無上菩提 (この上ない悟り) は、 すべて「疑い怪しむもの」となり、すべてのものが「疑い怪しむもの」となる。 この時こそが「永失即為 (永遠に真理を失うということが無上菩提の為すところである) 」 なのである。 聞くべき道も、証すべき法も、すべてが「疑い怪しむもの」となるのである。 世界の隅々に至るまで隠れる場所はなく真理はあらわれているから、 疑い怪しむことそのものは自分がやっていることではないのである 。 春の松の有があり、秋の菊の無がある『第十七恁麼』17-4-5b(聞書抄)                             合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  

六祖の昔は新州の木こりであった『第十七恁麼』17-4-3b(聞書抄)

  〔聞書原文〕 /古教ありとしらんと云ふ。 是は、古教照心と云ふるき詞あり、近代の禅僧は祖師の言句を 推度 スイタク(オシハカル) する事あるべからず、はじめてわれとこそ法をば得れと云ふ。 尤古教照心の義にはそむくべし。 仏の言句、祖師の語話 ゴワ をこそ、よくよく校合 コウゴウ 了見すべけれ。 不然者、経論すべて無詮なり。 〔聞書私訳〕 /「古教ありとしらん」と言う。 これは、「古教照心 (古の教えが心を照らす) 」という古い言があるにもかかわらず、 近年の禅僧は祖師の言葉を深く考えることなく、 「自分が初めて法を得たのだ」と主張する傾向にある。 これはもっとも「古教照心」の教えに反するものである。 仏の言葉や祖師の語録を、 入念に校合 キョウゴウ (基準とする本文に照らして 本文の異同を確かめること) し、 深く考察すべきである。 そうしなければ、経論 (経典と注釈書) もすべて意味をなさなくなってしまうのである。                             合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村

有智と無智は同じ真実の異なる面として現れるのである『第十七恁麼』17-4-6a(正法眼蔵)

  恁麼⑥ 〔『正法眼蔵』原文〕 われにあらず、遍界かくるゝところなし。 たれにあらず、万里 バンリ 一条鉄なり。 たとひ恁麼して抽枝 チュウシ なりとも、 「十方仏土中、唯有一乗法」なり。 たとひ恁麼して葉落すとも、 「是法住法位 ゼホウジュウホウイ 、世間相常住 セケンソウジョウジュウ 」なり。 「既是恁麼事 キゼインモジ 」なるによりて、 有智と無智と、日面 ニチメン と月面 ガチメン となり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 自分以外の誰でもないからこそ、 万里の彼方まで一本の鉄のように真理は貫かれているのである。 たとえこのように真理が新しい枝を出すとしても、 それは「十方の仏の国土の中には、ただ一つの真実の教えしかない」ということである。 たとえこのように真理が葉を落とすとしても、 それは「この法は法位に住し、世間の相常住なり (この仏の教えは、真如という普遍不変の法の位に安住しており、一見無常に見えるこの世の現象も、実はそのままの姿で真理に照らされており、永遠である) 」ということである。 既にかくの如きありようであるから、 「有智」と「無智」は、日面の仏と月面の仏のように、 ただ同じ真理の異なる面として現れるのである。                             合掌 有智と無智は同じ真実の異なる面として現れるのである『第十七恁麼』17-4-6b(聞書抄) ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村