第四段②
〔『正法眼蔵』原文〕
いまいふ「如人」の人ニンは、ひとへに譬喩の言ゴンなるべきか。
又この人は平常の人にして、平常の人なるべからざるか。
もし仏道の平常人なりと学して、譬喩のみにあらずは、
「摸枕子」に学すべきところあり。
「枕子」も、咨問すべき何形段ガギョウダンあり。
「夜間」も、人天ニンデン昼夜の夜間のみなるべからず。
しるべし、道取するは「取得枕子シュトクチンス」にあらず、
「牽挽ケンメン枕子」にあらず、「推出枕子」にあらず。
「夜間背手摸枕子」と道取する道吾の道底ドウテイを検点せんとするに、
眼の夜間をうる、見るべし、すごさゞれ。
手のまくらをさぐる、いまだ剤限サイゲンを著手せず。
「背手」の機要なるべくは、背眼ハイゲンすべき機要のあるか。
夜眼をあきらむべし。
手眼世界なるべきか、人手眼のあるか、ひとり手眼のみ飛霹靂ヒヘキレキするか、
頭正尾正ズシンビシンなる手眼の一条両条なるか。
もしかくのごとくの道理を検点すれば、「用許多手眼」はたとひありとも、
たれかこれ大悲菩薩、たゞ手眼菩薩のみきこゆるがごとし。
〔『正法眼蔵』私訳〕
今言う「人の夜間に手を背にして枕子を摸するが如し」というその人は、
まったく比喩の言葉なのか。
それとも、この人は普通の人に見えて、普通の人でないのか。
もし仏道の平常人であると学んで、比喩だけでないとするなら、
摸枕子(枕を探り求めること)に学ぶべきところがある。
「枕子」も、諮問すべき何としかいいようのない形がある
〔、つまり「枕子」は尽十方世界である〕。
「夜間」も、人間界や天上界での昼夜の
夜間だけではない。
知るといい、ここで言うのは、「枕を取る」というのではない、
「枕を引く」というのではない、「枕を推し出す」というのではない。
「夜間に手を背にして枕子を摸する」と言う道吾の言葉の奥底を点検しようとする
際に、眼が夜間を得るのを、見るべきであり、やり過ごしてはならない。
手が枕を探り求めるといっても、手も枕もまったく際限がない。
「手を後ろにすること」が肝心要のはたらきであれば、眼を後ろにする肝心要
のはたらきもある(手が尽十方世界であれば、眼も尽十方世界である)。
夜間の無辺際の眼のことを明らかにすべきである。
手眼を環境世界といい、手眼を人体といい、環境世界も人体も
すべて手眼だけになり、始めから終わりまで手眼の顕現である。
もしこのような道理を点検すれば、たとえ「無辺際の手眼を用いる」ということがあっても、〔手眼のほかに余物はないから〕何を指して大悲菩薩と言うのか、
ただ手眼菩薩だけ聞こえてくるようである。
枕を探り求めることに学ぶべきところがある 『第十八観音』18-4-2b(聞書抄)
合掌
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