〔『抄』原文〕
「いまいふ「如人」の人ニンは、ひとへに譬喩の言ゴンなるべきか。又この人は平常の人にして、平常の人なるべからざるか。もし仏道の平常人なりと学して、譬喩のみにあらずは、摸枕子に学すべきところあり。「枕子」も咨問すべき何形段ガギョウダンあり。夜間も、人天昼夜の夜間のみなるべからず。」
是は、「如人夜間」と「道吾」の云つる「人」の事なり。今詞は喩と聞えたり、「夜間」にして不見たとへに被引たりと聞ゆ。
其を「ひとへに譬喩の言」と可心得かとはあるなり。
「又この人は平常の人にして」とある。「平常人」は仏法人なり。
「平常の人にして、平常の人なるべからざるか」と云「平常人」は打任せたる「人」なり。
「もし仏道の平常人なりと学して、譬喩」の言なるべからずば、「摸枕子」の「枕子」も「何形段」とは、日頃我等が心得つる「枕子」さぐるなむと不可心得。
以尽十方界為「枕」べし。此道理が「何形段」とは云はるゝなり。
何の詞にいづれもこもりたるなり。
しるべし、道取するは「取得枕子」にあらず、「牽挽ケンメン枕子」にあらず、
「推スイ出枕子」 にあらず。
「背手摸枕子」とこそあれば、実にも「枕子」を「取得」とも又「引出」とも「おしだす」ともいはず。ゆへに如此被釈なり。
「夜間背手摸枕子と道取する道吾の道底ドウテイを検点せんとするに、眼の夜間をうる、見るべし、すごさざれ。手のまくらをさぐる、いまだ剤限サイゲンを著手せず。」
是は「道吾」の「背手摸枕子と道取する」道を「検点せんとするに、眼の夜間をうる」とは、「眼」与「夜間」相対して能見所見を云にあらず。
今の道理は眼が眼を見、夜間が夜 間を見る道理なるべし。是を見るべしとも、すごさゞれとも云なり。又「手のまくらをさぐる」と云へども、此「手」も「枕」も総際限なし。「眼」の「夜間」も只同心なるべし。
「背手の機要なるべくは、背眼ハイゲンすべき機要のあるか。夜間をあきらむべし。」
是は右の道理にては「背手」すと云道理あるべくば、「背眼」と云義もなどかなからむとなり。
凡夫の上にてこそ、「背眼」の詞は被驚ぬべけれ。乃至鼻孔を「背」すとも耳根を「背」すとも云道理あるべきなり。此道理現前するを「夜間をあきらむべし」とは云なり。
「手眼世界なるべきか、人手眼のあるか、ひとり手眼のみ飛霹靂ヒベキレキするか、頭正尾正ズシンビシンなる手眼の一条両条なるか。」
是は依報正報皆只「手眼」のみなりと云心なり。「手眼世界」は依報、「人手眼」は正報、皆「手眼」なるべし。但依報正報と云も暫の事なり。只以「手眼」依報とも正報とも 云べし。此理が「手眼」の「飛霹靂」と云はるゝ理なるべきなり。「頭正尾正」歟「手眼」なるべし。「手眼」の「一条両条なるか」とは、「手眼世界」「人手眼」をも云べきか。「頭正尾正」をも「一条両条」とも云べし。「一条両条」と云へばとて、二三の局量 にとゞこほるべきにあらず。
「かくのごとくの道理を検点すれば、「用許多手眼」はたとひありとも、たれかこれ大悲菩薩、たゞ手眼菩薩のみきこゆるがごとし。」
右に所挙の「道理を検点すれば、用許多手眼はたとひありとも」、「大悲菩薩」とは何かいはるべきぞ。如此談ずれば、「たゞ手眼菩薩のみきこゆる」なりと云なり。
「手眼」の至極究尽するときは、「大悲菩薩」とは云はるべからず。只「手眼菩薩」許なり。
如此の道理あるゆへに、「手眼菩薩、用許多大悲菩薩作麼」と云つべしとあるなり。法の道理如此。ともかくも入ちがへて無尽に談ずれども、只一法の道理なるべし。
〔『抄』私訳〕
「いまいふ如人の人ニンは、ひとへに譬喩の言ゴンなるべきか。又この人は平常の人にして、平常の人なるべからざるか。もし仏道の平常人なりと学して、譬喩のみにあらずは、摸枕子に学すべきところあり。枕子も咨問すべき何形段ガギョウダンあり。夜間も、人天昼夜の夜間のみなるべからず」とある。
これは、「如人夜間」と「道吾」が言った「人」のことである。
この言葉は喩えと思われ、「夜間」であるために見えない喩えに引用されたと思われる。
それを「ひとへに譬喩の言なるべきか」と心得るべきであろうかというのである。
「又この人は平常の人にして」とある。「平常人」は仏法人である。「平常の人にして、平常の人なるべからざるか」と言う「平常人」は普通の「人」である。
「もし仏道の平常人なりと学して、譬喩」の言葉でないならば、「摸枕子」の「枕子」も「何の形段あり」とは、日頃我々が心得ている「枕子」を探るなどと心得てはならない。
尽十方世界をもって「枕」とするのである。この道理が「何の形段あり」と言われるのである。
「何」の言葉に、いずれも含まれるのである。
「しるべし、道取するは取得枕子にあらず、牽挽ケンメン枕子にあ
らず、推スイ出枕子にあらず」とある。
「背手摸枕子」とあるからは、まったく「枕子」を「取得す」とも、「引出す」とも、「推し出す」とも言わない。だからこのように解き明かされるのである。
「夜間背手摸枕子と道取する道吾の道底ドウテイを検点せんとするに、眼の夜間をうる、見るべし、すごさざれ。手のまくらをさぐる、いまだ剤限サイゲンを著手せず」とある。
これは「道吾」の「背手摸枕子と道取する」という言葉を「検点せんとするに、眼の夜間をうる」とは、「眼」と「夜間」が相対して見るものと見られるものを言うのではない。
今の道理は、眼が眼を見、夜間が夜間を見る道理である。これを「見るべしとも、すごさゞれとも」言うのである。
また「手の枕を探る」といっても、この「手」も「枕」もまったく際限がない。「眼」の「夜間」もただ同じ意味である。
「背手の機要なるべくは、背眼ハイゲンすべき機要のあるか。夜眼をあきらむべし」とある。
これは、前の道理からすれば、「背手(手を後ろに」するという道理があるならば、「背眼」するということもどうしてないことがあろうかというのである。
凡夫の上では、「背 眼」の言葉は驚かされよう。あるいは、鼻の孔を「背(後ろに)」するとも、耳を「背」するともいう道理もあるべきである。この道理が現前するのを「夜間をあきらむべし」と言うのである。
「手眼世界なるべきか、人手眼のあるか、ひとり手眼のみ飛霹靂ヒベキレキするか、頭正尾正ズシンビシンなる手眼の一条両条なるか」とある。
これは、依報(環境世界)・正報(身体)がすべてただ「手眼」だけであるという意味である。
「手眼世界」は依報、「人手眼」は正報であり、みな「手眼」である。ただ、依報と正報というのもしばらくのことである。
ただ「手眼」を依報とも正報とも言うのである。この理が「手眼」が「飛霹靂」と言われる理なのである。
「頭正尾正(始めから終わりまで」が「手眼」なのである。
「手眼」の「一条両条なるか」とは、「手眼世界」や「人手眼」をも言うべきか。「頭正尾正」をも「一条両条」と言うのである。「一条両 条」と言っても、二つ三つの限定された量に滞るべきではない。
「かくのごとくの道理を検点すれば、用許多手眼はたとひありとも、たれかこれ大悲菩薩、たゞ手眼菩薩のみきこゆるがごとし」とある。
上にあげるところの「道理を検点すれば、用許多手眼はたとひありとも」、「大悲菩薩」とは何かと言えるだろうか。
このように語れば、「たゞ手眼菩薩のみきこゆる」のであると言うのである。
「手眼」の究極を究め尽くすときは、「大悲菩薩」とは言うことができない。ただ「手眼菩薩」ばかりである。
このような道理があるから、次に「手眼菩薩、用許多大 悲菩薩作麼(手眼菩薩は、無量無辺の大悲菩薩を用いて何をする)」と言うことができるというのである。法の道理とはこのようなことである。
とにかくあれこれ入り違えて尽きることなく語っても、ただ一つの道理なのである。
〔『聞書』原文〕
/「夜間」の詞「眼」にあたると云は、不見のゆへに。法身の仏を談ずるには、「眼」なし身なし。「過去の正法明如来」は今の「大悲菩薩」なり。「不見一法名如来」なれば、「眼」に不見、「手」に不取べし。
/「枕」を取と云はむ「手」が「手」を「とらむ」とするなり。「推出」と云はむ、「手」が「手」を「推出」なり。「牽挽ケンメン」と云はむは、「手」が「手」を「ひかむ」とするにてあるなりと可心得。「手」の外に「枕」不可有。しかればこそ「取」といはず、「おしいだす」と云はず、「ひく」ともいはず、たゞ「摸す」と許云なり。「摸」の字にて「枕子」は形なきものと心得なり。これ大海死屍を心得が如し、「用許多」を以て「作麼」とゝくなり。
〔『聞書』私訳〕
/「夜間」の言葉が「眼」に当るというのは、見えないからである。
法身の仏を語るときは、「眼」も「身」も役に立たない(眼や身といった物質的なものによって語ることは出来ない)。
「過去の正法明如来」は今の「大悲菩薩」である。
「一法を見ざるを如来と名づく」ということであれば、
「眼」で見ず、「手」で取らないのである。
/「枕」を取るというのは、「手」が「手」を「取ろう」とするのである。
「推し出す」というのは、「手」が「手」を「推し出す」のである。
「引く」というのは、「手」が「手」を「引こう」とするのであると解すべきである。
「手」の外に「枕」があるのではない。
だからこそ「取る」と言わず、「推し出す」と言わず、
「引く」とも言わず、ただ「摸する」とだけ言うのである。
「摸」の字によって、「枕子」は形がないものと解するのである。
これは大海が死屍を心得るようなことである、
「用許多」を用いて「作麼」と説くのである。

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