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観音を自己のものとする家門がある『第十八観音』18-2b(聞書抄)

 〔『抄』原文〕

「観音を保任せしむる家門あり、観音を未夢見なる家門あり。雲巌に観音あり、道吾と同参せり。たゞ一両の観音〔のみにあらず、百千の観音、おなじく雲巌に同参す。観音〕を真箇に観音ならしむるは、ただ雲巌会のみなり。」                             


  是は「観音を保任せしむる家門あり」とは、今の「雲巖」「道吾」の事なり。「観音未夢見なる家門有」とは、祖門に所談にあらざる所をさすなり。


「雲巌に観音あり」とは、今の「用許多手眼作麼」の詞歟。

此「雲巖」「道吾」の「一両の観音のみにあらず」、此 「雲巖」「道吾」の「観音」には、「百千の観音」皆「同参する」なりと云なり。「雲巌 会のみなり」とは讃嘆詞歟。


「所以はいかん。雲巌道の観音と、余仏道の観音と、道得道不得なり。余仏道の観音はただ十二面なり、雲巌しかあらず。余仏道の観音はわづかに千手眼なり、雲巌しかあらず。余仏道の観音はしばらく八万四千手眼なり、雲巌しかあらず。なにをもつてかしかありとしる。」

  是は、「雲巌道の観音」は「道得」と云ひ、「余仏道」は「道不得」とあり、勝劣があるように聞こえる。


其故は、「雲巌道の観音」は「用許多手眼」とあり、「余仏道の観音」は、

或「十二面」「千手眼」「八万四千手眼」なむとある所を、しばらく如此被挙なり。 

さればとて、釈尊所説の「観音」を劣なりと云べきにあらず。

仏言何違此道理。更今人の思習はしたる所を、暫如此云なり。


〔『抄』私訳〕〕

「観音を保任せしむる家門あり、観音を未夢見なる家門あり。雲巌に観音あり、道吾と同参せり。たゞ一両の観音のみにあらず、百千の観音、おなじく雲巌に同参す。観音を真箇に観音ならしむるは、ただ雲巌会のみなり」とある。                             


  これは「観音を保任せしむる家門あり」とは、今の「雲巖」「道吾」のことである。「観音未夢見なる家門あり」とは、祖師の教えで談ずるところでない所を指すのである。


「雲巌に観音あり」とは、今の「用許多手眼作麼」の言葉である。


この「雲巖」と「道吾」の「一両の観音のみにあらず」、この「雲巖」と「道吾」の「観音」には、「百千の観音」がみな「同参する」というのである。


「雲巌会のみなり」とは、讃嘆の言葉である。


「所以はいかん。雲巌道の観音と、余仏道の観音と、道得道不得なり。余仏道の観音はただ十二面なり、雲巌しかあらず。余仏道の観音はわづかに千手眼なり、雲巌しかあらず。余仏道の観音はしばらく八万四千手眼なり、雲巌しかあらず。なにをもつてかしかありとしる」とある。


  これは、「雲巌が道う観音」は「道得(言い得ている)」といい、「他の僧が道う観音」は「道不得(言い得ていない)」とあり、優劣があるように聞こえる。


その理由は、「雲巌が道う観音」は「用許多手眼(多くの手眼を用いる)」とあるのに対して、「他の僧が道う観音」は、「十二の面」「千の手眼」「八万四千の手眼」

などとあるところを、しばらくこのように挙げられるのである。


だからといって、釈尊が説かれる「観音」が劣っていると言うのではない。


仏の言葉はこの道理に違うことはないのである。


改めて、今の人が思い込んでいるところを、しばらくこのように言うのである。



〔『聞書』原文〕

/「大悲菩薩、用許多手眼作麼」と云は、「菩薩」に「千眼」あるに似たり。

しからば能具所具の法ときこゆ。


「手」と云へば、二臂六臂八臂なむといひ、「眼」と云へば、

伊字イシ三点、摩醯首羅マケイシュラ三目なむと云が如くには、「千手眼」も心得まじ。


是等は皆世間の習なり。いづれも際限を出イダさば、仏法には不可用なり。


「許多アマタ」と云は、是等は超越すべし。「許多」と云とも、

「数」をたてゝいはば頗無詮。


〔『聞書』私訳〕                              

/「大悲菩薩、用許多手眼作麼」とは、「菩薩」に「千の眼」があるようである。そうであれば、具えるもの・具えられるものと聞こえる。


「手」と言えば、二臂、六臂、八臂などと言い、「眼」と言えば、

伊字三点(不動明王の額にある第三の眼)や摩醯首羅マケイシュラ三目(シヴァ神の三つの眼)

などと言うように、「千手眼」を心得てはならない。


これらはみな世間の習わしである。いずれも際限を設けているので、

仏法では用いられない。


「許多」というのは、これらの際限を超越するのである。

「許多」といっても、「数」を立てて言えば全く意味がない。


                          合掌


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