〔『抄』原文〕
「観音を保任せしむる家門あり、観音を未夢見なる家門あり。雲巌に観音あり、道吾と同参せり。たゞ一両の観音〔のみにあらず、百千の観音、おなじく雲巌に同参す。観音〕を真箇に観音ならしむるは、ただ雲巌会のみなり。」
是は「観音を保任せしむる家門あり」とは、今の「雲巖」「道吾」の事なり。「観音未夢見なる家門有」とは、祖門に所談にあらざる所をさすなり。
「雲巌に観音あり」とは、今の「用許多手眼作麼」の詞歟。
此「雲巖」「道吾」の「一両の観音のみにあらず」、此 「雲巖」「道吾」の「観音」には、「百千の観音」皆「同参する」なりと云なり。「雲巌 会のみなり」とは讃嘆詞歟。
「所以はいかん。雲巌道の観音と、余仏道の観音と、道得道不得なり。余仏道の観音はただ十二面なり、雲巌しかあらず。余仏道の観音はわづかに千手眼なり、雲巌しかあらず。余仏道の観音はしばらく八万四千手眼なり、雲巌しかあらず。なにをもつてかしかありとしる。」
是は、「雲巌道の観音」は「道得」と云ひ、「余仏道」は「道不得」とあり、勝劣があるように聞こえる。
其故は、「雲巌道の観音」は「用許多手眼」とあり、「余仏道の観音」は、
或「十二面」「千手眼」「八万四千手眼」なむとある所を、しばらく如此被挙なり。
さればとて、釈尊所説の「観音」を劣なりと云べきにあらず。
仏言何違此道理。更今人の思習はしたる所を、暫如此云なり。
〔『抄』私訳〕〕
「観音を保任せしむる家門あり、観音を未夢見なる家門あり。雲巌に観音あり、道吾と同参せり。たゞ一両の観音のみにあらず、百千の観音、おなじく雲巌に同参す。観音を真箇に観音ならしむるは、ただ雲巌会のみなり」とある。
これは「観音を保任せしむる家門あり」とは、今の「雲巖」「道吾」のことである。「観音未夢見なる家門あり」とは、祖師の教えで談ずるところでない所を指すのである。
「雲巌に観音あり」とは、今の「用許多手眼作麼」の言葉である。
この「雲巖」と「道吾」の「一両の観音のみにあらず」、この「雲巖」と「道吾」の「観音」には、「百千の観音」がみな「同参する」というのである。
「雲巌会のみなり」とは、讃嘆の言葉である。
「所以はいかん。雲巌道の観音と、余仏道の観音と、道得道不得なり。余仏道の観音はただ十二面なり、雲巌しかあらず。余仏道の観音はわづかに千手眼なり、雲巌しかあらず。余仏道の観音はしばらく八万四千手眼なり、雲巌しかあらず。なにをもつてかしかありとしる」とある。
これは、「雲巌が道う観音」は「道得(言い得ている)」といい、「他の僧が道う観音」は「道不得(言い得ていない)」とあり、優劣があるように聞こえる。
その理由は、「雲巌が道う観音」は「用許多手眼(多くの手眼を用いる)」とあるのに対して、「他の僧が道う観音」は、「十二の面」「千の手眼」「八万四千の手眼」
などとあるところを、しばらくこのように挙げられるのである。
だからといって、釈尊が説かれる「観音」が劣っていると言うのではない。
仏の言葉はこの道理に違うことはないのである。
改めて、今の人が思い込んでいるところを、しばらくこのように言うのである。
〔『聞書』原文〕
/「大悲菩薩、用許多手眼作麼」と云は、「菩薩」に「千眼」あるに似たり。
しからば能具所具の法ときこゆ。
「手」と云へば、二臂六臂八臂なむといひ、「眼」と云へば、
伊字イシ三点、摩醯首羅マケイシュラ三目なむと云が如くには、「千手眼」も心得まじ。
是等は皆世間の習なり。いづれも際限を出イダさば、仏法には不可用なり。
「許多アマタ」と云は、是等は超越すべし。「許多」と云とも、
「数」をたてゝいはば頗無詮。
〔『聞書』私訳〕
/「大悲菩薩、用許多手眼作麼」とは、「菩薩」に「千の眼」があるようである。そうであれば、具えるもの・具えられるものと聞こえる。
「手」と言えば、二臂、六臂、八臂などと言い、「眼」と言えば、
伊字三点(不動明王の額にある第三の眼)や摩醯首羅マケイシュラ三目(シヴァ神の三つの眼)
などと言うように、「千手眼」を心得てはならない。
これらはみな世間の習わしである。いずれも際限を設けているので、
仏法では用いられない。
「許多」というのは、これらの際限を超越するのである。
「許多」といっても、「数」を立てて言えば全く意味がない。
合掌
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