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造るものとなり造られるものとなる地・水・火・風の四大元素もみな空華である『第十四空華』14-4-2b

〔『抄』私訳〕 「いま凡夫の学者、おほくは陽気のすめるところ、これ空ならんとおもひ、日月星辰のかかれるところを空ならんとおもへるによりて仮令すらくは、空華といはんは、この清気のなかに、浮雲のごとくして、飛花の風にふかれて東西し、および昇降するがごとくなる彩色のいできたらんずるを、空花といはんずるとおもへり」とある。 これは、凡見 (凡夫の考え) の「空華」をいつも思ってい様子の間違いを挙げられるのである。 「能造所造の四大、あはせて器世間の諸法、ならびに本覚本性等を空花といふとは、ことにしらざるなり。又諸法によりて能造の四大等ありとしらず、諸法によりて器世間は住法位なりとしらず、器世間によりて諸法ありとばかり知見するなり」とある。 「四大、あはせて器世間の諸法、ならびに本覚本性等を空花といふ」とは、凡夫はこれを知らないのである。「又諸法によりて能造の四大等ありとしらず、諸法によりて器世間は住法位なりとしらず」、ただ「器世間によりて諸法ありとばかり」凡夫は「知見するなり」。 文の通りである。 「眼翳によりて空花ありとのみ覚了して、空花によりて眼翳あらしむる道理を覚了せざるなり」とある。 ただ眼の病によってない花をあるのだとばかり、凡夫はこれを心得、「空花によりて眼翳」がある道理を「知らない」というのである。「空華」は妄見でなく、「眼翳」は病でない道理を、十分に参学すべきである。                       合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

翳人エイニンと出会って、空華も知り、空華も見るべきである『第十四空華』14-4-1a

  〔『正法眼蔵』原文〕  釈迦牟尼仏言、「亦如翳人 ヤクニョエイニン 、見空中華 ケンクウチュウケ 、 翳病若除 エイビョウニャクジョ 、華於空滅 ケオクウメツ 」 《また翳人の空中の華を見るが如し、 翳病若し除こほれば、華空に滅す》。  この道著 ドウチャク 、あきらむる学者いまだあらず。 空をしらざるがゆゑに空華をしらず、 空華をしらざるがゆゑに翳人をしらず、 翳人をみず、翳人にあはず、翳人ならざるなり。 翳人と相見して、空華をもしり、空華をもみるべし。 空華をみてのちに、「華於空滅」をもみるべきなり。 ひとたび空花やみなば、 さらにあるべからずとおもふは、 小乗の見解 ケンゲ なり。 空華みえざらんときは、なににてあるべきぞ。 ただ空花は所捨となるべしとのみしりて、 空花ののちの大事をしらず、空華の種熟脱 シュジュクダツ をしらず。 〔『正法眼蔵』私訳〕  釈迦牟尼仏は言う、「また眼病の人が空中に華を見るようなことである。眼病がもし除かれれば、華は空中に消えてしまう」。 〔釈迦牟尼仏言、また翳人の空中の華を見るが如し、 翳病若し除こほれば、華空に滅す。〕 この言葉の真意を、明らめた仏道修行者はまだいない。 〔この道著、あきらむる学者いまだあらず。〕 空 クウ ということを知らないから空華 ( 空として成立する真実のありよう) ということを知らず、 空華ということを知らないから 翳人 (諸法の実相を観る人) を知らず、 翳人を 見ず、 翳人に逢わず、翳人ではない のである。 〔空をしらざるがゆゑに空華をしらず、空華をしらざるがゆゑに翳人をしらず、 翳人をみず、翳人にあはず、翳人ならざるなり。〕 翳人 と出会って、空華も知り、空華も見るべきである。 〔翳人と相見して、空華をもしり、空華をもみるべし。〕 空華を見た後で、「華が空中で滅する」ことも見なければならない。 〔空華をみてのちに、「華於空滅」をもみるべきなり。〕 一度空花 (眼病の者が空中に見る実在しない花) がなくなってしまえば、もはや存在しないと思うのは、小乗の考えである。 〔ひとたび空花やみなば、さらにあるべからずとおもふは、小乗の見解なり。〕 空華が見えない時は、どのようであろうか。 〔空華みえざらんときは、なににてあるべきぞ。〕 小乗の人は、ただ空花は捨てるべきものとだけ知って...

翳人エイニンと出会って、空華も知り、空華も見るべきである『第十四空華』14-4-1b

  〔『聞書』私訳〕 /「釈迦牟尼仏言、また翳人の空中の華を見るが如し、翳病若し除こほれば、華空に滅す」とある。 「華空に滅す」とは、仏が実相を説くのである。衆生は類に従いそれぞれの理解を得るから、「空華」を妄想の法と見る。仏の知見では常住の法と見るのである。 /仏の知見をもって仏を見、法の知見をもって法を見るように、「空華」を「翳眼」によって見るべきである。「華の空に滅す」とは、「翳病」を除くことである。仏を「不見一法名如来」 一法も見ざるを如来と名づく) 」と言う。 「一法も見ず」と学ぶからには、「空華」も見ないのである。見る時は、「翳病」の眼である。「翳」と言えば、「病」と思ってすぐに悪いものと心得ることがあってはならないから、「華の空に滅するは、翳病の除するなるべし」と言うのである。 /三界が滅すれば一心も滅する。三界が滅しなければ一心も滅しない。三界が蹤跡を滅すれば一心である。花が滅すれば空であり、空をもって花とするのである。 「空華をみてのちに、華於空滅をもみるべきなり」とは、衆生が成仏するというほどのことである。「空華の種熟脱をしらず」とは、 《傍注:仏は衆生に種を下し熟させて得脱することをいう智慧である》 一切の智慧を「種熟脱」と言うのである。 〔『抄』私訳〕 「釈迦牟尼仏言、亦如翳人、見空中華、翳病若除、華於空滅《また翳人の空中の華を見るが如し、翳病若し除こほれば、華空に滅す》。この道著、あきらむる学者いまだあらず。空をしらざるがゆゑに空華をしらず、空華をしらざるがゆゑに翳人をしらず、翳人をみず、翳人にあはず、翳人ならざるなり」とある。 この仏の言葉は、ただ日頃の我々の考えと少しも違わないと、まず、文面からは見える。しかし、「翳人」とはどういう人か定め、「空中の華」というのもどれほどに落着すべきか。 「翳病若し除こほれば、華空に滅す」の仏の言葉も子細があるはずなのに、ただ倉卒に我見 (自分一人の狭い考え) を先にして、仏の言葉を簡単に凡夫の考えに引っ張り込んで心得る事は、決してしてはならないことである。だから、「この道著、あきらむる学者いまだあらず」と示されるのである。これ以下の言葉は文の通りである。 「翳人と相見して、空華をもしり、空華をもみるべし。空華をみてのちに、「華於空滅」をもみるべきなり」とある。 「翳人と相見して、空華をもしり」...

この空華を修行してはじめて悟りを得るのである『第十四空華』14-3-2a

  〔『正法眼蔵』原文〕  しかあるに、如来道の「翳眼 エイゲン 所見は空華」とあるを、 伝聞する凡愚おもはくは、「翳眼」といふは、 衆生の顚倒 テンドウ のまなこをいふ。 病眼すでに顚倒なるゆゑに、 浄虚空に空花を見聞するなりと消息す。 この理致を執するによりて、三界六道、有仏無仏、 みなあらざるをありと妄見するとおもへり。 この迷妄の眼翳もしやみなば、この空華みゆべからず。 このゆゑに「空本無華 クウホンムゲ 」と道取すると活計するなり。 あはれむべし、かくのごとくのやから、 如来道の空華の時節始終をしらず。 諸仏道の翳眼空華の道理、いまだ凡夫外道の所見にあらざるなり。 諸仏如来、この空華を修行して衣座室 エザシツ をうるなり、 得道得果するなり。 拈華し瞬目する、みな翳眼空花の現成する公案なり。 正法眼蔵涅槃妙心いまに正伝して断絶せざるを翳眼空華といふなり。 菩提涅槃、法身自性等は、空華の開五葉の両三葉なり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 ところが、如来の言う「 翳眼 エイゲン の見る所は空華だ」とあるのを、伝え聞いた凡愚のやからは、「 翳眼 (かすみ眼) 」とは 、衆生の顚倒の眼のことを言うのだと思い、その病眼はすでに顚倒であるから、清浄な青空にありもしない花を見るのだと思うのである。 〔しかあるに、如来道の「翳眼所見は空華」とあるを、伝聞する凡愚おもはくは、「翳眼」といふは、衆生の顚倒のまなこをいふ。病眼すでに顚倒なるゆゑに、浄虚空に空花を見聞するなりと消息す。〕 このような考えに執着して、三界六道の衆生、有仏無仏など、みなありもしないものをあると妄想するのだと 思っている。 〔この理致を執するによりて、三界六道、有仏無仏、みなあらざるをありと妄見するとおもへり。〕   〔また別のやからは、〕この顚倒妄想の眼病がもし治れば、この空華が見えなくなる。だから「空に本より華無し」と言うのだと理解するのである。 〔この迷妄の眼翳もしやみなば、この空華みゆべからず。このゆゑに「空本無華」と道取すると活計するなり。〕 憐れむべきである、このような輩は、如来が言う空華の咲く時・散る時を知らない。 〔あはれむべし、かくのごとくのやから、如来道の空華の時節始終をしらず。〕 諸仏が言う 翳眼 の空華の道理は、いまだ凡夫や外道の見るところではないのである。 〔諸仏道の...

この空華を修行してはじめて悟りを得るのである『第十四空華』14-3-2b

  〔『聞書』私訳〕 /謗となるといっても有無がないわけではない。「 空華 」を見るのも同じである。「 空華 」を見るのに能・所があるか。「諸法実相」をも見、「畢竟皆空」をもこの「 空華 」によって明らめるべきである。余門で「 翳人 」を知らずとは、病人とばかり思うからである。 /実相の言葉が第一義だと知っているが、「 空華 」が第一義であることを知らなければ、第一義も分からないのである。 /「 衣座室 」とは仏が悟る所であり、仏体である。虚空座と言う時は、仏と虚空は同体の身というのである。 〔『抄』私訳〕 「 しかあるに、如来道の翳眼所見は空華とあるを伝聞する凡愚おもはくは、翳眼といふは、衆生の顛倒のまなこをいふ。病眼すでに顚倒なるゆゑに、浄虚空に空花を見聞するなりと消息す 」とある。 「 翳眼 」と言えば、眼に病がある時に、空 ソラ にない花を誤って花があると見る、これは眼の病である。従って、虚しいものの喩えに「空華」を出すと思っている。だから、「 如来道の翳眼 」もこの道理を言われるのだと心得るのである。詳しくは解釈されているように、文の通り心得るべきである。 今、仏祖が言う「 空花 」は、決してこの意味ではなく、仏道と等しいのである。 「 この理致を執するによりて、三界六道、有仏無仏、みなあらざるをありと妄見するとおもへり。この迷妄の眼翳もしやみなば、この空華みゆべからず。このゆゑに空本無華と道取すると活計するなり 」とある。 文の通りである。これは凡見の間違いを嫌がられるのであり、邪見である。用いてはならない類である。 「 あはれむべし、かくのごとくのやから、如来道の空華の時節始終をしらず。諸仏道の翳眼空華の道理、いまだ凡夫外道の所見にあらざるなり 」とある。 文の通りである。 「 諸仏如来、この空華を修行して衣座室をうるなり、得道得果するなり。拈華し瞬目する、みな翳眼空花の現成する公案なり。正法眼蔵涅槃妙心いまに正伝して断絶せざるを翳眼空華といふなり。菩提涅槃、法身自性等は、空華の開五葉の両三葉なり 」とある。 「 諸仏如来 」が「 空華を修行 」するという言葉も、確かに耳に立つ言葉である。「 諸仏」の法 (教え) であるから人が修行すべきであるのに、あんなに妄の中の妄と思って言ってきた 「 空華 」を「諸仏」が「修行」するとは、どういうことかと...