〔『抄』私訳〕
「いま凡夫の学者、おほくは陽気のすめるところ、これ空ならんとおもひ、日月星辰のかかれるところを空ならんとおもへるによりて仮令すらくは、空華といはんは、この清気のなかに、浮雲のごとくして、飛花の風にふかれて東西し、および昇降するがごとくなる彩色のいできたらんずるを、空花といはんずるとおもへり」とある。
これは、凡見(凡夫の考え)の「空華」をいつも思ってい様子の間違いを挙げられるのである。
「能造所造の四大、あはせて器世間の諸法、ならびに本覚本性等を空花といふとは、ことにしらざるなり。又諸法によりて能造の四大等ありとしらず、諸法によりて器世間は住法位なりとしらず、器世間によりて諸法ありとばかり知見するなり」とある。
「四大、あはせて器世間の諸法、ならびに本覚本性等を空花といふ」とは、凡夫はこれを知らないのである。「又諸法によりて能造の四大等ありとしらず、諸法によりて器世間は住法位なりとしらず」、ただ「器世間によりて諸法ありとばかり」凡夫は「知見するなり」。
文の通りである。
「眼翳によりて空花ありとのみ覚了して、空花によりて眼翳あらしむる道理を覚了せざるなり」とある。
ただ眼の病によってない花をあるのだとばかり、凡夫はこれを心得、「空花によりて眼翳」がある道理を「知らない」というのである。「空華」は妄見でなく、「眼翳」は病でない道理を、十分に参学すべきである。
合掌
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