〔『聞書』私訳〕
/謗となるといっても有無がないわけではない。「空華」を見るのも同じである。「空華」を見るのに能・所があるか。「諸法実相」をも見、「畢竟皆空」をもこの「空華」によって明らめるべきである。余門で「翳人」を知らずとは、病人とばかり思うからである。
/実相の言葉が第一義だと知っているが、「空華」が第一義であることを知らなければ、第一義も分からないのである。
/「衣座室」とは仏が悟る所であり、仏体である。虚空座と言う時は、仏と虚空は同体の身というのである。
〔『抄』私訳〕
「しかあるに、如来道の翳眼所見は空華とあるを伝聞する凡愚おもはくは、翳眼といふは、衆生の顛倒のまなこをいふ。病眼すでに顚倒なるゆゑに、浄虚空に空花を見聞するなりと消息す」とある。
「翳眼」と言えば、眼に病がある時に、空ソラにない花を誤って花があると見る、これは眼の病である。従って、虚しいものの喩えに「空華」を出すと思っている。だから、「如来道の翳眼」もこの道理を言われるのだと心得るのである。詳しくは解釈されているように、文の通り心得るべきである。
今、仏祖が言う「空花」は、決してこの意味ではなく、仏道と等しいのである。
「この理致を執するによりて、三界六道、有仏無仏、みなあらざるをありと妄見するとおもへり。この迷妄の眼翳もしやみなば、この空華みゆべからず。このゆゑに空本無華と道取すると活計するなり」とある。
文の通りである。これは凡見の間違いを嫌がられるのであり、邪見である。用いてはならない類である。
「あはれむべし、かくのごとくのやから、如来道の空華の時節始終をしらず。諸仏道の翳眼空華の道理、いまだ凡夫外道の所見にあらざるなり」とある。
文の通りである。
「諸仏如来、この空華を修行して衣座室をうるなり、得道得果するなり。拈華し瞬目する、みな翳眼空花の現成する公案なり。正法眼蔵涅槃妙心いまに正伝して断絶せざるを翳眼空華といふなり。菩提涅槃、法身自性等は、空華の開五葉の両三葉なり」とある。
「諸仏如来」が「空華を修行」するという言葉も、確かに耳に立つ言葉である。「諸仏」の法(教え)であるから人が修行すべきであるのに、あんなに妄の中の妄と思って言ってきた「空華」を「諸仏」が「修行」するとは、どういうことかと疑うのである。
ただ、この「修行」によって「衣座室」を得、「得道得果する」と言うのである。普段思っている妄法(妄想の法)のような「空華」ではない道理がはっきり知られるのである。これはすなわち、「諸仏如来」の当体を「空華」と言うのである。だから、この道理をもって「修行」と言い、「衣座室」とも名付け、「得道得果」するのも、みな今の「空華」の道理を言うのである。
「拈華し瞬目する」姿も、「正法眼蔵涅槃妙心」も、みな「翳眼空花」の道理であるというのも、この意なのである。今の「菩提涅槃、法身自性等」を、しばらく「空華の開五葉の両三葉なり」と言うのである。
また、今の「翳眼」とは、眼の病で、悪いものの喩えだといつも凡夫は思っている。眼の病は、まさに眼のために悪いものである。仏道の「翳眼」は、「この空華を修行して衣座室をうるなり、得道得果するなり」とある。この病によって入証得果できる上は、この病を嘆くべきではない。十分に静かに思案すべきである。
合掌
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