〔『抄』原文〕
「雲巌道の某甲祇如是、師兄作麼生は、道吾のいふ道得八九成の道を道取せしむるがゆゑに、祇タダ如是と道取するなり。これ不留朕迹フリュウチンシャクなりといへども、
すなはち臂長衫袖短ヒヂナガクシテサンノソデミジカキなり。」
是は、「雲巌道の某甲祇如是」は「道吾」の「道得八九成の道」
を我も如此心得たりと云なり。
人の言葉を非不審。
「不留朕迹」とは、「雲巖」なるべきか、「道吾」なるべきか、
彼にも是にもとゞまらぬ所を「不留朕迹」と云なり。
是は古き詞なり。
仏性与蚯蚓も「不留朕迹」にあたるべし。
何詞も「不留朕迹」にあたるべし。
「臂長衫袖短」とは只一物なれども、
又しばらく二と云はるゝ事もある道理にいふなり。
たとへば無差別ことはりなれども、
暫「雲巖」与「道吾」よびいださるゝ程の事なり。
此心地を「臂長衫袖短」とは云なり。
「わが適来シライの道を道未尽ながらさしおくを、某甲祇如是といふにはあらず。」
如文。
所詮「雲巖」わが所存如此、人はいかに心得たるぞと云にはあらぬなり。
〔『抄』訳文〕
「雲巌道の某甲祇如是、師兄作麼生は、道吾のいふ道得八九成の道を道取せしむるがゆゑに、祇如是と道取するなり。これ不留朕迹なりといへども、すなはち臂長衫袖短ヒヂナガクシテサンノソデミジカシなり」とある。
これは、「雲巌道の某甲祇如是」とは「道吾」の「道得八九成の道(八九成に言い得たりという言葉)」を我もこのように解したと言うのである。
人の言葉を疑問に思ったのではないのである。
「不留朕迹(跡を留めない)」とは、「雲巌」なのか「道吾」なのか、
いずれにも留まらないところを「不留朕迹」と言うのである。
これは古い言葉であり、仏性と蚯蚓(ミミズ)も「不留朕迹」にあたる。
どんな言葉もあたるのである。
「臂長衫袖短(ひじは長く袖は短い)」とは、ただ一つの物であるが、
またしばらく二つに言われることもある道理を言うのである。
たとえば、差別の無い道理であるが、
しばらく「雲巌」と「道吾」を呼び出されたほどのことである。
この意味合いを「臂長衫袖短」と言うのである。
「わが適来シライの道を道未尽ながらさしおくを、某甲祇如是といふにはあらず」
とある。
文の通りである。つまるところ、雲巌が自分の考えはこうであるが、
人はどう解しているかと言うのではないのである
〔『聞書』原文〕
/「某甲祇如此」。
是又それがしとは雲巖ぞなむとは心得まじ。師兄とて外におくべからず。
〔『聞書』訳文〕
/「某甲祇如此ボウコウシジョシ(それがしはただこの通りだ)」とある。 これもまた、それがし(自分)とは「雲巌」のことだと解してはいけない。
「師兄」といって自分の外において解してはいけない。
合掌
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