『正法眼蔵』原文〕
道吾いはく、「通身是手眼ツウシンゼシュゲン」。
いはゆる道は、手眼たがひに手眼として通身なりといふにあらず、
手眼の通身を通身是手眼といふなり。
しかあれば、身シンはこれ手眼なりといふにはあらず。
用許多手眼は、用手用眼の許多なるには、
手眼かならず通身是手眼なるなり。
「用許多身心作麼ソモ」と問取せんには、
「通身是作麼」なる道得もあるべし。
〔『聞書抄』を組込んだ『正法眼蔵』読解〕
道吾は言った、「通身是れ手眼」。
この言葉は、身を置いて、その上に手と眼がびっしり取り付けられている
と言うのではない。
ただ手と眼そのものを通身と言い、別の物ではないのである。
〔身を置いて、その上に手と眼が取り付けられていると考えるのは、
凡夫の見方であり、仏法ではない。〕
そうであるから、身は手と眼であると言うのではない。
「用手用眼(手を用い、眼を用いること)」は、
「全手全眼(全てが手、全てが眼)」と言うようなことである。
〔仏々聻ニイ(仏そのもの)なり、性々聻(性そのもの)なりと言うほどのことである。
通身と言えば、どうしても身を置いて、その上に手と眼を備えていると
解するであろうところを退ける為に、このように繰り返し釈されるのである。〕
手と眼が身心である道理を表わすために、「たくさんの身心を用いて何をする」
と問われたら、「通身是れ何」という言い方もあろう。
合掌
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