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一人の力で持ち上げるのは、尋常の力量を超えている『第十八観音』18-6-2b(聞書抄)

 〔『抄』原文〕

「たとへば、尽十方界を百千万力に拈来するあらんも、拈来せざるにはすぐるべし。しかあるを、一力に拈来せんは、よのつねの力量なるべからず。いま八九成のこころ、かくのごとし。

  「百千」人乃至十二十人して持べからむ物を、一人してもちあげむ「力量」、実尋常の「力量」に超過すべし。

「八九成」の道も是程の事なりと云なり。


「しかあるを、仏祖の祇道得シドウトク八九成の道をききては、道得十成なるべきに、道得いたらずして八九成といふと会取す。仏法もしかくのごとくならば、今日にいたるべからず。」

  如文。「八九成」の詞を不足なりと打任て心得たる僻見を被嫌なり。


「いはゆるの八九成は、百千といはんがごとし、許多といはんがごとく参学すべきなり。」

  是又如文。此「八九成は百千と云はむが如し、許多といはんがごとし」とあり、始には数量にかゝはるべからずとあり、ここには「百千」乃至「許多」と云はむが如く可参学なりと云へば、参差したるやうに聞ゆ。

但始の心地は、「百千万」は多く「八九成」のすくなき心地を謝せむとて、「不可拘数量」とは云なり。

今は「許多」の道理の上は、「百千万」とも「許多」とも云はむ、さらに又其失あるべからざるなり。


「すでに八九成と道取す、はかりしりぬ、八九にかぎるべからずといふなり。」

  是は、「八」とも「九」とも云はゞ、

一に治定ヂャウしぬる心地もありぬべし。

「八九」とうけぬる上は、先数量にとゞまらざる詞とはしりぬべし。

常の詞にも、明日、明後日なむと云ふは、

一定其日と定めたる詞にはあらず。

所詮、ひしと定まりたる心地にはあらざるなり。


〔『抄』訳文〕

「たとへば、尽十方界を百千万力に拈来するあらんも、拈来せざるにはすぐるべし。しかあるを、一力に拈来せんは、よのつねの力量なるべからず。いま八九成のこころ、かくのごとし」とある。

 「百人千人」あるいは十人や二十人でようやく持ちあげられるようなものを、たった一人で持ち上げる「力量」は、

まさに尋常の「力量」を超えている。

「八九成(八九割の出来)」の言葉もこれほどのことであると言うのである。


「しかあるを、仏祖の祇道得シドウトク八九成の道をききては、道得十成なるべきに、道得いたらずして八九成といふと会取す。仏法もしかくのごとくならば、今日にいたるべからず」とある。

   文の通りである。

「八九成(八九割の出来)」の言葉を不十分なものと一般に解している誤った見方を嫌われるのである。


「いはゆるの八九成は、百千といはんがごとし、許多といはんがごとく参学すべきなり」とある。

   これも文の通りである。

「八九成は百千と云はむが如し、許多といはんがごとし」とある。始めには数量に関わるべきではないとあり、ここでは「百千」あるいは「許多」というように学ぶべきであると言えば、矛盾しているように聞こえる。

しかし始めの意味合いは、「百千万」は多く「八九成」は少ないという意味合いを退けようとして、「数量に関わるべきではない」と言うのである。

今は「許多(たくさん)」の道理の上では、「百千万」とか「許多」と言っても、まったく間違いはないのである。


「すでに八九成と道取す、はかりしりぬ、八九にかぎるべからずといふなり」とある。

  これは、「八」とか「九」と言えば、一つの数に定まっている意味もあろう。

「八九」と受けた以上は、まず数量に留まらない言葉と解するであろう。

日常の言葉でも、明日、明後日などと言うのは、特定の日と定めた言葉ではない。

つまるところ、しっかりと定まった意味ではないのである。


                            合掌


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