〔『抄』原文〕
「雲巌道の遍身是手眼の出現せるは、夜間背手摸枕子を講誦するに、遍身これ手眼なりと道取せると参学する観音のみおほし。この観音たとひ観音なりとも、未道得なる観音なり。」
是は、「遍身是手眼の出現せる」と云へば、「観音」の御身は一体にて、
「千の手」「千の眼」がひしと遍満して御身に取付たるやうに心得なり。
「雲巖道」の「観音」爾にはあらざるなり。
この「雲巌道の遍身是手眼」又「夜間背手摸枕子」の詞を、世人「講誦」しながら、「遍身これ手眼なり」と尋常に人の思たるように「道取せると参学する観音のみおほし」と被嫌。
ゆへに「未道得なる観音なり」とはさけらるゝなり。
「雲巌道の遍身是手眼といふは、手眼是身遍といふにあらず。遍はたとひ遍界なりとも、身手眼の正当恁麼は、遍の所遍なるべからず。身手眼にたとひ遍の功徳ありとも、攙奪サンダツ《おしかいなり》行市《イチノ》アンシの手眼にあらざるべし。」
是は、「雲巌」の「遍身是手眼」の「遍はたとひ遍界なりとも、身手眼の正当恁麼は、遍の所遍なるべからず」。
所詮、以「手眼」「遍」とつかふべし。
雲霧の空に「遍」したるやうに不可心得。
「手眼」の上に「遍」と云詞を暫おくべきなり。
「攙奪行市の手眼にあら」ずとは、今打任て人の心得たる「遍」ぞ「攙奪行市の手眼」とは云はるべき。
所詮、「雲巌」道の「遍身是手眼」の如く可心得なり。
〔『抄』私訳〕
「雲巌道の「遍身是手眼」の出現せるは、「夜間背手摸枕子」を講誦コウショウするに、「遍身これ手眼なり」と道取せると参学する観音のみおほし。この観音たとひ観音なりとも、未道得なる観音なり」とある。
これは、「遍身是手眼の出現せる(全身が千手千眼である観音が出現した)」と言えば、「観音」 の身は一つで、「千の手」「千の眼」がびっしりと遍満して身に取りついているように心得るが、「雲巖道」の「観音」はそうではないのである。
この「雲巌道の(雲巖が言う)遍身是手眼」や「夜間背手摸枕子」の言葉を、世間の人が読み唱えながら、「遍身これ手眼なり」と普通に人が思っているように「道取せると参学する観音のみおほし」と嫌われるのである。
だから「未道得なる(まだ言い得ていない)観音なり」といって避けられるのである。
「雲巌道の遍身是手」といふは、手眼是身遍といふにあらず。遍はたとひ遍界なりとも、身手眼の正当恁麼は、遍の所遍なるべからず。身手眼にたとひ遍の功徳ありとも、攙奪サンダツ《おしかいなり》行市アンシ《イチノ》の手眼にあらざるべし」とある。
これは、「雲巌」の「遍身是れ手眼」の「遍はたとひ遍界なりとも、身手眼の正当恁麼 は、遍の所遍なるべからず」ということである。
結局、「手眼(千手千眼)」を「遍」と使うのである。雲や霧が空に広く行き渡っているのと同じように「遍」を心得てはならない。
「手眼」の上に「遍」という言葉をしばらく置くべきである。
「攙奪行市の手眼にあらず(行商人から無理やり奪い取った手眼ではない)」とは、
今一般に人が心得ている「遍」を「攙奪行市の手眼」と言われるのである。
結局、「雲巌」がいう「遍身是れ手眼(全身が手眼である)」のように心得るべきである。
〔『聞書』原文〕
/「遍身是手眼」ならむには、「観音」を拝せむ時は「眼」にて拝すべきなり。
「千眼遍身」なり、能具所具の「眼」にてなし。
/「通身是手眼」《道吾詞》、教に云通教の心地の通にてなし。かれこれをおかざる「通」なり。総て「身」「手」「眼」の三、何を本として今二を令具足べきにてなし。ゆへに「通身」なるべし、「用許多身心作麼」といふ。
/「遍身是手眼」。
この「手眼」は身に具足したる手眼にあらず。「遍身」を「手眼」と云ゆへに、
全身全手全眼なるべし。世間を置て遍満と仕にてなし、能所なき「遍」なり。
〔『聞書』私訳〕
/「遍身是手眼(全身が手と眼)」であるなら、「観音」を拝む時は「眼」で拝むのである。
「千眼遍身(千の眼が全身に遍満していること)」であり、能具(具える側)と所具(具えられる側)の「眼」ではないのである。
/「通身是手眼(体中が手と眼)」《道吾の言葉》は、教学で言う通教ツウギョウ(声聞・縁覚・菩薩に共通する教え)の意味合いの「通」ではない。
あれこれ置かない「通」である。
そもそも「身」と「手」と「眼」は、何かを根本として他の二つを具えるというのではない。
だから「通身」なのであり、「用許多身心作麼(許多の身心を用いて作麼)」と言うのである。
/「遍身是手眼」。
この「手眼」は身に具足している手眼ではない。「遍身」を「手眼」と言うから、
全て「身」、全て「手」、全て「眼」である。世間を置いて遍満と使うのではない、
能所(主客)のない「遍」なのである。
合掌
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