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我れ会せり、我れ会せり『第十八観音』18-5-2b(聞書抄)

 〔『抄』原文〕

「 雲巌道の我会也ガエヤ、我会也は、道吾の道を我会するといふにあらず。

用恁麼の手眼を道取に道得ならしむるには、我会也、我会也なり。」


 是は、「道吾の道を我会するといふにあらず。用恁麼の手眼を道取に道得ならしむるには、我会也、我会也なり」とは、打任は「我」心得たりと云と聞ゆ。


但如此心得へば、甚ハナハダ其咎ソノトガ多し。其故は「雲巌」与「道吾」各別の人になりぬべし。


「雲巌」「道吾」の皮肉更非一非二、吾亦如是、汝亦如是なるべし。


又「道取」と「人」と又相対すべしゆへに被嫌なり。


此「用恁麼の手眼」と云は、前に「恁麼用」「用恁麼」と云はるゝ「用恁麼」なり。


「用恁麼」を「手眼」と談ぜば、「我」と云はるゝ「我」も吾我の「我」にあらず。


「会」も物を置て「会」すべき「人」の有とは、不可心得、此上は我も手眼、

会も手眼と可心得。


共に「手眼」の道理を被述詞なりと可心得歟。


六祖、南嶽の問答に「汝も亦如是、我も亦如是」とありし「我」なるべし。



「無端用這裡なるべし、無端須入シュニュウ今日なるべし。」


 今の詞は、「無端」と云は、無辺際の義なり。


「用這裡」も「須入今日」と云も、今は皆「手眼」なり。


「手眼」が「手眼」を「用」程の義、「手眼」が「手眼」に入道理なるべし。


此「無端用這裡」「無端須入今日」の詞は、「我会也、我会也」とも云はゝなり。


共に「手眼」が「手眼」なるゆへに。



〔『抄』訳文〕

「雲巌道の我会也ガエヤ、我会也は、道吾の道を我会するといふにあらず。用恁麼の手眼を道取に道得ならしむるには、我会也、我会也なり」とある。


 これは、「道吾の道を我会するといふにあらず。用恁麼の手眼を道取に道得ならしむるには、我会也、我会也なり」とは、普通は「我れ」は心得たと言うと聞こえる。


ただ、このように心得ると、その過ちは非常に多くなる。

その理由は、「雲巌」と「道吾」がそれぞれ別の人になってしまうからである。


「雲巌」と「道吾」の皮肉骨髄(全身心)は決して一でもなく二でもなく、

「我もまたかくの如し、汝もまたかくの如し」なのである。


また「道取(言うこと)」と「人」が相い対することになるために嫌われるのである。


この「用恁麼の手眼(真実の働きをしている手眼)」とは、

前に「恁麼用」「用恁麼」と言った「用恁麼」である。


「用恁麼」を「手眼」と言えば、「我」と言われる「我」も

吾我(自我)の「我」ではない。


「会(理会)」もものを置いて「会」する「人」がいると解することはできず、

この上は「我」も「手眼」、「会」も「手眼」と解すべきである。


共に「手眼」の道理を述べられる言葉であると解すべきである。


「六祖」と「南嶽」の問答に「汝もまたかくのごとし、我もまたかくのごとし」とあった「我」なのである。



「無端用這裡なるべし、無端須入シュニュウ今日なるべし」とある。


 今の言葉は、「無端」とは、無辺際の意味である。


「用這裡」も「須入今日」というのも、今は皆「手眼」である。


「手眼」が「手眼」を「用」いるほどの意味で、

「手眼」が「手眼」に入る道理である。


この「無端用這裡(無辺際に手眼が手眼を用いる)」「無端須入今日(無辺際に手眼が手眼に入る)」という言葉は、「我会也、我会也」とも言われるのである。


共に「手眼」が「手眼」であるからである。



〔『聞書』原文〕

/「我会也ガエヤ、我会也」と云は、「雲巖」に仰てはいはず。「用許多手眼」の時は、「雲巖」の身はあるかなきか不審なり。是は「会作麼生」なり、

非疑殆ギタイニ。「我」と云は「作麼生」の「我」なり。

〔錯簡のため『蒐書大成』105頁からこちらに移す。〕


/無端用這裡ムタンヨウシャリなるべし、無端須入シュニュウ今日なるべし」と云。


此「無端」は、無v境無v像、そのゆへと云事なしとはえたれども、有端とも云べし。


自然成仏道の自然なるべし。


「衆生如教行」なるゆへに、

いまの「無端」は「三界唯一心」程の「無端」なるべし。


/「大悲菩薩、用許多手眼」。


かく云へばとて、千手千眼と云様にあまたと云にあらず。


衆生の願に仰て「観音」の慈悲あるときおほきにつきて、

千手とも千眼とも云にてなき所を「許多」とは云かふるなり。


こゝを 仏の言にもすぐれてほむ。


仏よりも「未道得」なりと学する事なかれともいふ。


又「観音」「諸仏の父母」とも云なり。


手も眼も身も差別辺際なければ、「観音」とて別によび可出体なし。


/「如人夜間」の詞。


これ夜間と云へばとて、くらきにあらず。


境を別に置てみるべき物なきを、しばらく夜間と云ふゆへに、

のちには「日裏看山」と体脱す。


とるべきものを別におかぬゆへに、「背手摸枕子」の詞あり。


/「我会也、我会也」。


是又我を誰に仰オホセて云にあらず。


「如人夜間」の「我」、「許多手眼」の「我」なり。


言語の外に我を置て会すと云はず。「


会」と云も大悲菩薩の詞等を会するにてなし、「会」を菩薩と心得なり。


/「汝作麼生会」。


是も汝に非ず誰に非ざる「汝」なり。


「大悲菩薩」の「用許多手眼作麼」の「作麼生会」なるべし。



〔『聞書』私訳〕

/「我れ会エせり、我れ会せり」とは、「雲巖」が誰かに向かって言っているのではない。「許多の手眼を用いる」時は、「雲巖」の身はあるのかないのかはっきりしない。


これは「会作麼生」ということであり、疑っているのではない。


「我」は「作麼生」の「我」である。


/「無端用這裡なるべし、無端須入今日なるべし」という。


この「無端」は、対象がなく、形がなく、その原因ということがないと言っても、何かの端緒(切っ掛け)があってとも言える。


これは、「自然に仏道を成ず」という自然である。


「衆生は教の如く行ずる」から、

今の「無端」は「三界唯一心」というほどの「無端」である。


/「大悲菩薩、用許多手眼(観音はたくさんの手眼を用いる)」とある。


このように言っても、千手千眼と言うようにたくさんと言うのではない。


衆生の願いに応じて「観音」の慈悲が現れることが多いので、千手とか千眼という数で限定できないところを、「許多」と言い換えているのである。


ここを、仏の言葉でも「観音」を優れていると褒め、仏よりも「未だ言い得ていない」と考えてはならないとも言うのである。


また「観音」を「諸仏の父母」とも言うのである。


手も眼も身も違いや境界がないので、「観音」といって特別に呼び出す体はないのである。


/「如人夜間背手摸枕子(人の夜間に手を背にして枕子を摸すが如し)」とある。


これは「夜間」と言うからといって、暗いわけではない。


対象を別に置いて見るべき物がないことを、しばらく「夜間」と言うのであるから、後で、「日裏看山」と言い換えるのである。


取るべき物を別に置かないから、

「背手摸枕子(手を背にして枕を探り求める)」という言葉があるのである。


/「我会せり、我会せり(我れは理会した)」。


これもまた、「我」を誰かに当てて言うのではない。


「如人夜間(人の夜間に)」の「我」であり、「許多手眼」の「我」である。


言葉の外に「我」を置いて「会(理会)」すると言うのではない。


「会」するというのも「大悲菩薩」の言葉などを「会」するというのではなく、「会(理会)」を菩薩と解するのである。


/「汝作麼生会(汝はどう理会する)」。


これも汝ではなく、誰でもない汝である。


「大悲菩薩」が「用許多手眼作麼(あまたの手眼を用いてどうする)」の

「作麼生会(どう理会する)」なのである。



                    合掌


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