〔『抄』原文〕
「 雲巌道の我会也ガエヤ、我会也は、道吾の道を我会するといふにあらず。
用恁麼の手眼を道取に道得ならしむるには、我会也、我会也なり。」
是は、「道吾の道を我会するといふにあらず。用恁麼の手眼を道取に道得ならしむるには、我会也、我会也なり」とは、打任は「我」心得たりと云と聞ゆ。
但如此心得へば、甚ハナハダ其咎ソノトガ多し。其故は「雲巌」与「道吾」各別の人になりぬべし。
「雲巌」「道吾」の皮肉更非一非二、吾亦如是、汝亦如是なるべし。
又「道取」と「人」と又相対すべしゆへに被嫌なり。
此「用恁麼の手眼」と云は、前に「恁麼用」「用恁麼」と云はるゝ「用恁麼」なり。
「用恁麼」を「手眼」と談ぜば、「我」と云はるゝ「我」も吾我の「我」にあらず。
「会」も物を置て「会」すべき「人」の有とは、不可心得、此上は我も手眼、
会も手眼と可心得。
共に「手眼」の道理を被述詞なりと可心得歟。
六祖、南嶽の問答に「汝も亦如是、我も亦如是」とありし「我」なるべし。
「無端用這裡なるべし、無端須入シュニュウ今日なるべし。」
今の詞は、「無端」と云は、無辺際の義なり。
「用這裡」も「須入今日」と云も、今は皆「手眼」なり。
「手眼」が「手眼」を「用」程の義、「手眼」が「手眼」に入道理なるべし。
此「無端用這裡」「無端須入今日」の詞は、「我会也、我会也」とも云はゝなり。
共に「手眼」が「手眼」なるゆへに。
〔『抄』訳文〕
「雲巌道の我会也ガエヤ、我会也は、道吾の道を我会するといふにあらず。用恁麼の手眼を道取に道得ならしむるには、我会也、我会也なり」とある。
これは、「道吾の道を我会するといふにあらず。用恁麼の手眼を道取に道得ならしむるには、我会也、我会也なり」とは、普通は「我れ」は心得たと言うと聞こえる。
ただ、このように心得ると、その過ちは非常に多くなる。
その理由は、「雲巌」と「道吾」がそれぞれ別の人になってしまうからである。
「雲巌」と「道吾」の皮肉骨髄(全身心)は決して一でもなく二でもなく、
「我もまたかくの如し、汝もまたかくの如し」なのである。
また「道取(言うこと)」と「人」が相い対することになるために嫌われるのである。
この「用恁麼の手眼(真実の働きをしている手眼)」とは、
前に「恁麼用」「用恁麼」と言った「用恁麼」である。
「用恁麼」を「手眼」と言えば、「我」と言われる「我」も
吾我(自我)の「我」ではない。
「会(理会)」もものを置いて「会」する「人」がいると解することはできず、
この上は「我」も「手眼」、「会」も「手眼」と解すべきである。
共に「手眼」の道理を述べられる言葉であると解すべきである。
「六祖」と「南嶽」の問答に「汝もまたかくのごとし、我もまたかくのごとし」とあった「我」なのである。
「無端用這裡なるべし、無端須入シュニュウ今日なるべし」とある。
今の言葉は、「無端」とは、無辺際の意味である。
「用這裡」も「須入今日」というのも、今は皆「手眼」である。
「手眼」が「手眼」を「用」いるほどの意味で、
「手眼」が「手眼」に入る道理である。
この「無端用這裡(無辺際に手眼が手眼を用いる)」「無端須入今日(無辺際に手眼が手眼に入る)」という言葉は、「我会也、我会也」とも言われるのである。
共に「手眼」が「手眼」であるからである。
〔『聞書』原文〕
/「我会也ガエヤ、我会也」と云は、「雲巖」に仰てはいはず。「用許多手眼」の時は、「雲巖」の身はあるかなきか不審なり。是は「会作麼生」なり、
非疑殆ギタイニ。「我」と云は「作麼生」の「我」なり。
〔錯簡のため『蒐書大成』105頁からこちらに移す。〕
/無端用這裡ムタンヨウシャリなるべし、無端須入シュニュウ今日なるべし」と云。
此「無端」は、無v境無v像、そのゆへと云事なしとはえたれども、有端とも云べし。
自然成仏道の自然なるべし。
「衆生如教行」なるゆへに、
いまの「無端」は「三界唯一心」程の「無端」なるべし。
/「大悲菩薩、用許多手眼」。
かく云へばとて、千手千眼と云様にあまたと云にあらず。
衆生の願に仰て「観音」の慈悲あるときおほきにつきて、
千手とも千眼とも云にてなき所を「許多」とは云かふるなり。
こゝを 仏の言にもすぐれてほむ。
仏よりも「未道得」なりと学する事なかれともいふ。
又「観音」「諸仏の父母」とも云なり。
手も眼も身も差別辺際なければ、「観音」とて別によび可出体なし。
/「如人夜間」の詞。
これ夜間と云へばとて、くらきにあらず。
境を別に置てみるべき物なきを、しばらく夜間と云ふゆへに、
のちには「日裏看山」と体脱す。
とるべきものを別におかぬゆへに、「背手摸枕子」の詞あり。
/「我会也、我会也」。
是又我を誰に仰オホセて云にあらず。
「如人夜間」の「我」、「許多手眼」の「我」なり。
言語の外に我を置て会すと云はず。「
会」と云も大悲菩薩の詞等を会するにてなし、「会」を菩薩と心得なり。
/「汝作麼生会」。
是も汝に非ず誰に非ざる「汝」なり。
「大悲菩薩」の「用許多手眼作麼」の「作麼生会」なるべし。
〔『聞書』私訳〕
/「我れ会エせり、我れ会せり」とは、「雲巖」が誰かに向かって言っているのではない。「許多の手眼を用いる」時は、「雲巖」の身はあるのかないのかはっきりしない。
これは「会作麼生」ということであり、疑っているのではない。
「我」は「作麼生」の「我」である。
/「無端用這裡なるべし、無端須入今日なるべし」という。
この「無端」は、対象がなく、形がなく、その原因ということがないと言っても、何かの端緒(切っ掛け)があってとも言える。
これは、「自然に仏道を成ず」という自然である。
「衆生は教の如く行ずる」から、
今の「無端」は「三界唯一心」というほどの「無端」である。
/「大悲菩薩、用許多手眼(観音はたくさんの手眼を用いる)」とある。
このように言っても、千手千眼と言うようにたくさんと言うのではない。
衆生の願いに応じて「観音」の慈悲が現れることが多いので、千手とか千眼という数で限定できないところを、「許多」と言い換えているのである。
ここを、仏の言葉でも「観音」を優れていると褒め、仏よりも「未だ言い得ていない」と考えてはならないとも言うのである。
また「観音」を「諸仏の父母」とも言うのである。
手も眼も身も違いや境界がないので、「観音」といって特別に呼び出す体はないのである。
/「如人夜間背手摸枕子(人の夜間に手を背にして枕子を摸すが如し)」とある。
これは「夜間」と言うからといって、暗いわけではない。
対象を別に置いて見るべき物がないことを、しばらく「夜間」と言うのであるから、後で、「日裏看山」と言い換えるのである。
取るべき物を別に置かないから、
「背手摸枕子(手を背にして枕を探り求める)」という言葉があるのである。
/「我会せり、我会せり(我れは理会した)」。
これもまた、「我」を誰かに当てて言うのではない。
「如人夜間(人の夜間に)」の「我」であり、「許多手眼」の「我」である。
言葉の外に「我」を置いて「会(理会)」すると言うのではない。
「会」するというのも「大悲菩薩」の言葉などを「会」するというのではなく、「会(理会)」を菩薩と解するのである。
/「汝作麼生会(汝はどう理会する)」。
これも汝ではなく、誰でもない汝である。
「大悲菩薩」が「用許多手眼作麼(あまたの手眼を用いてどうする)」の
「作麼生会(どう理会する)」なのである。
合掌
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