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人間の目の素晴らしい力とは?番外編

 皆さんのご参考になるかもしれない動画に出会いました。こちらを何度もご覧になり、素晴らしい実感を味わってみてください。

正法眼蔵(人間の目の素晴らしい力)

尚、ご参考までに以下文字起こしをしました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・皆さんこんにちは、安穏寺チャンネルを ご覧いただきましてありがとうございます。チャンネル名は毎回変わるかもしれませ んけれどもご容赦ください。今日はですね、我々の人間のこの目の働きを通してある、我々が気がつかないでいる素晴らしい力に ついて勉強してまいりたいと思います。 


まず初めにですね、一度目を閉じてみて ください。で、ゆっくり開けます。 もう一度目を閉じます。で、目をゆっくり開け て ください。で、そこで最初に行われていること をよく観察してみてください。目というものは見る前にですね、写るという働きが先に あるんじゃないでしょうか。よくよく皆さん やってみてください。


目をまず閉じます。で、見ようとしてみてください。ぐーっと 今目を閉じてますから見えませんね。目を開けます、そうすると見るよりも先に写し出さ れるということが先にありませんか。この写し出される、写るという働きには私がありません。


自分が例えばキョロキョロあっちを 見ようとかですね、こっちを見ようとする ことは自分が自分で焦点を合わせようとしてますから、自分の意でそこに焦点を 合わせようとしてますですけれども、もう 一度目を閉じてください。目を閉じて ゆっくりと開けてみてください。見る前に写っている写し出されているということが がありませんか。


私たちの目という働き、目というものの力、働きはですね、そのこの我々の体の前にあることを、こうある角度で写し出す素晴らしい力 があります。目というレンズですね、皆さんのお持ちのカメラやスマートフォンや ムービーなどのレンズもですね、そのものをですねそのまま写し出す力があります。


写真 という言葉がありますが、真実を写すという、真実を写す本当の我々の素晴らしい働き、このマナコなん です。今のこの映像というものは今の皆さん の目がこう写し出すこの時しかないですね。この動画はもう過去のものでございますから、今私は別のところに行ってご飯とか 食べてるかもしれませんですが、今皆さんが 見ているこの世界というものはですね、 こっち行けばこういう様子が写し出され ますこっち行けばこっちの様子が写し出さ れ ますいつでも我々は今のことしか見てい ません。そしてありがたいことに、その今の景色と いうものは前の様子じゃもうないんですね。 前のことをとっくに離れてます。


そして今の皆さんの写し出してる景色 こそはですね、ありがたいことに良いとか 悪いがないんですね。そして皆さんの今写し出しているこの目 の働きというものはですね、好きとか嫌いが ないんですね。 そして今皆さんが見ているこの世界という ものは勝ったとか負けたとか優れてるとか 劣ってるとか美しいとか見にくいとかない んですね。 ド ドンただこうあるだけですよ。勝ったとか負けたとか損したとか得した とか苦しいと か楽になったとかないでしょ。そういう 素晴らしい写し出されがなされております。


これを仏教にですね、「無垢清浄の光」映像と言ってもいいでしょう。「無垢清浄の 光ありて、慧日(お日様)諸々の闇を破り、よく災いの風火を伏せ、普く明かに世間を照らしたもう」とかいう難しい表現が なされております無垢清浄のこの出来事 というものがいつも私たちの目の前に現れ ていてく清浄のこの出来事、仏様と言ってもいい、神様と言ってもいい、この現れはまるでお日様、日向、日の光のごとくにですね、もろもろの 闇をこう破るんです。皆さんの妄想も闇も 苦しみも悲しみも破ってるんですよ。


皆さん 本当に今写し出されてるこのもの本当に見るということはね、「無垢清浄の光ありて、慧日諸々の闇を破り、よく災いの風火を伏して、普く明かに世間を照らしたもう」もの、今皆さんが本当にこの出会っ てることに手が合わさるがのかのごとくに 出会うことによってその今出会っている ことが皆さんの心を浄化してくれる作って くれるということなんです。


事実というものはいつでも出来たて新鮮、取れたてほやほやです、産地直送でござい ます。あなた様限定です一期一会です。では、そういったところに目を当ててください・・・・・・・



                      合掌



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〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...

正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

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