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風も幡も動もみな心である『第十七恁麼』17-4-2a(正法眼蔵)

第四段② 六祖大鑑慧能禅師

[『正法眼蔵』原文]  

 しかあればすなはち、この道著ドウヂャクは風も幡も動も、

ともに心にてあると、六祖は道取するなり。


まさにいま六祖の道ドウをきくといへども、六祖の道をしらず。


いはんや六祖の道得を道取することをえんや。


為甚麼恁麼道イジンモインモドウ《甚麼ナニとしてか恁麼道インモイう》。


 いはゆる「仁者心動」の道をきゝて、

すなはち仁者心動といはんとしては、「仁者心動」と道取するは、

六祖をみず、六祖をしらず、六祖の法孫にあらざるなり。


いま六祖の児孫として、六祖の道を道取し、

六祖の身体髪膚をえて道取するには、恁麼いふべきなり。


いはゆる「仁者心動」はさもあらばあれ、さらに「仁者動」といふべし。


為甚麼恁麼道。


 いはゆる動者動なるがゆゑに、仁者仁者なるによりてなり。


「既是恁麼人」なるがゆゑに恁麼道なり。


[『正法眼蔵』訳文]  

 そうであれば、ここで言われていることは、

風も幡も動もみな心である(三界唯一心)、と六祖は言うのである。


まさに今、六祖の言葉を聞いたと言っても、

六祖が言った本当の意味を知らない。


いわんや六祖が説き示した仏法の道理を

自分の言葉で言うことなどどうしてできようか。


なぜそういう風に六祖が言ったのか、参じなければならない。


 六祖が言う「仁者心動」の言葉を聞いて、

「仁者心動」の内容を言おうとして、「仁者心動」と言うのは、

六祖の真意を見ず、六祖がどういう人か知らず、

六祖の仏法を汲む者ではないのである。


今、六祖の仏道を学ぶ者として、六祖が言わんとしていることを言い、

六祖の皮肉骨髄を単伝して言うならば、このように言うべきである:


六祖が言われた「仁者心動」は、それはそれとして、

さらに「仁者動」と言うべきである。


どうしてそのように言うのか。


 それは、「動」と言えば「動」となり、

「仁者」と言えば「仁者」となるからである。


「すでに仁者は恁麼人」であるからそのように言うのである。 


                           合掌 



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