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尽十方界は沙門の眼である『第十五光明』15-1-1a

 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。


〔『正法眼蔵』原文〕

 大宋国湖南長沙チョウシャ招賢大師、上堂示衆云ジシュウニイワク

  

尽十方界、是沙門眼。《尽十方界、是れ沙門の眼》

  

尽十方界、是沙門家常語。《尽十方界、是れ沙門の家常語》

  

尽十方界、是沙門全身。《尽十方界、是れ沙門の全身》

  

尽十方界、是自己光明。《尽十方界、是れ自己の光明》

  

尽十方界、在自己光明裏。《尽十方界、自己の光明裏に在り》

  

尽十方界、無一人不是自己。《尽十方界、一人として是れ自己にあらざる無し》


 仏道の参学、かならず勤学ゴンガクにすべし。


転疎転遠テンソテンノンなるべからず。


これによりて光明を学得せる作家ソカ、まれなるものなり。



〔『正法眼蔵』私訳〕

大宋国湖南の長沙景岑招賢大師が、法座に上って大衆に示して言う、

(大宋国湖南長沙招賢大師、上堂示衆云)


尽十方界(全世界)は、沙門(修行僧)の眼(私がなく見えるままの眼)である。

(尽十方界、是れ沙門の眼)


尽十方界は、沙門の日常の語である。

(尽十方界、是れ沙門の家常語)


尽十方界は、沙門の全身である。

(尽十方界、是れ沙門の全身)


尽十方界は、自己の光明である。

(尽十方界、是れ自己の光明)


尽十方界は、自己の光明の中にある。

(尽十方界、自己の光明裏に在り)


尽十方界は、一人として尽十方界が自己でないものはいない。

(尽十方界、一人として是れ自己にあらざる無し)


仏道の参学は、必ず熱心に光明を修行すべきである。

(仏道の参学、かならず勤学にすべし。)


光明と疎遠であってはならない。

(転疎転遠なるべからず。)


光明と疎遠であって光明を自己のものにできた

作家(仏道に弟子を導くことができる優れた師家)は、希なものである。

(これによりて光明を学得せる作家、まれなるものなり。)




                   合掌


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