第三段③
〔『正法眼蔵』原文〕
しかあるを、仏道の嫡嗣テキシに学しきたれるには、
無上菩提正法眼蔵、
これを寂静といひ、無為といひ、三昧といひ、陀羅尼ダラニといふ道理は、
一法わづかに寂静なれば、万法ともに寂静なり。
風吹フウスイ寂静なれば鈴鳴リンメイ寂静なり。
このゆゑに「倶寂静」といふなり。
心鳴は風鳴にあらず、心鳴は鈴鳴にあらず、心鳴は心鳴にあらずと道取するなり。
親切の恁麼なるを究辨キュウベンせんよりは、さらにたゞいふべし、
「風鳴なり」、「鈴鳴なり」、「吹鳴なり」、「鳴々なり」ともいふべし。
「何愁ガシュウ恁麼事」のゆゑに恁麼あるにあらず、
何関ガカン恁麼事なるによりて恁麼なるなり。
〔『正法眼蔵』私訳〕
ところが、仏道を正しく受け継いだ人に学んできた人は、
無上菩提正法眼蔵(この上ないさとり)、
これを寂静と言い、無為(因果を離れた不生不滅のありよう)と言い、三昧(寂静無為の本性を体験すること)と言い、陀羅尼ダラニ(善法を保持すること)と言うのである。
その道理は、わずか一つでも寂静であれば、あらゆるものはみな寂静であるということである。
風が吹くのが寂静ならば、鈴が鳴るのも寂静であるから、「倶に寂静」と言うのである。
心鳴(実物の音)は風鳴(風が鳴るという思い)ではない、心鳴は鈴鳴(鈴が鳴るという思い)ではない、
心鳴は心鳴だと説明する必要はないほどはっきりしていると言っているのである。
実物が最も親しく真実であることを究め尽くした後は、さらに
ただ「風が鳴る」、「鈴が鳴る」、「吹が鳴る」、「鳴が鳴る」と言えるであろう。
「恁麼の事(その時にその事がそのようにあるありようの事)を愁える必要はない」から
恁麼(かくの如く)あるのではない、
恁麼の事は自分がどうするというものではないから、恁麼(かくの如く)あるのである。
合掌
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