スキップしてメイン コンテンツに移動

一つでも寂静であれば、あらゆるものはみな寂静である『第十七恁麼』17-3-3b(聞書抄)

 〔抄原文〕

「何愁シウ恁麼事ナンソウレエムイムモノシヲのゆゑに恁麼あるにあらず、何関恁麼事なるによりて恁麼なるなり。」


 是は、「何愁恁麼事」と云へば、只一筋に恁麼なれば、なむぞ恁麼の事を愁む   

と許云たるやうにきこゆるを、「何関恁麼事なるによりて恁麼なるなり」とは、


風鳴なるべきか、鈴鳴なるべきか、心鳴なるべきか、いづれにあづかるべきぞと暫うけたる言葉なり、非不審。


「何」字如例いづれにもあたるべきなり。


説似一物即不中理なり。



〔抄私訳〕

「なんぞ恁麼事をうれへん」のゆゑに恁麼あるにあらず、「なんぞ恁麼事に関わらん」なるによりて恁麼なるなり」とある。


 これは「なんぞ恁麼事をうれへん」と言えば、ただひたすら恁麼であれば、どうして「恁麼事を愁えることがあろうか」とばかり言っているように思われるが、


「なんぞ恁麼事に関わらんなるによりて恁麼なるなり」とは、


「風が鳴る」のか、「鈴が鳴る」のか、「心が鳴る」のか、どれに関わるのか、としばらく受けとめた言葉であり、不審しているのではない。


 「何」という字は、例のように何にでも当てはまるのである。


「一物を説似すれども即ち中らず」という道理である。



〔聞書原文〕

/「親切の恁麼なるを究辨せむよりは」と云は、後ノチを勝たりと云はむとするには非ず。親切の恁麼ならむ時より後は、風鳴、鈴鳴、吹鳴、鳴々と云うべしとなり。


/「親切の恁麼なるを究辨せむよりは、さらにたゞいふべし」といふとあれば、「親切の恁麼なるを究辨」せりよりこのかたと心得るなり。さればこそ、吹鳴、鳴々と云ふ言葉も やすく云はるれ。自ミツカラ究辨キウハムとは心得まじ。


/「何愁恁麼事のゆゑに恁麼あるにあらず」と云は、欲得恁麼事が恁麼人とも既是恁麼人とも、今、何愁とも言わるゝときに、何愁と云より恁麼と心得べからずとなり。


/「何関恁麼事」と云は、会不会恁麼ならずと云事なし。その上は、実に何をかあづから むとなり。又、「関」とあるは、風鳴、鈴鳴、心鳴なむと云をあげて、何関恁麼事とも云うべし。



〔聞書私訳〕

/「親切の恁麼なるを究辨せむよりは」とは、〔実物が最も親しく真実であることを究め尽くした〕後を勝れていると言おうとしているのではない。


「親切の恁麼」である時から後は、「風が鳴る」「鈴が鳴る」「吹が鳴る」「鳴が鳴る」と言えるというのである。


/「親切の恁麼なるを究辨せむよりは、さらにたゞいふべし」とあるが、「親切の恁麼なるを究弁」してからはと理解するのである。


だからこそ、「吹が鳴る」「鳴が鳴る」という言葉も容易に言えるのである。


自ら「究め尽くす」というように解すべきではない。


/「「なんぞ恁麼事をうれへん」のゆゑに恁麼あるにあらず」とは、「恁麼事を得ようと欲すること」が「恁麼人」とも、「すでにこれ恁麼人」とも言われ、今、「なんぞうれへん」とも言われるときに、「なんぞうれへん」と言うから「恁麼」なのだと解すべきではない、ということである。

 

/「何ぞ恁麼事関わらん」とは、「会でも不会でも」恁麼でないということはないからには、本当に何も関わるものはないということである。


また、「関」とあるのは、「風が鳴る」「鈴が鳴る」「心が鳴る」などをあげて、

「何ぞ恁麼事に関わらん」とも言うことができるのである。


                              合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                           

     ↓               ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ   にほんブログ村PVアクセスランキング にほんブログ村

コメント

このブログの人気の投稿

春の松の有があり、秋の菊の無がある『第十七恁麼』17-4-5a(正法眼蔵)

  第四段⑤ 〔『正法眼蔵』原文〕  「無智疑怪 ムチギケ 、即為永失 ソクイヨウシツ 《智無きは疑怪す、即ち為めに永く失ふ》」といふ道あり。 智かならずしも有にあらず、智かならずしも無にあらざれども、 一時の春松 シュンショウ なる有あり、秋菊 シュウキク なる無あり。 この「無智」のとき、三菩提みな疑怪 ギケ となる、尽諸法みな疑怪なり。 このとき永失即為なり。 所聞すべき道、所証なるべき法、しかしながら疑怪なり。 〔『正法眼蔵』私訳〕                                「智無き者は疑い怪しむ為に永遠に真理を失う」という言葉がある。 智は必ずしも有でもなく、必ずしも無でもないが、 ある時は春の松の有があり、秋の菊の無があるのである。 この「無智」の時、無上菩提 (この上ない悟り) は、 すべて「疑い怪しむもの」となり、すべてのものが「疑い怪しむもの」となる。 この時こそが「永失即為 (永遠に真理を失うということが無上菩提の為すところである) 」 なのである。 聞くべき道も、証すべき法も、すべてが「疑い怪しむもの」となるのである。 世界の隅々に至るまで隠れる場所はなく真理はあらわれているから、 疑い怪しむことそのものは自分がやっていることではないのである 。 春の松の有があり、秋の菊の無がある『第十七恁麼』17-4-5b(聞書抄)                             合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村  

六祖の昔は新州の木こりであった『第十七恁麼』17-4-3b(聞書抄)

  〔聞書原文〕 /古教ありとしらんと云ふ。 是は、古教照心と云ふるき詞あり、近代の禅僧は祖師の言句を 推度 スイタク(オシハカル) する事あるべからず、はじめてわれとこそ法をば得れと云ふ。 尤古教照心の義にはそむくべし。 仏の言句、祖師の語話 ゴワ をこそ、よくよく校合 コウゴウ 了見すべけれ。 不然者、経論すべて無詮なり。 〔聞書私訳〕 /「古教ありとしらん」と言う。 これは、「古教照心 (古の教えが心を照らす) 」という古い言があるにもかかわらず、 近年の禅僧は祖師の言葉を深く考えることなく、 「自分が初めて法を得たのだ」と主張する傾向にある。 これはもっとも「古教照心」の教えに反するものである。 仏の言葉や祖師の語録を、 入念に校合 キョウゴウ (基準とする本文に照らして 本文の異同を確かめること) し、 深く考察すべきである。 そうしなければ、経論 (経典と注釈書) もすべて意味をなさなくなってしまうのである。                             合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村

有智と無智は同じ真実の異なる面として現れるのである『第十七恁麼』17-4-6a(正法眼蔵)

  恁麼⑥ 〔『正法眼蔵』原文〕 われにあらず、遍界かくるゝところなし。 たれにあらず、万里 バンリ 一条鉄なり。 たとひ恁麼して抽枝 チュウシ なりとも、 「十方仏土中、唯有一乗法」なり。 たとひ恁麼して葉落すとも、 「是法住法位 ゼホウジュウホウイ 、世間相常住 セケンソウジョウジュウ 」なり。 「既是恁麼事 キゼインモジ 」なるによりて、 有智と無智と、日面 ニチメン と月面 ガチメン となり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 自分以外の誰でもないからこそ、 万里の彼方まで一本の鉄のように真理は貫かれているのである。 たとえこのように真理が新しい枝を出すとしても、 それは「十方の仏の国土の中には、ただ一つの真実の教えしかない」ということである。 たとえこのように真理が葉を落とすとしても、 それは「この法は法位に住し、世間の相常住なり (この仏の教えは、真如という普遍不変の法の位に安住しており、一見無常に見えるこの世の現象も、実はそのままの姿で真理に照らされており、永遠である) 」ということである。 既にかくの如きありようであるから、 「有智」と「無智」は、日面の仏と月面の仏のように、 ただ同じ真理の異なる面として現れるのである。                             合掌 有智と無智は同じ真実の異なる面として現れるのである『第十七恁麼』17-4-6b(聞書抄) ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                    ↓               ↓       にほんブログ村