第三段②
〔『正法眼蔵』原文〕
これは、風フウの鳴メイにあらざるところに、我心鳴ガシンメイを学す。
鈴リンのなるにあらざるとき、我心鳴を学す。
我心の鳴はたとひ恁麼なりといへども、倶寂静グジャクジョウなり。
西天より東地につたはれ、古代より今日にいたるまで、
この因縁を学道の標準とせるに、あやまるたぐひおほし。
伽耶舍多の道取する、「風のなるにあらず、鈴のなるにあらず、心の鳴なり」
といふは、能聞ノウモンの恁麼時の正当ショウトウに念起あり、この念起を心シンといふ。
この心念もしなくば、いかでか鳴響を縁ぜん。
この念によりて聞モンを成ずるによりて、聞の根本といひぬべきによりて、
「心のなる」といふなり。
これは邪解なり、正師のちからをえざるによりてかくのごとし。
たとへば、依主隣近エシュリンゴンの論師リンジの釈のごとし。
かくのごとくなるは仏道の玄学ゲンガクにあらず。
〔『正法眼蔵』私訳〕
これは、風が鳴るのではないところで、自分の心が鳴ることを学び、
鈴が鳴るのではないとき、自分の心が鳴ることを学ぶのである。
自分の心が鳴るのはたとえ恁麼(かくの如し)であっても、「倶に寂静」である。
インドから中国に伝わり、昔から今日に至るまで、
この公案を仏道を学ぶ標準としてきたが、誤って理解している人が多い。
伽耶舎多が言う、「風が鳴るのではありません、鈴が鳴るのでもありません、心が鳴るのです」とは、聞く人がその瞬間(能聞の恁麼時の正当)鳴ったという思いが起こるのであり、この思いが起こること(その音に気づいた様子)を心と言うのである。
この心の中で思うことがなければ、どうして鳴る響きを生じさせることができようか(縁ぜん)。
この思うこと(念)によって聞こえるのであるから(聞を成ずるによりて)、聞くはたらきの根本は心だときっと言うであろうから、「心が鳴る」と言うのである。
しかしこれは誤った解釈である。
正しい師の教えを受けていないから、このようなのである。
たとえば、依主釈(主概念と従属概念との関係で解釈する:心が主で念が臣)や
隣近釈(近接概念で解釈する:念は心のはたらき)の論師の解釈のようである。
このようなことは仏道の奥深い学びではないのである。
合掌
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