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地によって倒れた者は、かならず空によって起きる『第十七恁麼』17-2-3b(聞書抄)

 〔抄原文〕

「いまだ西天に道取せず、天上に道取せずといへども、さらに道著の道理あるなり。いはゆる「地によりてたふるゝもの、もし地によりておきんことをもとむるには、無量劫ムリョウこうをふるに、さらにおくべからず」。まさにひとつの活路よりおくることをうるなり。いはゆる「地によりてたふるゝものは、かならず空クウによりておき、空によりてたふるゝものは、かならず地によりておくるなり」。もし恁麼あらざらんは、つひにおくることあるべからず、諸仏諸祖、みなかくのごとくありしなり。」


 是は、「因地倒者は必因地起」と云道理許を心得は、猶、不足あり。


此詞の響く所が、「因空起」と云道理が甚深なるなりと、先師被釈之なり。


「因空起」詞は先師の御詞なり。


「空」与「地」、只一物、非相違法ゆゑに、如此云はるゝなり。


天地懸隔なむと云て世間には不相応事に仕ふ詞なり。


是は凡見なり、不ズv足タラv為スルニv証セウト。


大唐国裏に一人の不悟者を求むるに難得なりと云しを、

一人半人の中に大唐国裏を求め心むべしと云し程の道理なり。



〔抄私訳〕

「いまだ西天に道取せず、天上に道取せずといへども、さらに道著の道理あるなり。いはゆる「地によりてたふるゝもの、もし地によりておきんことをもとむるには、無量劫ムリョウこうをふるに、さらにおくべからず」。まさにひとつの活路よりおくることをうるなり。いはゆる「地によりてたふるゝものは、かならず空クウによりておき、空によりてたふるゝものは、かならず地によりておくるなり」。もし恁麼あらざらんは、つひにおくることあるべからず、諸仏諸祖、みなかくのごとくありしなり。」とある。


 これは、「地によって倒れる者は、必ず地によって起きる」という道理だけ解するのでは、なお不足である。


この言葉の響くところが、「空によって起きる」という道理が甚だ深いのであると、先師は釈されるのである。


「空によって起きる」という言葉は先師のお言葉である。


「空」と「地」は、ただ一つのもので異なるものではないから、

このように言われるのである。


天地懸隔などといって世間では釣り合わないことに使う言葉である。


これは凡夫の考えで悟証の言葉とするには充分ではない。


これは「大唐国裏に一人の不 悟者を求むるに難得なり」と言うのを、「一人半人の中に大唐 国裏を求むべし」〔『大悟』の巻〕と言ったのと同じ道理である。


                       合掌


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