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悟っても悟らなくても、 悟りに妨げられ迷いに妨げられるのである『第十七恁麼』17-2-2a(正法眼蔵)

 第二段②

〔[正法眼蔵]原文〕

 大悟不悟ダイゴフゴ、却迷失迷キャクメイシツメイ、被悟礙被迷礙ヒゴゲヒメイゲ。


ともにこれ地にたふるゝものの地によりておくる道理なり。


これ天上天下テンジョウテンゲの道得なり、西天東地の道得なり、

古往今来コオウコンライの道得なり、古仏新仏の道得なり。


この道得、さらに道未尽ドウミジンあらず、道虧闕ドウキケツあらざるなり。


 しかあれども、恁麼会インモエのみにして、さらに不恁麼会なきは、

このことばを参究せざるがごとし。


たとひ古仏の道得は恁麼つたはれりといふとも、

さらに古仏として古仏の道を聞著モンヂャクせんとき、向上の聞著あるべし。




〔[正法眼蔵]私訳〕

 悟っても悟らなくても、

却って迷っても迷いが失くなっても、

悟りに妨げられ迷いに妨げられるのである。


すべて「地に倒れた者は地によって起きる」道理である。


これは天上界や人間界の言葉であり、インドや中国の言葉であり、

昔や今の言葉であり、古仏や新仏の言葉である。


この言葉は、けっして言い尽くしていないことはなく、

言い足りないことはない。


 そうであるが、このようにだけ理解して、

さらにこのようではない理解がないのは、

この言葉を究め尽くさないようなものである。


たとえ古仏の言葉はこのように伝わっているとしても、

さらに古仏として古仏の言葉を聞く時は、その上を聞かなければならない。




                       合掌


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