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もし地によって倒れれば、また地によって起きる『第十七恁麼』17-2-1a(正法眼蔵)

 第二段①

〔[正法眼蔵]原文〕

 古昔コシャクよりいひきたり、西天サイテンよりいひきたり、

天上よりいひきたれる道ドウあり。


いはゆる「若因地倒ニャクインチトウ、還因地起ゲンインチシキ、離地求起リチグキ、終無其理シュウムゴリ


《若し地に因りて倒るゝは、還た地に因りて起く、地を離れて起きんと求むるは、終ツイに其の理無けん》」。


 いはゆる道ドウは、「地によりてたふるゝものはかならず地によりておく、

地によらずしておきんことをもとむるは、さらにうべからず」となり。


しかあるを挙拈コネンして大悟をうるはしとし、身心をもぬくる道とせり。


このゆゑに、もし、「いかなるか諸仏成道の道理なる」と問著するにも、「地にたふるゝものの地によりておくるがごとし」といふ。


これを参究して向来コウライをも透脱トウダツすべし、末上マツジョウをも透脱すべし、

正当恁麼時ショウトウインモジをも透脱すべし。




〔[正法眼蔵]私訳〕

 昔から言われ、インドでも言われ、天上界でも言われてきた言葉がある。


それは、「もし地によって倒れれば、また地によって起きる。

地を離れて起きようとしても、終にその道理は無い」ということである。


 その言うところは、「地によって倒れた者は必ず地によって起き、

地を離れて起きようとしても、決してできない」ということである。


この道理を取り上げて、大悟を得る端緒とし、

身心を脱落するありようとして示すのである。


それゆえ、もし「どのようなことが諸仏が成道する道理か」と問うときも、

「地によって倒れた者が地によって起きるようなものである」と言うのである。


これを親しく究め尽くして、過去をも脱落すべし、未来をも脱落すべし、

今正にこのようにある現在をも脱落すべし。



                        合掌


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