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もし地によって倒れれば、また地によって起きる『第十七恁麼』17-2-1b(聞書抄)

 〔抄原文〕

「若因地倒、還因地起、離地求起、終無其理。」


 是は、梵王詞なり。此因縁は、仏入滅已後一百年の後、優婆毱多尊者《商那和修弟子》出現して化衆生給に、魔縁彼化導ドウを妨サマタげむとて伺ウカガウ程ホドに、或時、暫眠ネムリ給けるを見て、最サイ上の隙ヒマなりとて、魔縁、瓔珞を尊者の御頸クビにかけたり。


尊者、眠覚サメて見給に、はや天魔の所行なりと思て、或時に魔王に語て、此替に汝に花縵を与えしと、様々かざりたる花縵を頸に被懸たり。

魔縁悦て帰て見れば、人狗蛇の頭なり。如此不浄の物共をあみつらねて被懸たり。

くさくけがらわしき事無v限カギリ。

欲スルニv取ラムトv之、以神シム力被ラレ懸カケ たる上は、なじかはぬくべきものなり。

不被取周章之余アマリ、参乎梵王、歎ナゲキ申程に、我不可叶、十力の弟子の所行をば輒タヤスク難ガタシv取。


何度も仏弟子の所行をば仏弟子に参てこそ、歎ナゲキ申さめとて、其時此詞を以て、被教訓付此教。

又参₂優婆毱多₁歎申程に、さらば汝如此の魔心を懺悔サンゲして、可受三帰、然者可₂取放ハナス₁云々。


仍天魔忽タチマチニ懺悔、帰伏フクして受五戒之後、此花縵を被ラレ₂取棄ステ₁了ヲハヌ。


此梵王詞は、欲得恁麼事、須是恁麼人、既スデニ是恁麼人、何愁恁麼事の詞に不違なり。

只、恁麼詞与地詞の替目許なり。已下如文。


「しかあるを挙拈して、大悟をうるはしとし、身心をもぬくる道とせり。このゆゑに、もしいかなるか諸佛成道の道理なると問著するに、地に倒者地によりておくるが如しと云ふ。これを参究して向来をも透脱すべし、末上をも透脱すべし、正当恁麼時をも透脱すべし。」

  是は、地に倒もの、地に依りておくる道理、いづれもあたるべきなり。

其故は、いかなるか諸仏成道の道理なると問著するも、諸仏ならぬ物ありて、成道するにあらず、諸仏の諸 仏なる道理にて、諸仏成道とは云はるゝなり。

是則、地に倒者地に依ておくる道理にあたるべし。

迷を転じて悟となすと云も、迷はあしくさとりはいみじ、と思習はしたりつればこそ、迷悟各別には覚ゆれ。

迷悟已差別なからむ上は、迷を転じて悟になると云も、地に倒者、依地起道理なり。

故大悟不悟、却迷失シツ迷、被ラレ₂悟に礙サエ₁被ラレ₂迷ニ礙サエ₁とも云はるゝなり。

被迷礙被悟礙とは全迷全悟と云はむが如し。

全迷なる理が被迷礙とは云はるゝなり。


〔抄私訳〕

「若因地倒、還因地起、離地求起、終無其理〈もし地によって倒れれば、また地によって起き、地を離れて起きようとしても、終にその道理は無い〉」とある。


 これは梵天の言葉である。この因縁は仏の入滅後百年の後、優婆毱多尊者(商那和修尊者の弟 子)が出て、衆生を教化されたときに、悪魔がその化導(衆生を教化し善へと導くこと)を邪魔しようと思ってよい時をねらっていたときに、尊者が少しの時間眠られたのを見て、最上の機会として、悪魔が瓔珞ヨウラク(仏の装身具)の首飾りを尊者の首に懸けた。

尊者が眠りから覚めてご覧になると、早くも天魔の仕業だと知って、ある時悪魔に語った。〔結構な首飾りをもらったから、〕この替わりにお前に花縵ハナカズラを与えようと言って、様々にかざった花縵を悪魔の首に懸けた。

悪魔が喜んで帰ってみると、その花縵は人と犬と蛇の頭であった。

このように不浄な物を編み連ねて首に懸けられたので、臭くけがらわしいこと限りがなかった。

これを取り除こうとしたが、神力をもって懸けられたものなので、どうしても取り除くことはできなかった。


悪魔は慌てふためき、梵天のところに駆けつけ、これを取り除いてくださいと嘆願するので、「わしの力では十種の力が具わっている弟子の仕業を取り除くことはできない。何度も仏弟子の修行を仏弟子のところで行じて嘆願しなさい」と言った。その時梵天がこの言葉で教え諭し、この教えを授けたのである。


そこで悪魔が優婆毱多尊者に参じ嘆願するので、尊者は「それなら、お前はこのような魔心を懺悔し、三宝に帰依するがよい。そうすれば取り除くことができよう」と言った。

すると、悪魔はすぐに懺悔し、三宝に帰依して五戒を受けた後、花縵は取り捨てられた。

この梵天の言葉 は、〔弘覚大師の〕「欲得恁麼事゙、須是恁麼人。既是恁麼人、何愁恁麼事」(恁麼事を得んと欲す れば、須く是れ恁麼人である。既に是れ恁麼人である、どうして恁麼事を愁えん)の言葉と違わないのである。

ただ「恁麼」の言葉と「地」の言葉の違いだけである。以下は文の通りである。


「しかあるを挙拈して、大悟をうるはしとし、身心をもぬくる道とせり。このゆゑに、もしいかなるか諸佛成道の道理なると問著するに、地に倒者地によりておくるが如しと云ふ。これを参究して向来をも透脱すべし、末上をも透脱すべし、正当恁麼時をも透脱すべし」とある。


 これは、「地に倒れる者は地によりて起きる」道理がいづれも当てはまるのである。そのわけは「いかなるか諸仏成道の道理なる」(どのようなことが諸仏が成道する道理か)と問うのも、諸仏でないものがあって成道するのではない。

諸仏が諸仏である道理によって「諸仏が成道する」と言うのである。

これはすなわち「地に倒れる者は地によって起きる」道理に当たるのである。

迷を転じて悟とするというのも、迷は悪く悟りは良いと習い覚えているから、

迷と悟は別だと思っているのである。

迷と悟はすでに差別がないから、迷を転じて悟となるというのも、

「地に倒れる者は地によって起きる」道理である。

だから、「大悟であっても不悟であっても、迷っていても迷いが失くなっても、

悟りに邪魔され迷いに邪魔される」というのである。

「迷に邪魔され悟に邪魔される」とは全て迷、全て悟というようなことである。

全て迷である道理が「迷に邪魔される」と言われるのである。



〔聞書原文〕

/「若因地倒、還因地起、離地求起、終無其理」と云ふ。此心は全倒セムタウ全起なり、全空  全地なり。たふると云事、をくと云事、人の起倒の事をのぶるにあらず、空與地の間をし やすくするなり。但、如此云へば、又、倒者はもれたるに似たり。能々了見するに、所  詮、空與地、倒者と起者、又倒と云詞も起と云詞も、たゝ一なる事を示なり。是こそ、恁 麼の道理も、直趣無上菩提のことはりもあきらかなれ。迷悟は、無上菩提の上に置て解  く。迷は衆生、悟は仏ときこゆれとも、生仏《衆生と仏となり》一如とゝく全の心なり。


/如何是諸仏成道の道理と問はむに、やがて諸仏成道の道理とおしかゑし、答せむごとく なるべし。倒地依地起と云は、空に倒者依空起と云詞なし。又、空倒空に起、地倒地起と 云詞なし。又倒ぬれば不起、又起たる者不倒と云詞なし。是等の詞は、皆可同其理同ゆゑ に。


〔聞書私訳〕

/「もし地によって倒れれば、また地によって起き、地を離れて起きようとしても、終にその道理は無い」と言う。この意味は、すべて倒、すべて起であり、すべて空、すべてが地であるということである。倒れるということ、起きるということは、人の起きたり倒れたりする事を述べているのではなく、空と地との関係を分かりやすく示しているのです。しかし、このように言うと、やはり倒れた者は漏れたように見える。よく考えれば、つまるところ、空と地、倒れる者と起きる者、そして倒という言葉も起という言葉も、ただ一つであることを示しているのである。これによって、「恁麼」の道理も、無上菩提(最高の悟り)に直通する道理も明らかになるのである。迷とは、無上菩提の上に置いて理解する。迷は衆生、悟は仏と思われるが、衆生と仏は一つであると説くすべて衆生すべて仏の意味なのである。


/「どのようなことが諸仏が成道する道理か」と問うたのに対し、そのまま「諸仏が成 道する道理」と押し返して答えるようなものである。「地によって倒れる者は地によって起きる」というのは、「空に倒れた者は空によって起きる」という言葉がない。また「空に倒れ空によって起き、地に倒れ地によって起きる」という言葉がない。また「倒れれば起きず」、また「起きた者は倒れず」という言葉もないが、これらの言葉はみな同じである。その理が同じであるからである。


                        合掌


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