第一段③
〔『正法眼蔵』原文〕
身すでにわたくしにあらず、
いのちは光陰にうつされて、しばらくもとゞめがたし。
紅顔いづくへかさりにし、たづねんとするに蹤跡ショウセキなし。
つらつら観ずるところに、往事のふたゝびおふべからざるおほし。
赤心もとゞまらず、片々として往来す。
たとひまことありといふとも、
吾我ゴガのほとりにとゞこほるものにあらず。
恁麼なるに、無端に発心するものあり。
この心おこるより、向来キョウライもてあそぶところをなげすてゝ、
所未聞ショミモンをきかんとねがひ、所未証ショミショウを証せんともとむる、
ひとへにわたくしの所為にあらず。
しるべし、恁麼人なるゆゑにしかあるなり。
なにをもつてか恁麼人にてありとしる、
すなはち恁麼事をえんとおもふによりて恁麼人なりとしるなり。
すでに恁麼人の面目あり、いまの恁麼事をうれふべからず。
うれふるもこれ恁麼事なるがゆゑに、うれへにあらざるなり。
〔『正法眼蔵』現代語訳〕
この身はすでに私ではなく、命は時の流れに遷されて、
しばらくも留めておくことはできない。
紅顔はどこへ去ったのであろうか、尋ねてみようとしても跡形がない。
よく観察してみると、過去のことに再び会おうとしても多くは会うことはできない。
これだけは真実であると思っているまことの心も留まることなく、
その時その時で行ったり来たりする。
たとえ真実があるといっても、自分の考え方に停滞するものではない。
このようであるが、いつということもなく発心するものがある。
この心が発ると、これまで弄んできたことを投げ捨てて、まだ聞いたことがない真理を聞こうと願い、まだ悟っていないことを悟ろうと求めるのである。
こうしたことはまったく自分がなすところではないのである。
知らなければならない、恁麼の人であるから、菩提心が発るのである。
何によって、恁麼の人であると分かるのか。
それは、恁麼の事を得ようと思うから、恁麼の人であると分かるのである。
すでに恁麼の人の面目がある、今の恁麼の事を愁える必要はない。
愁えるとしても、恁麼の事であるから、愁いではないのである。

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