スキップしてメイン コンテンツに移動

すべてのものは悉くみな解脱である『第十六行持下』16下-11-2a

  〔『正法眼蔵』原文〕                     

高宗永徽辛亥歳、閏九月四日、忽垂誡門人曰、一切諸法悉皆解脱。  

汝等各自護念、流化未来。言訖安坐而逝。寿七十有二、塔于本山。   

明年四月八日、塔戸無故自開、儀相如生。爾後、門人不敢復閉。

《高宗の永徽エイキ辛亥カノトイの歳、閏ウルウ九月四日、忽ちに門人に垂誡シメして曰く、    

一切諸法は悉く皆解脱なり。汝等ナンダチ各自オノオノ護念すべし、未来を流化ルケすべし。  

言ひ訖りて安坐して逝す。寿七十有二。本山に塔たつ。

明年四月八日、塔の戸、故ユエ無く自ら開く、儀相生ける如し。爾後ソノノチ、門人敢てまた閉ぢず》


 しるべし、「一切諸法悉皆解脱」なり、諸法の空なるにあらず、

諸法の諸法ならざるにあらず、悉皆解脱なる諸法なり。


いま四祖には、未入塔時ミニュウトウジの行持あり、既在塔時の行持あるなり。


生者ショウジャかならず滅ありと見聞するは小見なり、

滅者は無思覚と知見せるは小聞ショウモンなり。


学道にはこれらの小聞小見をならふことなかれ。


生者の滅なきもあるべし、滅者の有思覚ユウシカクなるもあるべきなり。



〔『正法眼蔵』私訳〕

四祖は、唐の高宗の代、永徽二年九月四日、急に門人たちに示して言った、

「すべてのものは悉くみな解脱である。

お前たちはおのおのこのことを大切に護り、未来の世を教化せよ」と。

(高宗の永徽辛亥の歳、閏九月四日、忽ちに門人に垂誡して曰く、

 一切諸法は悉く皆解脱なり。汝等各自護念すべし、未来を流化すべし」。)


言い終わって坐禅したまま亡くなった。年は七十二歳であった。

本山(四祖山)に塔を建てた。

(言ひ訖りて安坐して逝す。寿七十有二。本山に塔たつ。)


次の年の四月八日、塔の扉が理由もなく自然に開いた、

坐禅している姿は生きているようであった。

(明年四月八日、塔の戸、故無く自ら開く、儀相生ける如し。)


その後、門人たちは敢てその扉を閉じようとはしなかった。

(爾後、門人敢てまた閉ぢず。)


知らなければいけない、「すべてのものは悉くみな解脱である」。

すべてのものは空であるのではなく、すべてのものはすべてのものでないのではなく、悉くみな解脱であるすべてのものなのである。

(しるべし、「一切諸法悉皆解脱」なり。諸法の空なるにあらず、

 諸法の諸法ならざるにあらず、悉皆解脱なる諸法なり。)


〔それを取り違えて空々寂々、なにもないことを解脱だと思ってはならない。

悉くみな解脱であることのほかになにもないのである。〕


今四祖には、まだ塔に入っていないときの行持があり、

すでに塔にいるときの行持があるのである。

(いま四祖には、未入塔時の行持あり、既在塔時の行持あるなり。)


生者は必ず滅があるとだけ見聞するのは小さな考えである、

死者は思量・知覚が無いと見るのは狭い理解である。

(生者かならず滅ありと見聞するは小見なり、滅者は無思覚と知見せるは小聞なり。)


仏道を学ぶには、このような狭小な理解や考えを学んではいけない。

(学道にはこれらの小聞小見をならふことなかれ。)


生者に死がないこともある、死者に思量や知覚があることもあるのである。

(生者の滅なきもあるべし、滅者の有思覚なるもあるべきなり。)


すべてのものは悉くみな解脱である『第十六行持下』16下-11-2b


                             合掌

ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                           

     ↓               ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ   にほんブログ村PVアクセスランキング にほんブログ村


コメント

このブログの人気の投稿

尽十方界は沙門の眼である『第十五光明』15-1-1a

  明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 〔『正法眼蔵』原文〕  大宋国湖南長沙 チョウシャ 招賢大師、上堂示衆云 ジシュウニイワク    尽十方界、是沙門眼。《尽十方界、是れ沙門の眼》    尽十方界、是沙門家常語。《尽十方界、是れ沙門の家常語》    尽十方界、是沙門全身。《尽十方界、是れ沙門の全身》    尽十方界、是自己光明。《尽十方界、是れ自己の光明》    尽十方界、在自己光明裏。《尽十方界、自己の光明裏に在り》    尽十方界、無一人不是自己。《尽十方界、一人として是れ自己にあらざる無し》  仏道の参学、かならず勤学 ゴンガク にすべし。 転疎転遠 テンソテンノン なるべからず。 これによりて光明を学得せる作家 ソカ 、まれなるものなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 大宋国湖南の長沙景岑招賢大師が、法座に上って大衆に示して言う、 (大宋国湖南長沙招賢大師、上堂示衆云) 尽十方界 (全世界) は、沙門 (修行僧) の眼 (私がなく見えるままの眼) である。 (尽十方界、是れ沙門の眼) 尽十方界は、沙門の日常の語である。 (尽十方界、是れ沙門の家常語) 尽十方界は、沙門の全身である。 (尽十方界、是れ沙門の全身) 尽十方界は、自己の光明である。 (尽十方界、是れ自己の光明) 尽十方界は、自己の光明の中にある。 (尽十方界、自己の光明裏に在り) 尽十方界は、一人として尽十方界が自己でないものはいない。 (尽十方界、一人として是れ自己にあらざる無し) 仏道の参学は、必ず熱心に光明を修行すべきである。 (仏道の参学、かならず勤学にすべし。) 光明と疎遠であってはならない。 (転疎転遠なるべからず。) 光明と疎遠であって光明を自己のものにできた 作家 (仏道に弟子を導くことができる優れた師家) は、希なものである。 (これによりて光明を学得せる作家、まれなるものなり。) 尽十方界は沙門の眼である『第十五光明』15-1-1b                    合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                                     ↓               ↓       にほんブログ村

人間の目の素晴らしい働き 番外編

  皆さんのご参考になるかもしれない動画に出会いました。こちらを何度もご覧になり、素晴らしい実感を味わってみてください。 動画: 正法眼蔵(人間の目の素晴らしい働き) 尚、ご参考までに以下文字起こしをしました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・皆さんこんにちは、安穏寺チャンネルを ご覧いただきましてありがとうご ざいます。チャンネル名は毎回変わるかもしれませ んけれどもご容赦ください。今日はですね、我々の人間のこの目の働きを通してある、我々が気がつかないでいる素晴らしい力に ついて勉強してまいりたいと思います。  まず初めにですね、一度目を閉じてみて ください。で、ゆっくり開けます。 もう一度目を閉じます。で、目をゆっくり開け て ください。で、そこで最初に行われていること をよく観察してみてください。目というものは見る前にですね、写るという働きが先に あるんじゃないでしょうか。よくよく皆さん やってみてください。 目をまず閉じます。で、見ようとしてみてください。ぐーっと 今目を閉じてますから見えませんね。目を開けます、そうすると見るよりも先に写し出さ れるということが先にありませんか。この写し出される、写るという働きには私がありません。 自分が例えばキョロキョロあっちを 見ようとかですね、こっちを見ようとする ことは自分が自分で焦点を合わせようとしてますから、自分の意でそこに焦点を 合わせようとしてますですけれども、もう 一度目を閉じてください。目を閉じて ゆっくりと開けてみてください。見る前に写っている写し出されているということが がありませんか。 私たちの目という働き、目というものの力、働きはですね、そのこの我々の体の前にあることを、こうある角度で写し出す素晴らしい力 があります。目というレンズですね、皆さんのお持ちのカメラやスマートフォンや ムービーなどのレンズもですね、そのものをですねそのまま写し出す力があります。 写真 という言葉がありますが、真実を写すという、真実を写す本当の我々の素晴らしい働き、このマナコなん です。今のこの映像というものは今の皆さん の目がこう写し出すこの時しかないですね。この動画はもう過去のものでございますから、今私は別のところに行ってご飯とか 食べてるかもしれませんですが、今...

むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2a

〔『正法眼蔵』原文〕  「還仮悟否 ゲンケゴヒ 《 還 カエ って悟を仮るや否や 》」。 この道をしづかに参究して、 胸襟 キョウキン にも換却すべし、 頂𩕳 チョウネイ にも換却すべし 。  近日大宋国禿子 トクス 等いはく、「悟道是本期 ゼホンゴ 《悟道是れ本期なり》 」。 かくのごとくいひていたづらに待悟す。 しかあれども、 仏祖の光明 にてらされざるがごとし。 たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰 ランダ にして蹉過 サカ するなり。 古仏の出世にも度脱せざりぬべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕   「 むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 」。 この言葉を静かに親しく究め尽くして、 心の中のものとも取り換えなさい、 頭の中のものとも取り換えなさい 。 (「還仮悟否」。この道しづかに参究して、胸襟にも換却すべし、 頂𩕳 にも換却すべし。)   近頃、大宋国では、頭を剃って坊さんの格好をした連中が、 「仏道修行は道を悟ることが本来の目的だ」と言っている。 このように言って、無駄に悟りが来るのを待っている。 (近日大宋国禿子等いはく、悟道是れ本期なり。かくのごとくいひていたづらに待悟す。) そうであるけれども、 仏陀や祖師と同じような 自己の光明 に照らされないようなものである。 (しかあれども、仏祖の光明にてらされざるがごとし。) ただ真の善知識 (人を正しく導く師) について学ぶべきであるのに、 時間を無駄に過ごして 大道(自己の光明に照らされる在り様) を踏み間違えているのである。 (たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。) たとえどんな仏の出生に出会っても、解脱しないであろう 。 (古仏の出世にも度脱せざりぬべし。) むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2b                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村