〔抄私訳〕
第三十一祖大医禅師の段、文の通りである。中国第四祖はこれである。
三度勅請を辞した。
「第四度、使に命じて曰く、如モシ果ハタして赴せずば、即ち首コウベを取りて来れ。使、山に至つて旨を諭サトす。師乃ち頭を引いて刄ハに就く、神色儼然たり。使、之を異として、廻つて状聞ジョウブンす。帝彌加歎して慕う。就いて珍 を賜して、以て其の志を遂ぐ」云々とある。「生者かならず滅ありと見聞するは小見なり、滅者は無思覚と知見せるは小聞なり」という。
これは、生死についての普通の理解の仕方を否定するのである。全て生であるとき、全て死であるときは、必ずしも生者に必ず滅があると学ぶべきではないのである。生者の滅がないのは、すなわちこれが全て生であるからである。「滅者の有思覚なり」というのは、全て死であることを「有思覚」と学ぶからである。
〔聞書私訳〕
/第三十一祖《真丹第四祖》大医禅師。
/今、師の入滅の後《永徽エイキ七年九月八日、世を去る。翌年四月八日、塔の戸、自然に開く、儀相は生けるが如し、とある》、次の年、塔の戸が開き、姿形は生きているようであったから、「生者必ず滅あり」「滅者は無思覚と知見せるは小聞なり」「生者の滅なきもあり」「滅者の有思覚ともあり」などと証拠を引いていうのではない。
この証拠は道信一代限りの稀な例であり、人がみなこの通りだというのではない。
仏法では「生也全機現、死生也全機現」と説く意味で理解するのである。
滅というのは煩悩であり、死と理解してはならない。滅とは仏の涅槃と合わせて理解すべきである。「無思覚」「有思覚」の有無は仏性の有無である。
合掌
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