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行持の功徳は、時に顕れず隠れる。そのために見聞覚知しないのである『正法眼蔵第十六行持』16-1-3a

 〔『正法眼蔵』原文〕

その行持の功徳、ときにかくれず。


かるがゆゑに発心修行す。


その功徳、ときにあらはれず、かるがゆゑに見聞覚知せず。


あらはれざれども、かくれずと参学すべし。


隠顕存没オンケン ゾンモツに染汚ゼンナせられざるがゆゑに。


われを見成する行持、いまの当穏トウオンに、

これいかなる縁起の諸法ありて行持すると不会フエなるは、

行持の会取エシュ、さらに新条の特地にあらざるによりてなり。


縁起は行持なり、行持は縁起せざるがゆゑにと、功夫参学を審細にすべし。


かの行持を見成する行持は、すなはちこれわれらがいまの行持なり。


行持のいまは、自己の本有元住ホンヌ ゲンジュウにあらず、

行持のいまは、自己に去来出入コライシュツニュウするにあらず。


いまといふ道は、行持よりさきにあるにはあらず、

行持現成するをいまといふ。   



〔『正法眼蔵』私訳〕

その行持の功徳は、時に隠れず顕れる。

そのために発心し修行するのである

その行持の功徳は、時に顕れず隠れる。

そのために見聞覚知しないのである。

(その行持の功徳、ときにかくれず。かるがゆゑに発心修行す。

その功徳、ときにあらはれず。かるがゆゑに見聞覚知せず。) 


行持の功徳は顕れなくても、隠れることはないと参学すべきである。

(あらはれざれども、かくれずと参学すべし。) 


行持の功徳は、隠れたり顕れたり在ったりなかったりすることに、染め汚されないから、我を現成する行持が、あるときは顕れあるときは隠れるときに、これがどのような縁によって行持するのか分からないのは、行持によって知られるものが、決して新しい特別な境地ではないからである。

(隠顕存没に染汚せられざるがゆゑに、われを見成する行持、いまの当穏に、これいかなる縁起の諸法ありて行持すると不会なるは、行持の会取、さらに新条の特地にあらざるによりてなり。)                        


縁によって起こるのは俗情の行持である、諸仏の行持は縁によって起こるのではないからと、努力し参禅学道を詳しく細やかにすべきである。

(縁起は行持なり、行持は縁起せざるがゆゑにと、功夫参学を審細にすべし。)  


不染汚フゼンナ(いかなるものにも染め汚されない)の行持を現成する行持は、

すなわち我々の今の行持である。

(かの行持を見成する行持は、すなはちこれわれらがいまの行持なり。)    


行持の今は、自己に元からあるものではない。

行持の今は、自己に去来したり出入するものではない。

(行持のいまは、自己の本有元住にあらず。行持のいまは、自己に去来出入するにあらず。)

〔坐禅をしている、作務をしている、飯台についている、そのように縁起しているとき、それを行持の今と言う。〕                                      


今という言葉は、行持より前にあるのではない、

行持が現成するときを行持の今と言うのである。

(いまといふ道は、行持よりさきにあるにはあらず、行持現成するをいまといふ。)




                 合掌


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