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この公案は、七仏以前のことである『第十五光明』最終回15-4-3a

 〔『正法眼蔵』原文〕

いま帰方丈、入僧堂、これ話頭出身なり。


相見底の道理なり、相見了也リョウヤ僧堂なり。


地蔵院真応大師云イワク、「典座入庫堂テンゾニュウコドウ

《典座、庫堂に入る》。


この話頭は、七仏已前事なり。



正法眼蔵光明第十五


仁治ニンジ三年壬寅ミズノエトラ夏六月二日夜、三更四点、

示衆于観音導利興聖宝林寺。


于時トキニ梅雨霖霖バイウリンリン、簷頭滴滴エントウテキテキ


作麼生是光明在ソモサンカコレコウミョウザイ


大家タイカ未免イマダマヌガレス雲門道覰破ウンモンドウニチョハセラレルコトヲ


寛元二年甲辰キノエタツ臘月ロウゲツ中三日

在越州大仏寺之侍司之を書写す 。  懐弉エジョウ



〔『正法眼蔵』私訳〕

地蔵院真応大師(正しくは清谿洪進禅師)が言った、

「典座和尚(炊事役)が庫裡クリ(台所)に入る」。

(地蔵院真応大師云、典座入庫堂《典座、庫堂に入る》。)

〔庫裡のほかに典座の世界はない。娑婆世界は釈迦仏の御身だ。

そのことを典座入庫堂と言う。〕


この公案は、七仏以前のことである。

(この話頭は、七仏已前事なり。)




正法眼蔵第十五光明の巻終わる


仁治三年壬寅(1242年)夏6月2日夜午前2時近く、

観音導利興聖宝林寺にて大衆に示す。

(仁治ニンジ三年壬寅ミズノエトラ夏六月二日夜、三更四点、

示衆于観音導利興聖宝林寺。)                       


時に、梅雨の長雨が降り続き、

ひさしの先から滴シズクがぽたぽたとしたたっている。

(于時梅雨霖霖、簷頭滴滴。)


いかなるものが光明か〔、滴の一滴一滴がみな仏光明だ〕。

(作麼生是光明在。)


諸君は、雲門大師に「諸君はみな光明だと見破った」

と言われたことを未だ免れることができないでいるぞ。

(大家未免雲門道覰破



寛元二年甲辰(1244年)12月13日、越州の大仏寺(2年後に永平寺に改称)の侍者寮でこれを書写する。 懐弉

(寛元二年甲辰臘月中三日在越州大仏寺之侍司之を書写す) 




                   合掌


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〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...

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