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正5-3-2『第五即心是仏』第三段② 南方の知識の教え 聞書抄

 〔抄私訳〕

大事な点が多いのでこれを略述する。つまる所、今の南方の知識人の師範となるべき存在であり、勝れた徳を持つ人の見解は、外道の考えと同じなので、これを斥けられるのである。文の通りである。


「檀経」とは中国禅宗第六祖慧能の説法集のことである。「他の檀経ダンキョウを把って改換して、鄙譚ヒタンを添糅テンジュウし、聖意ショウイを削除して後徒ゴトを惑乱す」とは、思いの外の事である。



〔聞書私訳〕

/「大唐国大証国師慧忠和尚」の段。


/「頭に桎るれば頭を知り、脚に桎るれば脚を知る」とは、その物によってその事を知るというほどの事に使うのである。この桎の字は、手かぎ・足かぎと注釈するか、どうか。《傍注:この注は誤か》


「南方」とは、五祖から二つに分かれた今の六祖慧能の流れである。北地とは、もう一つの神秀ジンシュウ上座の流れである。注:北地のことはこの草子にないが、ついでにこれを注釈しておく。》


胎息観タイソクカン(呼吸法の一種)は、達磨宗でこれを説き、秘蔵の事であると言う。但し、まだそれを説いた人のことを聞かず、またその法を行じた証拠はないのである。


/「他の檀経を把って改換して」と言う、

この「檀経」とは、六祖の説法集のことである。「鄙譚ヒタンを添糅テンジュウし」とは、卑しく悪くするということである。「言教」とは、「聖意ショウイを削除して後徒ゴトを惑乱す」るもの を、教とは言えないというのである。だから、「豈アニ言教と成さんや」と言う。


「浄名不応云」と言う、これは維摩居士ユイマコジの言葉に、「法は、見聞覚知を離れる。もし見聞覚知を行ずれば、それは見聞覚知で、決して法を求めるものではない」とあり、この事を明らかにするのである。



                         合掌



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コメント

  1. この様な書込大変失礼致します。日本も当事国となる台湾有事を前に 国民の分断を煽る国内の反日の危険性をどうか一人でも多くの方に知って頂きたいです。

    今や報道は無法国の代弁者となり、日本の国益は悪に印象操作、反日帰化の多い野党や中韓の悪事は報じない自由で日本人の知る権利を阻む異常な状態です。

    世論誘導が生んだ民主党政権、公約反故から、中韓を利す為の超円高誘導による日本企業や経済の衰退、技術を韓国に渡さぬJAXAを恫喝や、3万件の機密漏洩など韓国への利益誘導に働き、日本は破綻寸前でした。

    今も内外から中韓の侵略が進む中、あの時彼らが日本をいかに危険な状態に陥れ、一度の失敗がどれだけ後遺症を与えたか、どうか読んで頂きたいです。
    https://88moshi.hatenablog.com/
    メディアに踊らされず、掛け替えないこの日本を知り守る機になる事を願います。

    返信削除
    返信
    1. akiさんコメントありがとうございます。同感です。ともどもがんばってまいりましょう。

      さて、日本衰亡の危機の真っ只中に、戦後レジームから脱却できる一つの可能性が現れています。石破政権のゴタゴタ・総選挙での自民党大敗の先に、#高市早苗政権誕生の可能性があります。このまま日本は衰亡の道を歩み続けるのか、それとも日本復活の道を歩み始める高市政権が誕生するのか、日本人一人一人の思いにかかっていると思っています。

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正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...