〔抄私訳〕
大事な点が多いのでこれを略述する。つまる所、今の南方の知識(人の師範となるべき存在であり、勝れた徳を持つ人)の見解は、外道の考えと同じなので、これを斥けられるのである。文の通りである。
「檀経」とは中国禅宗第六祖慧能の説法集のことである。「他カの檀経ダンキョウを把トって改換して、鄙譚ヒタンを添糅テンジュウし、聖意ショウイを削除して後徒ゴトを惑乱す」とは、思いの外の事である。
〔聞書私訳〕
/「大唐国大証国師慧忠和尚」の段。
/「頭に桎フるれば頭を知り、脚に桎るれば脚を知る」とは、その物によってその事を知るというほどの事に使うのである。この桎の字は、手かぎ・足かぎと注釈するか、どうか。《傍注:この注は誤か》
「南方」とは、五祖から二つに分かれた今の六祖慧能の流れである。北地とは、もう一つの神秀ジンシュウ上座の流れである。《傍注:北地のことはこの草子にないが、ついでにこれを注釈しておく。》
胎息観タイソクカン(呼吸法の一種)は、達磨宗でこれを説き、秘蔵の事であると言う。但し、まだそれを説いた人のことを聞かず、またその法を行じた証拠はないのである。
/「他の檀経を把って改換して」と言う、
この「檀経」とは、六祖の説法集のことである。「鄙譚ヒタンを添糅テンジュウし」とは、卑しく悪くするということである。「言教」とは、「聖意ショウイを削除して後徒ゴトを惑乱す」るもの を、教とは言えないというのである。だから、「豈アニ言教と成さんや」と言う。
「浄名不応云」と言う、これは維摩居士ユイマコジの言葉に、「法は、見聞覚知を離れる。もし見聞覚知を行ずれば、それは見聞覚知で、決して法を求めるものではない」とあり、この事を明らかにするのである。
合掌
ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。
コメント
コメントを投稿