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米は白くなったか、まだか『第十七恁麼』17-4-7b(聞書抄)

〔抄原文〕

「恁麼人なるがゆゑに、六祖も発明せり。つひにすなはち黄梅山に参じて《傍注:六祖は十一歳にて》大満禅師を拝するに、行堂に投下トウカせしむ。《傍注:父におくる六祖の父は流人なりけり》昼夜に米を碓ツクこと、わづかに八箇月をふるほどに、あるとき夜ふかく更たけて、大満みづからひそかに碓房タイボウにいりて六祖にとふ、「米白也未ベイハクヤミ」と。六祖いはく、「白也未有篩在ハクヤミウシザイ」と。大満つゑして臼をうつこと三下するに、六祖箕にいれる米をみたび簸る。このときを師資の道ドウあひかなふといふ。みづからもしらず、他も不会なりといへども、伝法伝衣まさしく恁麼の正当時節なり。」


  是は、五祖与六祖問答を被明なり。

法性ぞ、真如ぞなむと云へば、仏法と覚ゆ、今問答なむとは無風情、世間・世情の無何そゞろ事を口に任て云たる様に聞ゆ。

されば、祖師の仏法は、無何いたづら事、児がワウ、めのとがワウ、雀のシウシウ、カラスのカウカウなむと云程の事ぞなむと究竟、長老共云とかや。

此説ぞ、堅固の徒事なる。

おのれが理にくらからむからに、仏法をやぶるべきにあらず。

罪業の至り可恐々々。

此問答能々可了見事なり。

抑祖師の仏法にいたづらなる詞、又無何そゞろ事相交なむや。

先此一事を能々心得居事なり。

仏祖のもちいる米白也未の詞、いかにと可心得ぞ。

定子細あるらむと心を付て可参学なり。

法性、真如、三昧、陀羅尼と云はむに聊も不可有勝劣。

法性の草子にも著衣、喫飯、言談祇対、六根運用、尽是法性とありき。

今の米白也未の米も真如・仏性をさしてや被仰つらむおぼつかなし。

六祖の白也未有篩在の詞も、会仏法の上に不会仏法の理あり、

即心是仏の道理が非心非仏と云はるゝ理をもや具足すらむ。

いかさまにも、祖師の仏法を無何詞ぞとていたづらに閣サシオク事、

返々倉卒の至イタリなり。

不見正師之所致なり。可恥々々、可恐々々。


三たびひる姿、諸法をあらわす義にてもやあるらむ。

五祖与六祖あはひ凡慮難測事なり。

実此義、自も不知、他も不会なれども、伝法伝衣の時節すでにこゝにきわまりぬ。可貴々々。


〔抄私訳〕

「恁麼人なるがゆゑに、六祖も発明せり。

つひにすなはち黄梅山に参じて《傍注:六祖は十一歳にて》大満禅師を拝するに、

行堂に投下トウカせしむ。《傍注:父におくる六祖の父は流人なりけり》

昼夜に米を碓ツクこと、わづかに八箇月をふるほどに、あるとき夜ふかく更たけて、大満みづからひそかに碓房タイボウにいりて六祖にとふ、「米白也未ベイハクヤミ」と。

六祖いはく、「白也未有篩在ハクヤミウシザイ」と。

大満つゑして臼をうつこと三下するに、六祖箕にいれる米をみたび簸る。このときを師資の道ドウあひかなふといふ。みづからもしらず、他も不会なりといへども、伝法伝衣まさしく恁麼の正当時節なり。」とある


  これは、「五祖」と「六祖」の問答を明らかしているのである。


法性だ、真如だなどと言えば、いかにも仏法らしく聞こえるが、今の問答などは風情無く、世間や世情のどうでもよい、とりとめのない話を口から出まかせに言ったように聞こえるかもしれない。


しかし、祖師の仏法とは、意味のないこと、たとえば幼児が「ワウ」、乳母が「ワウ」、雀が「シューシュー」、カラスが「カウカウ」などというほどのことこそ究竟であるとか長老たちがいう。


この説はしっかりしてはいるがちょっとした戯言である。

自分が仏法の理に暗いからといって、仏法を否定すべきではない。

それは罪業の極みであり、恐ろしいことである。

この問答をよくよく理解すべきである。


そもそも祖師の仏法に無駄な言葉やとりとめのない思いが混じることなどありえない。

まずこの一点をよく理解しておくべきである。


仏祖が用いた「米白まれりや未だしや」の言葉をどのように理解すべきか。

必ず特別な意味があるだろうと心に留めて学ぶべきである。


法性、真如、三昧、陀羅尼といった言葉に勝劣はまったくない。

『法性』の巻にも、「衣を着る、飯を食べる、問答する、身心を動かす、ことごとくこれらは法性である」とある。


今の「米白まれりや未だしや」の「米」も真如や仏性を指して言われたのかはっきりとは定め難い。


「六祖」の「白けれども未だ篩ることあらず」の言葉も、仏法を理解することの上に仏法を理解しないことの理コトワリがあり、「即心是仏」(心が仏である)の道理が「非心非仏」(心にあらず仏にあらず)と言われる理をも具足しているのである。


どう見ても、祖師の仏法を何でもない言葉だとして、むなしく放置しておくことは、まったく倉卒(軽率)の極みである。

それは正師に会わない者の陥るところである。

恥ずべきことである、恐ろしいことである。


六祖が箕を「みたびひる」姿は、すべてのものをあらわす意味でもあろう。

「五祖」と 「六祖」の間柄は、凡人の思慮では測り難いものである。


実にこのことは、「みづからもしらず、他も不会」であったが、

「伝法伝衣」の「時節」はすでにここに極まったのである。

貴ぶべきことである。



〔聞書原文〕

/米白也未ヨネハシラケタリヤイマダシヤと云は、是は、打聞所仏法はあきらめたりやいまだしやと云問に似たり。

米と云詞は、碓タイ房にして問答あるゆゑと聞ゆ。

但、是は仏法の得非、迷悟を問にてはなし。

たゞ仏法の上にしらけたるともいまだしとも云ふなるべし。


/白也未有篩シラケタレドモマダフルウコトアラズと云は未達の儀を答するとは心得まじ。

たとへば、仏は仏なり。

然而、未成仏といひや、また眼は眼なり。

但、不見なむと云はむが如し。

いまだと云へばとて、糟糠ソウコウのゝこりたるとはいひがたし。


/臼を打こと三下と云は、白しと云心地か、いまだしと云心地か、これ三世不可得と云程の事なり。


/箕に入て米を簸と云は、米白の上の面目なり。

不簸つるさきは未達、簸れば達と云はむとにはあらず。


/自もしらず、他も不知、不会なりと云は、米白の時節には、自他の知といふにも不及ものなり。

石の玉をつゝむと云事、この詞を聞て打任て真如・仏性なむとを具足したる我等、さとらぬ程はしらず、しらねどもありなむと心得ぬべし、不然。

こゝには、ただ玉不知石、石不知玉事許をあかすなり。

欲得恁麼事、須スベカラクコレ恁麼人ノヒトナル、既スデニ是れ恁麼人インモニン、何ナンゾウレエン恁麼事の道理なり。


/米白也未と云は、又仏法をあきらめたりやいまだしやと云に似たり。


/白也未有篩在と云。

是又仏法をばしり得たれども、いまださわやかならずなむと云程なり。

大満つゑして臼を打事三下すと云も、師匠かさねて仏法をもよおし、しめす心かと覚ゆ。

六祖、箕に入る米を三たぶ簸る。

此時、師資の道ドウあひかなふと言った時に、これ又のこる糟糠ソウコウもなく、仏法を正伝すなむと心得ぬべし。

是等は、教家の心地で、世間に仏法を談ずる姿なり。今は不然。

米白也未と云も、白也未有篩在と云も、仏成仏すやとも云ひ、或坐禅作仏すやとも、磚豈鏡となることえてむやなむと云程のたけにて、碓房タイボウの習なれば、米の事をも、箕の事をも云にてこそあれ。

米の白き時をさとり、黒米は迷なむとあしくわくる事なし。

応無所住の文を聞しより、初発心して、二僧風幡の論せし時、仁者心動と云、さとりもあらはれき。

今は一向さとりの上の語なりと可心得。


〔聞書私訳〕

/「米白まれりや未だしや」とは、聞いたところでは「仏法を明らかに理解したかまだか」という問いのように思われる。

「米」という言葉は、「碓房」(米つき部屋)で問答があったため使われたと考えられる。

しかし、これは仏法を得たかどうか、迷っているか悟っているかを問うているのではなく、ただ仏法の上において「白まれり」とも「いまだし」とも言っているのである。


/「白けれども未だ篩ること有らず」とは、まだ悟りに達していないと理解すべきではない。

例えば、仏は仏であるが、まだ成仏していないというようなことである。

あるいは眼は眼であるが、見ていないというようなことである。

「未だし」と言っても、酒糟や米ぬかが残っているということではない。


/「臼をうつこと三下」とは、「白い」という意味合いか、「未だし」という意味合いか、これは三世は不可得であるというほどのことである。


/「箕に入れ」て「米を簸る」とは、「米白まれり」の上の様子である。

「簸」らないうちは未達、「簸」れば達したということではない。


/「自も知らず、他も知らず」とは、「米白まれり」の時節には、自分や他者が知るということに及ばないということである。


「石の玉を包む」という、この言葉を聞くと、普通は真如・仏性などを具足している我々は、悟らないうちは知らないが、知らないけれども真如・仏性はあると理解するであろうが、そうではない。

ここではただ玉が石を知らず、石が玉を知らないという事実だけを明らかにしているのである。

「恁麼(かくの如き今の様子)の事を得ようと欲するならば、須らく恁麼の人でなければならない。既にみな恁麼の人である、どうして恁麼の事を愁える必要があろうか」という道理なのである。


/「米白まれりやいまだしや」とは、また仏法を明らかにしたかまだかというように見える。


/「白けれども未だ篩ること有らず」という。これはまた「仏法を知ることができたが、 まだはっきりしてない」などという程のことである。

「大満つゑして臼をうつこと三下す」というのも、師匠が重ねて仏法を促し、形に表して見せた意かと思われる。


「六祖、 箕にいれる米を三たぶ簸る。このときを、師資の道あひかなふと」という時、これもまた 酒糟や米ぬかも残さず、仏法を正しく伝えたと理解するであろう。


これらは、教家の意味合いで、世間で仏法を語る姿であるが、今はそうではない。


「米白まれりや未だしや」というのも、「白けれども未だ篩ること有らず」というのも、「仏は成仏するか」とも言い、あるいは「坐禅は仏となるか」とか、「瓦を磨いて鏡となるか」とかいうほどの意であり、「碓房」での出来事なので、「米」のことや「箕」のことに言及しているのである。

「米」の「白」い時を悟り、「黒」い「米」を迷いなどと悪い方に分けることはな い。


「応無所住」の句を聞いてから、初めて発心して、二人の僧が風と幡について議論していた時、「仁者の心が動く」といって、悟りも顕れた。

今はひたすら悟りの上の言葉であると理解すべきである。


                           合掌


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