〔抄原文〕
「無智疑怪ムチギケ、即為永失ソクイヨウシツ《智無きは疑怪す、即ち為めに永く失ふ》」といふ道あり。智かならずしも有にあらず、智かならずしも無にあらざれども、一時の春松シュンショウなる有あり、秋菊シュウキクなる無あり。この「無智」のとき、三菩提みな疑怪ギケとなる、尽諸法みな疑怪なり。このとき永失即為なり。所聞すべき道、所証なるべき法、しかしながら疑怪なり。」
法華の文に、有智若聞、即能信解、無智疑怪、即為永失とあるを心得には、有智人なれば若聞すれば即能信解す。
無智の人なれば聞てはうたがひあやしむ故、即為永失と被嫌なり、
と多分取捨の詞に此文をば心得たるなり。
今義更非爾。先不審なる事は、法華は諸仏出世の本懐なり、衆生成仏の直道なり。
已爾前の教をば置て仏の已証を交物なく説トキ顕アラワサ被ルゝ経キョウに、有智無智ぞ永失ぞなむと、凡夫の思付たる取捨の法をばはたらかせて談ぜむや、能々可了見事なり。
此義曾不可有事なり。
然者、此智に有無の義あるべからざれども、春松なる有あり、秋菊なる無ありとは、只しばらく春松を有と云ひ、秋菊を無と云程の有無なるべし。
ゆゑに、無智の時、三菩提皆疑怪となる、尽諸法みな疑怪なりと云は、此有智無智、善悪、勝劣の法にあらざるゆゑに、無智の時、三菩提皆疑怪となるとは云な り。
尽諸法又同前、かゝるゆゑに、永失即為と云。
即為永失と云へば、猶失をいたすに似たり。
「永失」が「即為」と云時は、取捨、善悪の心地はゝなるゝなり。
如此談ずれば、今の法華の有智若聞の文は、惣善悪、取捨の法とは不被心得、
只同心なりと談なり。
ゆゑに、今は被嫌と心得つる疑怪の詞が、所聞の道、所証の法を皆疑怪と談ず。
日来の所談に大に違するなり。仏法の所談如此。
〔抄私訳〕
「無智疑怪ムチギケ、即為永失ソクイヨウシツ《智無きは疑怪す、即ち為めに永く失ふ》」といふ道あり。智かならずしも有にあらず、智かならずしも無にあらざれども、一時の春松シュンショウなる有あり、秋菊シュウキクなる無あり。この「無智」のとき、三菩提みな疑怪ギケとなる、尽諸法みな疑怪なり。このとき永失即為なり。所聞すべき道、所証なるべき法、しかしながら疑怪なり」とある。
『法華経』の文に、「有智若聞、即能信解、無智疑怪、即為永失」とあるのを、「智有る者は聞けばすぐに信じ理解するが、智無き者は聞くと疑い怪しむため永遠に真理を失う」と嫌われると多分取捨選択の言葉として理解しがちであるが、今の意味は全くそうではない。
まず疑問に思うのは、『法華経』は諸仏が世に出た根本目的であり、
衆生が成仏するための直通の道であることである。
すでに爾前ニゼン(それ以前)の教えを置いて、仏が悟ったことを混じり物なく説きあらわした経典において、「有智」だ「無智」だ「永失」だなどと、凡夫が考えるような取捨選択の法を説くことがあろうか、よくよく考えべきことである。
このようなことはまったくあり得ないことである。
だから、この「智」に「有」「無」の区 別はないけれど、「春松なる有あり、秋菊なる無あり」とは、ただしばらく「春の松」を 「有」、「秋の菊」を「無」と呼ぶほどの「有」「無」に過ぎない。
だから、「無智の時、無上菩提もみな疑い怪しむものとなり、すべてのものもみな疑い怪しむものである」とは、この「有智」「無智」は、善悪、勝劣のあるものではないから、「無智の時、無上菩提もみな疑い怪しむものとなる」と説くのである。
ことごとくすべてのものも同様である。
そのゆえに、「永失即為」と言うのである。
「即為永失」と言うと、やはり何かを「失う」ように聞こえるが、「永失」が
「即為」と言う時は、取捨選択や善悪といった意味合いから離れるのである。
このように説けば、今の『法華経』の「有智なれば若聞すれば、即能信解す」という文は、まったく善悪や取捨選択の道理として理解されるのではなく、「有」「無」はただ同じ意味であると説かれていることが分かる。
だから、今日では嫌われるものと理解されている「疑い怪しむもの」という言葉を、「聞くべき道」も「証すべき法」もみな「疑い怪やしむもの」であると説くのである。
これは日頃凡夫が言っていることと大きく異なることであるが、
仏法の説くところとはこのようなものである。
〔聞書原文〕
/「無智疑怪、即為永失」と云は、「十方仏土中、唯有一乗法」と聞く時、
「疑怪」「永失」はいずれの所に置くべきぞ。
「唯有一乗法」と聞くが、やがて「有智若聞」の者にてあるなり。
「有智若聞」の面目を尋れば、「無智疑怪」なるべし。
このゆゑに、「無智疑怪」のものとて、「永失」と世間に思が如くはあるまじ。
「不悟至道」すと心得が如し。
「無智」の「智」は、仏道の無なり、世間にはならはざれ。
〔聞書私訳〕
/「無智疑怪、即為永失」というのは、「十方仏土中、唯有一乗法」と聞く時、
「疑怪」「永失」はどこに置くべきか。
「唯有一乗法」と聞くことこそが、そのまま「有智若聞」の者なのである。
「有智若聞」の本質を探れば、「無智疑怪」となる。
このゆえに、「無智疑怪」の者といって、「永遠に失う(永失)」と世間で思っているようなものであってはならない。
これは「不悟至道(悟りにもとらわれず道に至る)」と心得るようなことである。
「無智」の「智」は、仏道の「無」であり、世間では学ぶことのないものである。
合掌
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