〔抄原文〕
「いはゆる智は、人に学せず、自ら発オコスにあらず。智よく智につたはれ、智すなはち智をたづぬるなり。」
全智なる道理尤如此云はるゝなり。
「五百の蝙蝠、十千遊魚事喩に被出なり。」
游魚も智したしき身にてあるに依て縁因にあらねども、聞法すればもとより智
なりつる ゆへに即解するなりと云なり。
「たとへば東君クンの春にあふが如し。」
東君とは春の神を云歟。春が春にあふと云心なり。別物の不交所を如此云な
り。
「智は有念にあらず、智は無念にあらず。」
如文。実此智有無大小等の論にあらざるべし、勿論事なり。
〔抄私訳〕
「いはゆる智は、人に学せず、自ら発オコスにあらず。
智よく智につたはれ、智すなはち智をたづぬるなり」とある。
すべてが智であるという道理を、とりわけこのように述べているのである。
「五百の蝙蝠」「十千の游魚」のことが喩えとして挙げられているのである。
「游魚」も「智にしたしい」「身である」ことによって、「縁でもなく、因でも
ない」けれど、「聞法すれば」、もともと「智」であったから「即座に理解で
きる」と述べているのである。
「例えば、東君の春にあうがごとし」とある。
「東君」とは「春」の神のことである。「春」が「春」に出会うという意味で
あり、別の物が交わらない状態をこのように表現しているのである。
「智は有念にあらず、智は無念にあらず」とある。
文の通りである。実にこの「智」は「有無」「大小」などの議論ではないこと
は言うまでもないことである。
〔抄原文〕
「いはゆる智は、人に学せず、自ら発オコスにあらず。智よく智につたはれ、
智すなはち智をたづぬるなり。」
全智なる道理尤如此云はるゝなり。
「五百の蝙蝠、十千遊魚事喩に被出なり。」
游魚も智したしき身にてあるに依て縁因にあらねども、
聞法すればもとより智なりつる ゆへに即解するなりと云なり。
「たとへば東君クンの春にあふが如し。」
東君とは春の神を云歟。春が春にあふと云心なり。
別物の不交所を如此云なり。
「智は有念にあらず、智は無念にあらず。」
如文。実此智有無大小等の論にあらざるべし、勿論事なり。
〔抄私訳〕
「いはゆる智は、人に学せず、自ら発オコスにあらず。智よく智につたはれ、
智すなはち智をたづぬるなり」とある。
すべてが智であるという道理を、とりわけこのように述べているのである。
「五百の蝙蝠」「十千の游魚」のことが喩えとして挙げられているのである。
「游魚」も「智にしたしい」「身である」ことによって、「縁でもなく、因でもな
い」けれど、「聞法すれば」、もともと「智」であったから、「即座に理解でき
る」と述べているのである。
「例えば、東君の春にあうがごとし」とある。
「東君」とは「春」の神のことである。「春」が「春」に出会うという意味であ
り、別の物が交わらない状態をこのように表現しているのである。
「智は有念にあらず、智は無念にあらず」とある。
文の通りである。実にこの「智」は「有無」「大小」などの議論ではないこと
は言うまでもないことである。
〔聞書原文〕
/五百の蝙蝠とは、商人夜宿の所にして阿毘達磨アビダツマをとなふるを聞て、身心を忘ボウジて落入火死、即生天上、参仏所五百羅漢となる。
是、有智若聞、即能信解なり。
十千游魚とは、聞法の聖者過スグ浜ハマヲ杖ツエのさきに当アタッて生天上、参仏所得脱す。
智は人に不学、又自らおこすにあらずと云たとえは此義なり。
/東君クンの春にあふがごとしと云は、東君とは、日をも云ふ、春をも云なり。
東を春の方とゝる、春の来ること東より来と云。
但、春を能とせず東を所とせず、春を所とせず東を所とせざるなり。
〔聞書私訳〕
/「五百の蝙蝠」は、商人が夜、宿で『阿毘達磨』を唱えるのを聞いて、
身心を忘れ、火に落ちて死に、すぐに天上に生まれ、仏に参じたところ、
五百人の羅漢となったのである。
これが「有智若聞、即能信解」である。
「十千の游魚」は、聞法の聖者が浜辺を歩いていく杖の先に当たって、
天上に生まれ、仏に参じたところ、解脱したのである。
「智は人に学ばず」、また「自ら起こすのではない」という喩えは、
このことを指しているのである。
/「東君の春にあふがごとし」とは、
「日」のことをも言い、「春」のことも言うのである。
「東」を「春」の方角とみなし、「春」が来ることを「東」から来ると言う。
ただ、「春」を能(主)とせず「東」を所(客)とせず、
「春」を所とせず「東」を能としない、という関係性を示しているのである。
合掌
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