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僧伽難提ソウギャナンダイ尊者:心とは何か『第十七恁麼』17-3-1b(聞書抄)

 〔抄原文〕

「第十七代の祖師、僧伽難提尊者、ちなみに伽耶舍多、これ法嗣なり。あるとき、殿にかけてある鈴鐸の、風にふかれてなるをきゝて、伽耶舍多にとふ、「風のなるとやせん、鈴のなるとやせん」。伽耶舍多まうさく、「風の鳴にあらず、鈴の鳴にあらず、我心の鳴なり。」僧伽難提尊者いはく、「心はまたなにぞや」。伽耶舍多まうさく、「ともに寂静なるがゆゑに」。」


  是は、今の問答を、打任て、西天東地、古代より今日まであやまると云は、風、鈴を吹くひゞきありとも、心に縁せずば、いかでか是を聞べき。


然者、心の根本をさして、如此答すると心得たり。是を邪解なりときらふなり。


所詮、風も鈴も心も寂静も、無上菩提正法眼蔵を指て云なり。


此上は、風と談ずる時は全風、鈴と談時も全鈴、心も又如此。此寂静とは云なり。


さらに心の一法を取出て為根本、彼が是に縁ずるなむとは、不可心得。

以此道理倶寂静とは云なり。


ひゞく所が、又、風鳴、鈴鳴、吹鳴、鳴々とも云へしとあり、

能々可了見事なり。委見于文。


〔注:最初の文頭が上がっている文章は蒐書大成に引用された正法眼蔵の原文で、その下の文頭が一字下がっている文章は聞書抄の本文です(蒐書大成と同じ体裁)。一般読者の便宜のため、カタカナを平仮名に変換し、句読点・濁点を付け、旧漢字を新漢字にし、かな使いを修正して記載しました。以下同様。〕


〔抄私訳〕

「第十七代の祖師、僧伽難提尊者、ちなみに伽耶舍多、これ法嗣なり。あるとき殿にかけてある鈴鐸の、風にふかれてなるをきゝて、伽耶舍多にとふ、「風のなるとやせん、鈴のなるとやせん」。伽耶舍多まうさく、「風の鳴にあらず、鈴の鳴にあらず、我心の鳴なり。」僧伽難提尊者いはく、「心はまたなにぞや」。 伽耶舍多まうさく、「ともに寂静なるがゆゑに」とある。


  これは、今の問答を一般には、インドや中国において、昔から今日に至るまで誤解してきたのは、「風」が「鈴」を吹く響きがあっても、心に感受するはたらきがなければ、どうしてもこれを聞くことはできないから、「心」が根本であることを指してこのように答えるのだと解しているが、これを邪解であると嫌うのである。


つまるところ、「風」も「鈴」も「心」も「寂静」も、みな「無上菩提正法眼蔵」を指して言うのである。


この上 は、「風」と言うときはすべて「風」、「鈴」と言うときはすべて「鈴」であり、「心」もまたこのように「寂静」というのである。


改めて「心」の一法を取り出して根本とし、「心が鳴る」のであるなどと解してはならない。この道理をもって「倶に寂静」と言うのである。


この道理の響くところが、また「風鳴」「鈴鳴」「吹鳴」「鳴々」とも言えるというのである。


よくよく了見すべきことである。詳しくは原文を見よ。



〔聞書原文〕

/「第十七代祖師、僧伽難提尊者」段。

「あるとき、殿にかけたる鈴鐸レイタクの風に吹フカ被レてなるをきゝて、伽耶舍多にとふ、「風のなるとやせん、鈴のなるとやせん」。伽耶舍多まうさく、「風の鳴にあらず、鈴の鳴にあらず、我心の鳴なり。」僧伽難提尊者いはく、「心 はまたなにぞや」。 伽耶舍多まうさく、「ともに寂静なるがゆゑに」。僧伽難提尊者いはく、「善哉ゝゝ我道をつぐべきこと子に非ずばたれぞや」。


我心を以て心得は、鈴も風も心なりといはむは、これ邪見なり。やがて鈴を心と仕ひ、風を心と仕ふ、仏道のならひなるべし。


諸法は心が所作と云事あり、以心為根本、心なくば不可鳴とおもふ世間の了見なり。然而、三界唯心の道理にて可心得なり。


/やがて鳴る物をも心といふべし。風をも心といひ、はたをも心と云なり。風のなるは非 心と云義あらば、心の鳴は非心とも云義もあるべし。風も心なり、心も心なり、鈴も心なりと云時こそ、倶寂静ともいはるれ。


此僧伽難提尊者と伽耶舍多との問答、世間の如くに心得る時は、似無詮。風の鳴と云たらむも、鈴の鳴と云はむも、心のなると云はむも、大方、仏法の詮と不聞。


倶寂静と云ときこそ、仏法なるべけれ。ゆゑに、「なんぢにあらずよりはたれぞや」とほめらる。


三界唯心なり。風も鈴も別なりといふべからず。地水火風識おなじかるべし。所詮、念を心と不可思なり。一心不生なれば、万法に咎無しなむと云へば、鳴と思心こそ、本なれなむと談ずる附仏法の外道と云ひつべし。


近代仏法は有とも思べからず、無とも思べからず。又思べからずとも思べからずなむと云も、慮知念覚をはなれざる見なり。


〔聞書私訳〕

/「第十七代祖師、僧伽難提尊者」の段。「あるとき、殿にかけたる鈴鐸レイタクの風に吹フカ被レ てなるをきゝて、伽耶舍多にとふ、「風のなるとやせん、鈴のなるとやせん」。伽耶舍多まうさく、「風の鳴にあらず、鈴の鳴にあらず、我心の鳴なり。」僧伽難提尊者いはく、「心 はまたなにぞや」。 伽耶舍多まうさく、「ともに寂静なるがゆゑに」。僧伽難提尊者いはく、「善哉ゝゝ我道をつぐべきこと子に非ずばたれぞや」。


もし自分の「心」をもって理解し、「鈴」も「風」も「心」であると言うのは、これは邪見である。ほかならぬ「鈴」を「心」といい、「風」を「心」というのが、仏道の教えである。


すべてのものは心が造るということがあり、心を根本とし、心がなければ鳴るはずがないと思うのは、世間の考え方であるが、「三界唯心」の道理で解すべきである。


/すなわち「鳴る」ものをも「心」と言い、「風」をも「心」と言い、「幡」をも「心」 と言うのである。


「風が鳴る」のは「心が鳴る」のではないという意味があれば、「心が 鳴る」のは「心」ではないという意味もあるのである。


「風」も「心」であり、「心」も 「心」であり、「鈴」も「心」であるという時にこそ、「倶に寂静」と言われるのである。


この「僧伽難提尊者」と「伽耶舎多」との問答を、世間の一般的な考え方で解する時は、何の意味もないように思われる。


「風が鳴る」と言うのも、「鈴が鳴る」と言うのも、「心が鳴る」と言うのも、およそ、仏法の道理とは思えない。「倶に寂静」と言う時こそ仏法であるから、「我が仏道を継ぐのは、お前でなければ誰がいようか」と褒められたのである。


「三界唯心」であるから、「風」と「鈴」は別であると言ってはならず、地・水・火・風・識(地水火風の四元素と識という精神作用)はみな同じなのである。つまるところ、念を「心」と思ってはならないのである。


「一心不生なれば、万法に咎なし」(心が生じなければ、あらゆるものに罪はない)などと言うので、「鳴る」と思う「心」こそが根本であると言うのは、仏法を装った外道と言わなければならない。


近頃の仏法は、有るとも思ってはならない、無いとも思ってはならない、また、思ってはならないとも思ってはならないと言うが、慮知念覚リョチネンガク(思惟・記憶・感得などの心の働き)を離れられない考え方である。


                             合掌


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