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地によって倒れれば、必ず空によって起きる『第十七恁麼』17-2-4b(聞書抄)

 〔抄原文〕

「もし人ありて恁麼とはむ、空与地あひさることいくそばくぞ。

恁麼問著せむに、かれに向て恁麼可云、空与地相ひさる事十万八千里なり。」


 「空」与談ぜむときは全「空」、「地」と談ぜむときは全「地」なるべし。

是を「空与地相ひさる事十万八千里なり」とは云なり。

此「十万八千里」の詞も丈尺等にかゝはるべからず、

「無縫塔ホウタウの高さ」を「七尺八尺」と云ひしが如し。

「世界の闊ヒロサ一丈」等云程のたけなり。


「若因地倒、必因空起、離空求起、終無其理。

 若因空倒、必因地起、離地求起、終無其理。」


 是は、「空与地」親切なる道理を書あらはさるゝなり。



〔抄私訳〕

「もし人ありて恁麼とはむ、『空与地あひさることいくそばくぞ』。

恁麼問著せむに、かれに向て恁麼可云、『空与地相さる事十万八千里なり』」とある。


 「空」と言うときはすべて「空」、「地」と言うときはすべて「地」である。


これを「空と地と、あひさること十万八千里なり」と言うのである。


この「十万八千里」の言葉も丈尺などに関わらず、「無縫塔(僧侶の墓塔)の高さ」を「七尺八尺」と言ったようなことである。


「世界の広さを一丈」と言うほどの意である。


「地に因りて倒るゝがごときは、必ず空に因りて起く、空を離れて起きんと求むるは、終に其の理無けん。空に因りて倒るゝがごときは、必ず地に因りて起く、地を離れて起きんと求めば、終に其の理無けん」とある。


 これは、「空と地」が親密である道理を書き表したのである。



〔聞書原文〕

/もし人ありて恁麼問む、「空与地、相去事いくそばくぞ」。


恁麼問著せむに、かれに向て恁麼云べし、「空与地、相去こと十万八千里なり」

と云は、此草子に「若因地倒、必因 空起、離空求起、終無其理。」


「もしいまだ如此道取せざらむは、仏道の地空の量いまだしらざるなり、

いまだみざるなり」とあれば、すべてはかりがたし。


所詮、この「十万八千里」はとおしと不可心得、近と不可心得、

たゞ「空」与「空」の間も、「地」与「地」の間も、「十万八千里」と云べきなり。

 

/「空与地相去事十万八千里なり」と云、「空と地」との間は、あるものかなき物か、又「空」「地」と同なる物か別なる物か。「十万」の詞、如何。


西方浄土は従是西方過十万億土、名曰極楽世界と云ふ。但、広大無辺際とも云ふ。仏土になりぬれば無罣礙歟。

然者、「十万」の詞更数にも不拘、遠近にもかかはるべからざる者歟。

頗不中用「万」なるべし。


〔聞書私訳〕

/「もし人ありて恁麼問む、「空与地、相去事いくそばくぞ」。恁麼問著せむに、かれに 向て恁麼云べし。「空与地、相去こと十万八千里なり」」というのは、


この草子に、「地に因りて倒るるがごときは、必ず空に因りて起く。

空を離れて起きんと求むるは終其の理無けん。もしいまだ如此道取せざらむは、

仏道の地空の量いまだしらざるなり、いまだみざるなり」とあるので、

すべて量り難いということである。


結局、この「十万八千里」は遠いと解してはならず、近いと解してもならず、

ただ「空」と「空」の間も、 「地」と「地」の間も「十万八千里」と言うのである。


/「空と地と、あひさること十万八千里なり」という「空」と「地」の間はあるのかないのか。また「空」と「地」は同じものか別のものか。「十万」の言葉はどうか。


西方浄土はここより西方に十万億土を過ぎてあり、極楽世界と名付けると言う。ただ広大で限りがないとも言う。仏土になってしまえば、何も妨げるものはないから、「十万」の言葉は決して数に関わるのでなく、遠近にも関わらないのである。「万」を用いることも要らないのである。


                       合掌


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