〔抄私訳〕
「このゆゑに、声色の恁麼は恁麼なるべし。身心の恁麼は恁麼なるべし。
諸仏の恁麼は恁麼なるべきなり。」とある。
前文では、「仏量・心量・法界量・尽界量等に量るべからず」あり、今の文は、「声色の恁麼は恁麼なるべし」、「身心」あるいは「諸仏の恁麼は恁麼なるべし」とある。入れ替えたように思われるが、これは例の一物に滞らない道理と同じである。その下に、「声色の恁麼は恁麼なるべし」、「身心」あるいは「諸仏の恁麼は恁麼なるべし」という道理があるのである。
いつものように、そうであればこそ「説似一物即不中」の道理である。
一物にも中アたらない道理がまた一物にも中アたる道理なのである。
「たとゑば、因ヨッテ地倒タウルゝ者の時を、恁麼なりと恁麼会なるに、
必因地起の恁麼のとき、因地倒をあやしまざるなり。」とある。
これはつまり「倒れる」のも「地」、「起きる」のも「地」、「地」の上の「倒」「起」であるから、いずれも疑ってはならないと言うのである。
〔聞書原文〕
/「声色恁麼」と云は、すでに「声色恁麼人」なり、何ぞ「声色」に愁ウレエむと云はむが如し。
/「若し地に因りて倒るゝは、還た地に因りて起く、地を離れて起きんと求むるは、終ツイに其の理無けん」と云ふ。
此心は、全「倒」全「起」なり、全「空」全「地」なり。たふると云事おくと云事、人の起倒の事をのぶるにあらず。「空」与「地」の間をしゃくするなり。但如此云へば、又「倒者」はもれたるに似たり。
能々了見するに所詮「空」与「地」、「倒者」と又「倒」と云詞も「起」と云詞も、たゞ一なる事を示なり。是こそ「恁麼」の道理も「直趣無上菩提」のことはりもあきらかなれ。迷悟は無上菩提の上に置て解く。迷は衆生、悟は仏ときこゆれども、生仏《衆生と仏なり》一如とゝく、全の心なり。
〔聞書私訳〕
/「声色の恁麼」というのは、既に「声色の恁麼人」である、どうして「声色」に愁えるのかというようなことである。
/「若し地に因りて倒るゝは、還た地に因りて起く、地を離れて起きんと求むるは、終ツイに其の理無けん」と言う。この意味は、すべて「倒」、すべて「起」ということであり、すべて「空」、すべて「地」ということである。
「倒」「起」は人の起倒のことを述べているのではない。それは、「空」と「地」の間を釈しているのである。しかし、このように言うと、「倒れる者」は洩れているようであるが、よく考えてみると、結局は 「空」と「地」と「倒れる者」と、また「倒」という言葉も「起」という言葉も、ただ一つであることを示すのである。
これによって初めて「恁麼」の道理も、「直趣無上菩提」の道理も明らかになるのである。「迷」「悟」は「無上菩提」の上で理解するのである。「迷」は衆生、「悟」は仏と思われるが、衆生と仏は一如であると説くのであり、全生全仏(すべて衆生、すべて仏)の意味である。
合掌
ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。

コメント
コメントを投稿