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見るもの聞くものの恁麼は恁麼である『第十七恁麼』17-1-5b(聞書抄)

 〔抄私訳〕

「このゆゑに、声色の恁麼は恁麼なるべし。身心の恁麼は恁麼なるべし。

諸仏の恁麼は恁麼なるべきなり。」とある。


 前文では、「仏量・心量・法界量・尽界量等に量るべからず」あり、今の文は、「声色の恁麼は恁麼なるべし」、「身心」あるいは「諸仏の恁麼は恁麼なるべし」とある。入れ替えたように思われるが、これは例の一物に滞らない道理と同じである。その下に、「声色の恁麼は恁麼なるべし」、「身心」あるいは「諸仏の恁麼は恁麼なるべし」という道理があるのである。


いつものように、そうであればこそ「説似一物即不中」の道理である。

一物にも中たらない道理がまた一物にも中たる道理なのである。



「たとゑば、因ヨッテ地倒タウルゝ者の時を、恁麼なりと恁麼会なるに、

必因地起の恁麼のとき、因地倒をあやしまざるなり。」とある。


 これはつまり「倒れる」のも「地」、「起きる」のも「地」、「地」の上の「倒」「起」であるから、いずれも疑ってはならないと言うのである。




〔聞書原文〕

/「声色恁麼」と云は、すでに「声色恁麼人」なり、何ぞ「声色」に愁ウレエむと云はむが如し。


/「若し地に因りて倒るゝは、還た地に因りて起く、地を離れて起きんと求むるは、終ツイに其の理無けん」と云ふ。


此心は、全「倒」全「起」なり、全「空」全「地」なり。たふると云事おくと云事、人の起倒の事をのぶるにあらず。「空」与「地」の間をしゃくするなり。但如此云へば、又「倒者」はもれたるに似たり。


能々了見するに所詮「空」与「地」、「倒者」と又「倒」と云詞も「起」と云詞も、たゞ一なる事を示なり。是こそ「恁麼」の道理も「直趣無上菩提」のことはりもあきらかなれ。迷悟は無上菩提の上に置て解く。迷は衆生、悟は仏ときこゆれども、生仏《衆生と仏なり》一如とゝく、全の心なり。


〔聞書私訳〕

/「声色の恁麼」というのは、既に「声色の恁麼人」である、どうして「声色」に愁えるのかというようなことである。


/「若し地に因りて倒るゝは、還た地に因りて起く、地を離れて起きんと求むるは、終ツイに其の理無けん」と言う。この意味は、すべて「倒」、すべて「起」ということであり、すべて「空」、すべて「地」ということである。


「倒」「起」は人の起倒のことを述べているのではない。それは、「空」と「地」の間を釈しているのである。しかし、このように言うと、「倒れる者」は洩れているようであるが、よく考えてみると、結局は 「空」と「地」と「倒れる者」と、また「倒」という言葉も「起」という言葉も、ただ一つであることを示すのである。


これによって初めて「恁麼」の道理も、「直趣無上菩提」の道理も明らかになるのである。「迷」「悟」は「無上菩提」の上で理解するのである。「迷」は衆生、「悟」は仏と思われるが、衆生と仏は一如であると説くのであり、全生全仏(すべて衆生、すべて仏)の意味である。



                        合掌


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