〔抄原文〕
「コノ無上菩提ノ為体ハ、スナハチ尽十方界モ無上菩提ノ少許コナリ。サラニ菩提ノ尽界ヨリモアマルベシ。我等モ彼尽十方界ノ中ニアラユル調度ナリ。ナニゝヨリテカ恁麼アルトシル。」
無上菩提ト尽十方界ト相違法ニ非ズ、尽十方界ヲシバラク無上菩提ト云歟カ。少許ナリトハ云ハルゝナリ。尽十方界ヲ無上菩提ト云ヒ、無上菩提ヲ尽十方界ト云ヲ、シバラクアマルトモ不足トモ仕ナリ。今、「我等モ彼尽十方界ノ中ニアラユル調度ナリ」ト云、我等ハ恁麼ノ我等ナリ、吾我ニ非ラザル我、已下文ニ見タリ。
〔抄現代語訳〕
「この無上菩提の為体は、すなはち尽十方界も無上菩提の少許コなり。さらに菩提の尽界よりもあまるべし。我等も彼尽十方界の中にあらゆる調度なり。なにゝよりてか恁麼あるとしる。」とある。
「無上菩提」と「尽十方界」は互いに異なるものではない。「尽十方界」をしばらく「無上菩提」と言うのである。そのことを「少許なり」と言われるのである。「尽十方界」を「無上菩提」と言い、「無上菩提」を「尽十方界」と言うことを、しばらく「あまる」とか足りないとか言うのである。今、「われらもかの尽十方界の中にあらゆる調度なり」というのは、「われら」は「恁麼」の「われら」であり、自我の我ワレではないということを以下の文で示される。
〔聞書原文〕
/「欲得恁麼事」云フ「欲得」ハ思慮念度ニハアラズ、「直趣無上菩提」ノ「欲得」ト心得ベシ。「尽十方界」モ「無上菩提ノ少許〈スコシバカリ〉ナリ」ト云、「菩提ノ尽界ヨリモアマルベシ」ト云フ。
「我等モカノ尽十方界ノ中ニアラユル調度」ト云フ。「身心共ニ尽界ニアラハレテ、我ニアラザルユヱニ」トアレバ、「身心」「尽界」ナルベシ、「尽界」又「無上菩提」ナルベシ。「少許」ト云ヒ、「調度」ナムト云ヘバ、ソノ物ノ内ニハラマレタル「調度」トモ、「少許」トテ、聊イササカナル物一ヲサスニテハナシ。諸法実相ト云フ実相ハ、真如ナリ、仏性ナリ。十如是ヲアゲテハ、唯仏与仏トスデニアラハル。ハジメ如是性一ヲアグルトキ、十アルベキモノゝ、マヅ一トハ心得マジ。如是性ニモレタル諸法有ル可カラズ、相体力作因縁等ノ九ノコリタリトイフベカラズ。「少許」トイフモ、「調度」トイフモ、タトヘバコレ程ナリ。仏ノ「調度」ハ、法々ノ「少許」ハ仏ナムトイハムガ如シ。
/此「恁麼事」ハ、仏性沙汰ノトキ、事旧ヌ。又、仏性第二段ニ「欲知仏性義、当観時節因縁」トアリシ心地ニ聊モ相違ス可カラズ。引合テ心得可キナリ。仏性モ今ノ「恁麼」何ト其体差カタシ。「将錯就錯」ノ詞モ同ジ、「直趣無上菩提」ノ詞モ同ジカルベシ。「直趣」ト云ヘバトテ、趣向ノ儀ニテハナシ。此「直趣」ハ「無上菩提」ノ面目トナリ。「悟上得悟ノ漢、迷中又迷ノ漢」モ同詞ナリ。声色、「身心」モ「恁麼」ナリ。
/「コノ宗旨ハ、直趣無上菩提シバラクコレヲ恁麼トイフ。コノ無上菩提ノテイタラクハ、スナハチ尽十方界モ無上菩提ノ少許」ト云フ。非我ハ無我ト取ルベシ。衆生所々著、之ヲ引カ令メテ出ヲ得ト云モ、所詮、無余涅槃ナリ。コナタニハ生滅法併シカシナガラ無上菩提ノ法ニハコバルゝナリ。イタヅラニタヾ無我ト云ニアラズ。
/「恁麼」ト、「恁麼」ヲ得ムト思人ト、二ノ物アルニ似タリ。コレハ不承師ナリ。各別ス可カラズ。
/「不対縁而照、不触事而知」ノ知ナリ。其体無キヲ「得」トツカフベシ。「得」ノ字「恁麼人」ト云ガ如シ、「得」ノ字モ用匕得ザルナリ。
/「尽十方界モ無上菩提ノ小許」ト云ハ、此「小許」ハ「尽十方界」ガ「小」トハ心得マジ。「無上菩提」ノ大小ノ詞ハ、世間ニ准ズ可カラザルナリ。大小ニカゝハルベカラザルユヘニ。
/「既是恁麼人、何愁恁麼事」ト云事、上人義云、「既恁麼人ナリ」ト云タガルベシ。此「恁麼」始終ハ「恁麼不恁麼総不得」ト云事モアレドモ、不恁麼人ト云詞アルベシトアリ。
/「サラニ菩提ノ尽界ヨリモアマルベシ」ト云フ。此「アマル」ト云フ「尽界」ト云テム上ナニカ「アマル」ベキゾト覚ユレドモ、是ハ空ハ地ニ「アマル」、地ハ空ニ「アマル」ナリ。「地ニタフルゝモノ空ニオキ、空ニタフルゝルモノ地ニオク」ト云フ。此空与地ノ間ヲ云ヘバ、空ハ地ニ「アマル」、地ハ空ニ「アマル」ナリ。是ヲ「尽界ヨリモアマル」トハ仕フ可シ。「欲得恁麼事」ノ言葉ニ、「地ニ倒物ハ地ニヨリテオク」ト云詞モ、又「地ニ倒物ハ依空オク」ト云道理モ、ヒトシキ詞ト心得ルトキ、「尽界ヨリモアマル」ト云詞イデクルナリ。能々心ヲシヅメテ了見ス可キナリ。
〔聞書現代語訳〕
/「恁麼事を得んと欲せば」という「得んと欲せば」は思慮念度ネンタク〈思いはかること〉ではなく、「直趣味無上菩提」の「得んと欲せば」と解すべきである。「尽十方界も無上菩提の少しばかりなり」と言い、「菩提の尽界よりもあまるべし」と言う。
「われらもかの尽十方界の中にあらゆる調度なり」と言い、「身心ともに尽界にあらはれて、われにあらざるゆゑに」とあるので、「身心」は「尽界」であり、「尽界」はまた「無上菩提」なのである。「少許(少しばかり)」と言い、「調度」などと言えば、そのものの内にはらまれている「調度」といっても「少許」といってもわずかなもの一つを指すのではない。諸法実相の実相は、真如であり、仏性である。
十如是をあげれば、唯仏与仏(ただ仏と仏のみが悟る)とすべて現れる。初めに如是性一つをあげるとき、十(相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等)あるもののその内の一つと解してはならない。如是性に洩れているものはあるはずがない。相・体・力・作・因・縁などの九つの如是が残っていると言ってはならない。「少許」というのも「調度」というのも、たとえばこれほどである。仏の「調度」は、様々なもの(法々)の「少しばかり」は仏などと言うようなことである。
/この「恁麼事」は、『仏性』の巻で仏性を論じたとき、言い尽くしている。また、『仏性』第二段に「仏性の義を知りたいと思うなら、まさに時節の因縁を観ずべきである」とあった意味合いと少しも違わない。比較対照して理解すべきである。仏性も、今の「恁麼」も、実にその体は差異がないのである。「将錯就錯」という言葉も同じであり、「直趣味無上菩提」の言葉も同じである。「直趣」と言うからといって、何かに向って進むという意味ではない。この「直趣」は「無上菩提」の面目というのである。「悟上得悟の漢」「迷中又迷の漢」も、同じ語義である。声色(色声香味触法の六境)も「身心」も「恁麼」である。
/「この宗旨は、直趣無上菩提しばらくこれを恁麼といふ。この無上菩提のていたらく は、すなはち尽十方界も無上菩提の少許なり」と言う。非我は無我と取るべきである。衆生が様々に執着するのを、これを引かしめて出を得るというのも、結局は、無余涅槃(完全な悟りの境地)のことである。こちらでは、生滅する現象であるが、「無上菩提」の法に運ばれるのである。無意味にただ無我と言うのではない。
/「恁麼」と「恁麼」を得ようと思う人と、二つの物があるのに似ている。これは、師の教えを正しく受けていないのである。各別してはならない。
/「縁に対さずして照らし、事に触れずして知る」という知である。その体が無いことを「得」と使うべきである(その本質が無いと会得するのが仏意の「得」である)。「得」の字は、「恁麼人」というようなことであるから、「得」の字も用いることが要らないのである。
/「尽十方界も無上菩提の少許なり」と言う。この「少許(少しばかり)」は「尽十方界」が小さいと解してはならない。「無上菩提」の大小の言葉は、世間に准ずべきではないのである。大小に関わらないからである。
/「既に是れ恁麼人、何ぞ恁麼事を愁へん」ということは、上人(雲居道膺禅師)が言ったことであるが、「既に不恁麼の人」と言いたいところであろう。この「恁麼」のすべては「恁麼も不恁麼も総じて得られない」(後に出る南嶽無際大師の言葉)ということもあるが、「不恁麼の人」という言葉もあるはずだと言うのである。
/「さらに菩提の尽界よりもあまるべし」と言う。この「あまる」とは、「尽界」と言った上で何が「あまる」のかと不審に思うかもしれないが、これは「空」は」「地」にあまり、「地」は「空」に「あまる」のである。「地に倒れた者は空によって起き、空に倒れた者は地によて起きる」というこの「空」と「地」の関係を言うと、「空」は「地」にあまり、「地」は 「空」に「あまる」のである。これを「尽界よりもあまる」と表現するのである。「恁麼事を得んと欲すれば」の言葉に、「地に倒れた者は地に因りて起く」という言葉も、また「地に倒れた者は空に因りて起く」という道理も、同じ言葉と解するとき、「尽界よりもあまる」という言葉が出てくるのである。よく心を静めて考えてみるべきである。
合掌
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