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恁麼の事を得ようと思うなら、すべからく恁麼の人でなければならない『第十七恁麼』17-1-1b

 〔抄原文〕

雲居山弘覚大師は、洞山の嫡子なり。釈迦牟尼仏より三十九世の法孫なり、

洞山宗の嫡祖なり。

  五家ヲ立ル事、然ル可カラズ之由、先々事旧了。今、洞山宗ト云事、必シモ   

  立宗ノ分ニラズ。只、其人ヲ賞翫スル時モ、宗ト云詞ヲ付ル事之有リ歟。今

  ノ詞其義ニアタルベキ歟。


〔注:最初の文頭が上がっている文は蒐書大成に引用された『正法眼蔵』原文、その下の文頭が二字下がっている文は『抄』本文です(『蒐書大成』と同じ体裁)。般読者の便宜のため、句読点・濁点を付け、旧漢字を新漢字にし、カナ使いを修正し、レ点と一二点付きの箇所を読み下しにして記載しました。〕


雲居山弘覚大師、一日示衆云、欲得恁麼事、須是恁麼人、既是恁麼人、何愁恁麼事。

  「恁麼」ト云事、古キ経教等ニハ此詞イト見エズ歟、新渡書籍等ニ此詞見歟、所詮、カクノ如シト云詞ナリ。直趣無上菩提シバラク是ヲ「恁麼」ト云トアレバ、今ハ無上菩提ヲ以テ「恁麼」ト名ズ歟。然者、今ノ示衆ノ詞ハ、「欲得無上菩提、須是無上菩提ナリ、既是無上菩提ナリ、何愁無上菩提」ト云道理ナリ、尤其謂有リ。


〔抄私訳〕

「雲居山弘覚大師は、洞山の嫡子なり。釈迦牟尼仏より三十九世の法孫なり、

洞山宗の嫡祖なり」とある。

  五家七宗を立てることが適切でないことは以前に述べた通りである。今、「洞 

  山宗」と言うのは、必ずしも宗派を立てる意味ではない。ただその人を賞翫

  (尊重)する際、「宗」という言葉を用いることがあり、今の言葉はその意味に    

  当たる。


「雲居山弘覚大師、一日示衆云、欲得恁麼事、須是恁麼人、既是恁麼人、何愁恁麼事。」

  「恁麼」という言葉は、古い時代の経典などにはまったく見られず、新しく渡    

  ってきた禅籍等にこの言葉が見られる、結局は「かくの如し」という言葉で

  ある。「直趣無上菩 提、しばらくこれを恁麼といふ」と言うから、ここは、

  「無上菩提」を「恁麼」と名付けるのである。そうであるなら、今、大衆に示

  した言葉は、「無上菩提を得んとおもはば、すべからくこれ無上菩提なるべ

  し。すでにこれ無上菩提なり、なんぞ無上菩提を愁へん」という道理であ

  り、まことに深い意味があるのである。



〔聞書原文〕

/洞山宗ノ嫡祖ナリト云ハ、宗ト云ヘバ五家ノ内洞山宗ト聞ユ、然ニアラズ。

都宗ト云事、仏家ニ云フ可カラザル事ナリ。天台宗、真言宗ナムト云ニハコトナルベシ。是ハ、只洞山一人ノ宗トスル所ヲアグルナリ。


〔聞書私訳〕

/「洞山宗の嫡祖なり」というのは、宗と言えば五家七宗の中の洞山宗と思われるが、そうではない。まったく「宗」ということは仏家(仏の境涯を住み家としている僧侶)が言うことではない。天台宗、真言宗などと言うのとは異なるのである。これはただ洞山一人のおおもとの 教え指しているのである。



                        合掌

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