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衆生済度を口実にして名利を貪るなど、そんな馬鹿なことをしてはならない『第十六行持下』16下-18-2

 〔『正法眼蔵』原文〕

 あるがいはく、衆生利益リヤクのために、貪名愛利トンミョウアイリすといふ。おほきなる邪説なり、附仏法フブッポウの外道ゲドウなり、謗正法ボウショウボウの魔黨マトウなり。なんぢいふがごとくならば、不貪名利フトンミョウリの仏祖は、利生リショウなきか。わらふべしわらふべし。


 又不貪の利生あり、いかん、又そこばくの利生あることを学せず、利生にあらざるを利生と称する魔類なるべし、なんぢに利益せられん衆生は、墮獄ダゴクの種類なるべし、一生のくらきことをかなしむべし、愚蒙グモウを利生に称することなかれ。


 しかあれば師号を恩賜オンシすとも、上表辞謝する、古来の勝躅ショウチョクなり、晩学の参究なるべし。まのあたり先師をみる、これ人にあふなり。


先師は十九歳ジュウクサイより離郷尋師リキョウジンシ、弁道功夫すること、六十五載にいたりてなほ不退不転なり。帝者テイシャに親近シンゴンせず、帝者にみえず。丞相ジョウショウと親厚ならず、官員と親厚ならず。紫衣師号を表辞するのみにあらず、一生イッショウまだらなる袈裟ケサを搭タッせず、よのつねに上堂入室ジョウドウニュッシツ、みなくろき袈裟裰子トッスをもちゐる。


〔『正法眼蔵』私訳〕

 ある者が言う、「衆生利益リヤクのために、〔名声を得た方が衆生を利しやすいので、〕名利を貪り愛するのである」と。それは大変間違った言い分であり、仏法につきまとっている外道(仏法でない思想を持つ者)であり、正法を謗ソシる魔の類タグイである。

 (あるがいはく、衆生利益のために、貪名愛利すといふ。おほきなる邪説なり、附仏法の外道なり、謗正法の魔黨なり。)


お前の言う通りなら、名利を貪らない仏祖は衆生を利益することはないのか、まったく笑うべきことである。

(なんぢいふがごとくならば、不貪名利の仏祖は利生なきか。わらふべしわらふべし。)


 また、名利を貪らない衆生利益があるが、それをどう思うか。またそのほかにもたくさん衆生利益の道があることを学ばないで、衆生利益でないものを衆生済度と言うのは魔の類である。お前に利益される衆生は、地獄に堕ちる類であり、一生のあいだ無明のままであることを悲しむべきである。衆生済度を口実にして名利を貪るなどと、そんな馬鹿なことをしてはならないのである。

(又不貪の利生あり、いかん、又そこばくの利生あることを学せず、利生にあらざるを利生と称ずる、魔類なるべし、なんぢに利益せられん衆生は、墮獄の種類なるべし、一生のくらきことをかなしむべし、愚蒙を利生に称することなかれ。)


 そうであるから天子から禅師号を賜っても、上表文を奉って辞退するのが、古くからの勝スグれた先例である。後学の者は身をもって学ばなければならない。目の当たりに先師に会ったのは、古仏というべき人に会ったということである。

(しかあれば師号を恩賜すとも、上表辞謝する、古来の勝躅なり、晩学の参究なるべし。まのあたり先師をみる、これ人にあふなり。)


先師は十九歳から、郷里を離れ善知識を尋ね求め、坐禅弁道に精進すること六十五歳になってもなおたゆまず続けたのである。

(先師は十九歳より、離郷尋師、弁道功夫すること、六十五歳にいたりてなほ不退不転なり。)


その間、帝王に近づかず、帝王に会わず、大臣と親しくならず、役人とも親しくならなかった。紫衣や禅師号を書を奉って辞退しただけでなく、一生金襴キンランの袈裟をかけず、平生法堂ハットウで説法するときも、自室で弟子を導くときも、常に黒の袈裟と直裰ジキトツを用いた。

(帝者に親近せず、帝者にみえず。丞相と親厚ならず、官員と親厚ならず。紫衣師号を表辞するのみにあらず、一生まだらなる袈裟を搭せず、よのつねに上堂入室、みなくろき袈裟裰子をもちゐる。)


                          合掌

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