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坐禅は身心脱落である『第十六行持下』16下-18-4

〔『正法眼蔵』原文〕

 又いはく、参禅者身心脱落也。


不用焼香礼拝ライハイ、念仏修懺シュサン看経カンキン、祇管打坐始得シカンタザシトク

参禅は身心脱落なり。焼香・礼拝・念仏・修懺・看経を用ゐず、祇管打坐して始て得ん〉」。


 まことにいま大宋国の諸方に、参禅に名字ミョウジをかけ、

祖宗ソシュウの遠孫オン孫と称する皮袋ヒタイ、たゞ一二百イチニヒャクのみにあらず。


稻麻竹葦トウマチクイなりとも。打坐を打坐に勧誘するともがら、

たえて風聞フウモンせざるなり、ただ四海五湖のあひだ、先師天童のみなり。


諸方もおなじく天童をほむ、天童諸方をほめず。


 又すべて天童をしらざる大刹ダイセツの主シュもあり、


これは中華にうまれたりといへども、禽獣キンジュウの流類ルルイならん、


参ずべきを参ぜず、いたづらに光陰を蹉過シャカするがゆゑに、


あはれむべし天童をしらざるやからは、


胡説乱道コセツランドウをかまびすしくするを、仏祖の家風と錯認シャクニンせり。



〔『正法眼蔵』私訳〕 

 また言う、「坐禅は身心脱落である。焼香・礼拝、念仏・懺悔サンゲ・読経を用いず、ひたすら坐禅して始めて身心脱落が得られるのである」。

(又いはく、「参禅は身心脱落なり。焼香礼拝、念仏修懺看経を用いず、祇管打坐して始て得ん」。)


〔「用いず(不用)」という言葉は要らないという意味ではない。坐禅が焼香し、

坐禅があらゆる経を説きぬいているということである。だから底意は、

坐禅が焼香し、礼拝し、念仏し、懺悔し、読経しているのであり、

ひたすら坐禅して始めて身心脱落が得られるということである。〕


 まことに、今大宋国の諸方に、坐禅を標榜ヒョウボウし、達磨大師の遠い法孫と称する者たちが、ただ百人二百人だけではない。

(まことに、いま大宋国の諸方に、参禅に名字をかけ、祖宗の遠孫と称ずる皮袋、

ただ一、二百のみにあらず。)


実におびただしい数であるが、坐禅を〔悟りの道具にせず〕ただ坐禅に導く人は、

いっこうに聞いたことがない。

(稻麻竹葦なりとも。打坐を打坐に勧誘するともがら、たえて風聞せざるなり。)


中国全天下において、ただ先師天童だけである。

(ただ四海五湖のあひだ、先師天童のみなり。)


諸方の住職も同じく天童を褒めるが、天童は諸方の住職を褒めることがない。

(諸方もおなじく天童をほむ、天童諸方をほめず。)


 また天童のことを全く知らない大寺院の住職もいる。

 (又すべて天童をしらざる大刹の主もあり。)


それらは中華の国に生まれたとはいえ、鳥獣の仲間であろう。

(これは中華にむまれたりといへども、禽獣の流類ならん。)


修行すべきであるのに修行せず、無益に光陰をむなしく過ごしているからである。

(参ずべきを参ぜず、いたづらに光陰を蹉過するがゆゑに。) 


哀れむべきことである、天童を知らない連中は、〔各自理会と言って、〕

筋の通らないいい加減な言い草をやかましく騒ぎ立てるのが仏祖の家風であると

誤認しているのである。

(あはれむべし、天童をしらざるやからは、胡説乱道をかまびすしくするを仏祖の家風と錯認せり。)


                         合掌

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