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天童如浄禅師:皇帝から紫衣と禅師号を賜ったが遂に受けず『第十六行持下』16下-18-1

 〔『正法眼蔵』原文〕

 先師天童和尚は、越上人事エツジョウジンジなり。十九歳ジュウクサイにして、

教学をすてて参学するに、七旬シチジュンにおよんでなほ不退なり。


 嘉定の皇帝より紫衣師号シエシゴウをたまはるといへども、

つひにうけず、修表辞謝シュヒョウジシャす。


十方の雲衲ウンノウともに崇重ソウジュウす、遠近オンゴンの有識ウシキともに随喜するなり。


皇帝大悦して御茶ギョチャをたまふ、しれるものは奇代キタイの事ジと讃歎す、

まことにこれ真実の行持なり。


 そのゆゑは、愛名アイミョウは犯禁ボンキンよりもあし。


犯禁は一時の非なり、愛名は一生イチショウの累ルイなり、

おろかにしてすてざることなかれ、くらくしてうくることなかれ。


うけざるは行持なり、すつるは行持なり。六代の祖師、おのおの師号あるは、

みな滅後の敕謚チョクシなり、在世の愛名にあらず。


 しかあればすみやかに生死ショウジの愛名をすてて、仏祖の行持をねがふべし、

貪愛トンアイして禽獣キンジュウにひとしきことなかれ。


おもからざる吾我をむさぼり愛するは、禽獣もそのおもひあり、

畜生もそのこころあり、名利をすつることは人天ニンデンもまれなりとするところ、

仏祖いまだすてざるはなし。



〔『正法眼蔵』私訳〕                                               先師天童如浄和尚は、越の国の人である。

 (先師天童和尚は越上人事なり。)


十九歳のときにそれまでの教学を捨て参禅学道を始め、

六十歳代になってもその参禅学道を怠らずつとめた。

(十九歳にして教学をすてて参学するに、七旬におよんでなほ不退なり。) 


 嘉定の時の皇帝から紫衣と禅師号を賜ったが遂に受けず、上表文を奉って辞退した。

 (嘉定の皇帝より紫衣師号をたまはるといへどもつひにうけず、修表辞謝す。)


十方の修行僧たちがみな崇敬し、遠近の善知識もみな随喜した。

(十方の雲衲ともに崇重す、遠近の有識ともに随喜するなり。)            


皇帝も〔違勅の罪として罰せられないのみか、〕大いに喜び茶を賜り、

これを知る者は非常に珍しいことだと言って讃歎したが、

まことにこれは真実の行持である。

(皇帝大悦して御茶をたまふ、しれるものは奇代の事と讃歎す、まことにこれ真実の行持なり。)


 そのわけは、名誉を愛することは戒律を犯すことよりも悪いからであり、

戒律を犯すことは一時の間違いであるが、名誉を愛することは一生のわざわいであり、愚かにも名誉を愛することを捨てないでいてはならない、

無知によって名誉を受けるようなことがあってはならない。

(そのゆゑは、愛名は犯禁よりもあし、犯禁は一時の非なり、愛名は一生の累なり、

おろかにしてすてざることなかれ、くらくしてうくることなかれ。)      


受けないのが行持であり、捨てるのが行持である。

(うけざるは行持なり、すつるは行持なり。)


六代の祖師に、それぞれ大師号があるのは、みな入滅ののち天子から賜わった

オクリナであり、世に在るときの名誉を愛することによるものではない。

(六代の祖師、おのおの師号あるは、みな滅後の敕謚なり、在世の愛名にあらず。)            


 そうであるから直ちに生死流転のもとになる名誉を愛することを捨て、

仏祖の行持を願うべきであり、

貪り愛して鳥や獣に等しいようなことがあってはならない。

(しかあればすみやかに生死の愛名をすてて、仏祖の行持をねがふべし、

 貪愛して禽獣にひとしきことなかれ。)           


重要でない自我を貪り愛するのは、

鳥や獣にもその思いはあり、畜生にもその心はある。

(おもからざる吾我をむさぼり愛するは、禽獣もそのおもひあり、畜生もそのこころあり、)


名誉利得を捨てることは人間界や天上界においても珍しいとされているが、

仏祖で捨てなかった方はいまだいないのである。

(名利をすつることは人天もまれなりとするところ、仏祖いまだすてざるはなし。)



                           合掌

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