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芙蓉山の楷祖は行持現成の本源の人である『第十六行持下』16下-15-1a

 〔『正法眼蔵』原文〕

 芙蓉山フヨウザンの楷祖カイソ、もはら行持見成ゲンジョウの本源なり。


国主より定照ジョウショウ禅師号ならびに紫袍シホウをたまふに、祖うけず、修表具辞す。


国主とがめあれども、師つひに不受なり。


米湯ベイトウの法味つたはれり。芙蓉山に庵イオリせしに、道俗の川湊センソウするもの

ワズカニ数百人スウヒャクニンなり、日食粥ニチジキシュク一杯なるゆゑに、おほく引去インコす。


師ちかふて赴斉フサイせず。


 あるとき衆にしめすにいはく、「ソれ出家は塵労を厭い、生死を脱することを求めんが為なり、心を休め念を息め、攀縁ハンエンを断絶す、故に出家と名く。


 に等閑ナオザリの利養を以て、平生ヘイゼイを埋没す可ベケんや、

直に須らく両頭撒開し、中間放下チュウカンホウゲして、声ショウに遇い色に遇うも、

石上に華を栽ウウるが如く、利を見を見るも、眼中に屑ショウを著ツクるに似る、


 況や無始以来、是れ曽て経歴キョウリャクせざるにあらず、又是れ次第を知らざるにあらず、頭ズを翻ヒルガエして尾ビと作るに過ぎず。止だ此カクの如くなるに於て、何を須らく苦々に貪恋トンレンすべけん、如今ニョコンは歇ヤマずして、更に何れの時をか待マタん。


所以に先聖人をして只今時を尽却せんを要す。


能く今時を尽さば、更に何事か有アラん。


 若し心中無事を得んには、仏祖も猶是れ冤家オンケのごとし、

一切世事、自然ジネンに冷淡にして、方ハジメて那辺ナヘンと相応す。



〔『正法眼蔵』私訳〕

 芙蓉山の道楷禅師は、もっぱら行持現成の本源の人である。

 (芙蓉山の楷祖、もはら行持見成の本源なり。)


国主より定照禅師の号と紫衣シエを賜ったが、師は受けず、上奏文を奉って辞退した。

(国主より定照禅師号ならびに紫袍をたまふに、祖うけず、修表具辭す。)


国主からお咎めがあったが、それでも師は受けなかったのである。

(国主とがめあれども、師つひに不受なり。)             


薄い粥に堪えた話が法の味わい豊かに伝えられている。(米湯の法味つたはれり。)


芙蓉山に庵を構えると、僧や俗人たちが四方から集まり、ほぼ数百人となった。(芙蓉山に庵せしに、道俗の川湊するもの、僅数百人なり。)


一日の食事が粥一杯なので、多くは去って行った。(日食粥一杯なるゆゑに、おほく引去す。)


それでも師は誓って信者の斎食の供養に応じて出かけることはなかった。

(師ちかふて赴齋せず。)                 


 ある時大衆に説いて言った、

 (あるとき衆にしめすにいはく、)        


「そもそも出家は、世俗の煩わしさを厭い、生死を解脱することを求めるためであり、

(「夫れ出家は、塵労を厭い、生死を脱することを求めんが為なり、)


心を休め念をやめ煩悩に囚われることを断ち切る、だから出家と名付けるのである。

(心を休め念を息め、攀縁ハンエンを断絶す、故に出家と名く。)


無益な利養のために、平生の仏道修行を捨ててしまってはならない。

(豈に等閑の利養を以て、平生を埋沒す可けんや、)


直ちに有無、迷悟、是非、善悪等の対立概念を捨て、その中間も捨ててしまわなければならない。

(直に須らく両頭撒開し、中間放下して、)


どんな声を聞いてもどんな物(色)を見ても、石上に華を植えるように根付かしてはならず、利得を見名誉を見ても、眼の中に入った黄金の屑のようでなければならず、

(声に遇ひ色に遇うも、石上に華を栽るが如く、利を見名を見るも、眼中に屑を著るに似るべし、)


まして久遠の過去から今日にいたるまで、我々は六境や名利をへ経て来なかったわけではなく、その経て来た次第を知らないわけではなく、ただ頭(本来の自己)と尾(現象している自己)を取り違えているに過ぎないのである。

(況や無始より已来、是れ曽て経歴せざるにはあらず、又是れ次第を知らざるにあらず、頭を翻して尾と作るに過ぎず、)  


ただこのように取り違えているだけであるから、六境や名誉や利得に執着する必要はなく、今やめなければ、一体いつやめると言うのか。

(止だ此の如くなるに於て、何を須らく苦々に貪戀すべけん、如今は歇ずして、更に何の時をか待ん。)


だから仏祖は人々に必ずたった今という時を完全に尽くすことを求めるのである。

(所以に先聖は人をして要ず今時を尽却せ教む。)


よくたった今という時を尽くせば、たった今以外に何事があろうか。

(能く今時を尽さば、更に何の事か有ん。)    


もし心中に求めるものが何もなくなれば、仏祖でさえも邪魔者のようなものである。

(若し心中無事を得んには、仏祖も猶是れ冤家のごとし。)


一切の世事に自然と関心がなくなって初めて本来の自己と相応するのである」と。

(一切世事、自然に冷淡にして、方始て那辺と相応す。」)        



                             合掌

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