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玄沙:達磨は中国に来ない、二祖はインドに往かない『第十六行持下』16下-12-2b

 〔抄私訳〕

「福州玄砂宗一大師」の段、文の通りである。

「 法名は師備」。 

雪峰と玄砂の問答で、委しくはこの草子に見える。


 「師答、『終に敢て人を誑かさず』」とある。

これは、ただいたづらに、たぶらかすべきをたぶらかさないというのではない。 悪口なかれなどと『仏性』の巻にあったほどの道理である。

人を置いて、これをたぶらかさないというのではない。


又、「雪峰召んで曰く、「備頭陀何ぞ徧参去せざる」。

師曰く、「 達磨不来東土、 二祖不往西天」とある。


達磨は、実際シナに来られたので、今の答えは当たっていないと思われる。

二祖がインドに往かなかったことは、実に根拠があると思われるけれども、

祖師の皮肉骨髄はみなこの道理なのである。初めて聞くといって驚くべきではない。


                             合掌

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