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雪峰は玄沙の苦行を見て、頭陀と呼んで尊敬した『第十六行持下』16下-12-1

〔『正法眼蔵』原文〕

 福州玄沙宗一ゲンシャシュウイチ大師、法名師備、福州閩県人也ミンケンノヒトナリ


姓謝氏セイハシャナリ幼年より垂釣シチョウをこのむ。


小艇ショウテイを南台江にうかめて、もろもろの漁者になれきたる。


唐の咸通のはじめ、年甫ネンポ三十なり。


たちまちに出塵をねがふ。


すなはち釣舟をすてて、芙蓉山霊訓レイクン禅師に投じて落髪す。


豫章ヨショウ開元寺道玄律師に具足戒をうく。


 布衲芒履、食纔接気、常終日宴坐。衆皆異之。

与雪峰義存、本法門昆仲、而親近若師資。雪峰以其苦行、呼爲頭陀。

 《布衲芒履フノウモウリなり、食ジキは纔ワづかに気を接す、常に終日宴坐す。

  衆皆之を異なりとす、雪峰義存と、本モト法門の昆仲なり、而して親近シンゴンすること

  師資の若ゴトし。雪峰其の苦行を以て、呼んで頭陀ズダと為す。》


 一日雪峰問曰、「阿那箇是備頭陀」。

 《一日、雪峰問ふて曰く、「阿那箇アナコか是れ備頭陀ビズダ」》


 師対曰、「終不敢誑於人」。

 《師対へて曰く、「終に敢て人を誑タブラかさず」》



〔『正法眼蔵』私訳〕

 福州の玄沙宗一大師は、法名を師備と言い、福州閩県の人である。

 (福州玄沙宗一大師、法名師備、福州閩県人也。)


俗姓は謝である。幼い頃から釣りを好んだ。

小舟を南台江に浮かべて、多くの漁夫に慣れ親しんで来た。

(姓謝氏。幼年より垂釣をこのむ。小艇を南台江にうかめて、もろもろの漁者になれきたる。)


唐の咸通五年、三十歳になって、にわかに出家を願った。

(唐の咸通のはじめ、年甫三十なり。たちまちに出塵をねがふ。)


すぐに釣舟を捨て、芙蓉山の霊訓禅師に投じて髪を落とした。

(すなはち釣舟をすてて、芙蓉山霊訓禅師に投じて落髪す。)


予章開元寺の道玄律師について出家の具足戒を受けた。

(豫章開元寺道玄律師に具足戒をうく。)


粗末な木綿の衣を身に着けわら草履を履き、

食はやっと命を保つほどであり、いつも終日坐禅した。

(布衲芒履なり、食は纔かに気を接す、常に終日宴坐す。)


修行僧たちはみな玄沙を稀に見る求道者と認めていた。

(衆皆之を異なりとす。)


雪峰義存とは、もと霊訓に参じた法兄弟であり、

その親しみ方は師弟のようであった。

(雪峰義存と、本法門の昆中なり。而して親近すること師資の若し。)


雪峰は玄沙の苦行を見て、

頭陀ズダあらゆる 煩悩を払い去って仏道を求めることと呼んで尊敬した。

(雪峰其の苦行を以て、呼んで頭陀と為す。)


 ある日、雪峰は玄沙に尋ねた、「どれが頭陀の師備か」。

 (一日、雪峰問ふて曰く、「阿那箇アナコか是れ備頭陀ビズダ」)


 玄沙は答えて言った、「私は決して人をたぶらかすことはありません」。

 (師対へて曰く、「終に敢て人を誑かさず」。)


                             合掌

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